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2007年07月31日

小説の作家がペンネームを持っているように

寿陵と自分で作る戒名

自分の入るお墓を生前に作る事を寿陵というようですが、縁起のいい事、長生きする事とする反面、人によっては寿命を短くするとか、縁起でもないとか言われます。

どっちがどうなのかの判断は私には出来ませんが、個人的な経験で物をいうとしたらこんな気がいたします。

一つには私が亡くなった後は当然私も入るわけですから、私自身がその事については全く危惧する必要がなくなったこと。

従来のお墓があったわけではありませんので私が生きているうちに建立をして、しかも支払いも全て済ませておけば残る家族に永代供養も含めて経済的負担を強いる事はないこと。
多分、数百万の負担になるであろうから。

家族にとっても、自分たちの行く末は多分安心してくれていると判断している。

お墓を作ることによって月に一度程度はお参りに行くわけで、ご先祖の供養をしながら心の安らぎが求められる事。

家族、とりわけ子供たちに先祖の大切さや両の手を合わせて供養と感謝をする事の大切さを私自身が身をもって教えられる事。

こんなところでしょうかね。

今、考えているのは戒名の事です。

家族からは縁起でもないと言われそうですが確か世間にもそんな方々がおられるように思います。

生まれてくるときには当然、自分の名前を考える知恵や経験などはあるわけがありませんが、大人になった今ならば、せめて亡くなった後の戒名くらいは考えられそうです。

それには幾らか仏教の素養が必要かもしれませんが。

でも、面白いと思われませんか。

自分の戒名を常に持ち歩いているなんて。
小説の作家がペンネームを持っているように気軽な気持ちで持ち歩けると、
より親しみが持てそうです。

お盆が近づいてきましたのでこんな事も考える時間があってもいいですよね。
  


Posted by mister_kei0918 at 12:54Comments(0)

2007年07月30日

お陰で人生を踏み外した人間がいたとしたら

人生を左右した先生っていました?

人生の岐路に立ったとき、それを左右する人が存在すると有り難いものです。
それは父親だったり、或いは先輩だったり、若しくは会社の社長だったりもするものです。

学生のときであれば師と仰ぐ先生でしょうか。

先生って言えば、今時はやれ先生の評価が落ちたとか、
先に生まれていれば先生なのかとか、
世間知らずの先生が多いとか、
飲むと行儀の悪い事の代表とされてみたり最近は厳しい目にさらされて大変です。

また、先生たちへの厳しい或いは理不尽な父兄の要望や無理強い、極端なときには脅迫めいた状況も出てきているようです。

オーバーに言えば神と崇めていた先生像が何処かへ飛んでしまい、普通人に成り下がったというのが現在の状況でしょうか。

子供たちと友達感覚で接するとした一部の先生方のあり方も問題だったのではないでしょうか。

先生はやはり先生であるべきで尊敬されるべきもの、指導を乞う有り難い存在であったはずなんです。

人間は平等ではありますが、夫々の立場や状況で尊敬されるべきものがあります。現在はそれを失ってしまいました。

人生で岐路に立つとき、
左右の道を選択するとき、
或いは子供が判断に迷っているとき、
またはこの子には進むべき道を示唆してあげて方がいいとき、
先生の存在がそこで問われるのではないでしょうか。

私も或るとき、15歳のときだったでしょうか。

大きな岐路に立たされました。でも本人はそこでの判断の大切さを認識してませんし周りにもその事を指摘してくれる存在はありませんでした。

そのときの先生の判断がその後の私の人生を大きく変えてくれました。

多分そのときの私の判断のままで進んでいたら今の人生は無かったかもしれませんし、或いはもっと苦しい大変な人生になっていたであろう事は容易に想像できます。

先生は先に生まれた人ではなく、
先に人生を果敢に勇敢に、
しかも正しく知識豊に過ごした人間なんです。

その事を先生方は認識をされて、教師という仕事の大切さや役割を改めて考えて欲しいものです。

あなたには人生を左右するほど素晴らしい先生の存在はありましたか。

逆に先生のお陰で人生を踏み外した人間がいたとしたらそれは本末転倒、
そんな先生は糾弾されるべきでしょう。

先生は神様ではありませんから全てを望むわけではありませんが。
  


Posted by mister_kei0918 at 13:14Comments(0)

2007年07月29日

明日って言わないで今日からにしましょう

「苦労したなんて言うな!!お前を見りゃわかる。」

今、NHKテレビを見てましたら加山雄三さんの言葉に耳を奪われました。

つい、言ってしまうんです。
「若い頃は、幼い頃は苦労したんだよ」、
「人にはいえない苦労を背負ってね」、
「苦労を絵に描いたような人生だったね」、
「口に出せない、語ると涙が出そうなほど苦しい人生だったよ」、
「この苦労がなければ、もっと増しな人生を送れたはずなのに」、
「人は苦労は買ってでもしろ!!なんていうけど、これ以上はごめんだね」、
「苦労している人間の前に道なんて見えないね。見えるのは棘だけ」、
「俺の前に知己も寄り付かなくなったね、苦労のバリアが障壁になって」
「俺が甲斐性が無いばかりに家族に苦労かけてね」


・。

言っていると言葉に詰まることはありません、苦労を語れば。

つい口をついて出てしまうものです。

実は自分の周りにいる友人知人は本人オの苦労なんて実は関心が無い事に気づいていないんですね。

大事なのは今だということに。

今に懸命に前向きに、
明るく、
力強く逞しく、
勇気を持って、
他の方々に少ない幸せだって分け合って生きる事が
大事だという事に気づいていないんです。

「苦労したなんて言うな!!お前を見りゃわかる。」

そうなんですね。言わなくたってわかるんです。

その方の語り口、表情、しぐさ、所々に滲む所作、目の動きや笑顔の形・・・。その重みこそが大事でしょう。

という事は人生が体や心から滲み出るようなあり方。語らずとも語る人間のあり方を求めていく事でしょうか。

人生が体や心の隅々に染み込むように真剣に、そして真摯に取り組むことに尽きるようです。

すると「苦労したなんて言うな!!お前を見りゃわかる。」なんて状況になるのかも。

難しいように思えますが、どうも私にも実践できそうです。

明日からそうしましょうかね、と言っていると家内から
「おとうさん、明日って言わないで今日からにしましょう」等と言われそうです。
  


Posted by mister_kei0918 at 11:52Comments(0)

2007年07月28日

お金と時間は幾らか要するのかも知れませんが

本物を見る癖

昨日は「本物の人に会う癖」を書いてましたら色んなところで色んな反応を戴きました。人ってやはり最大の関心事は人なんですよね。

では物はどうなんでしょうか。

私は元来、絵は自分でも描けませんし観賞の機会もそんなにありませんでした。それには一つのエピソードがあります。

実は事情があって数ヶ月しか通っていない幼稚園の頃の自分の絵を小学校の何年生の頃か記憶が定かではありませんが、偶然に見る事がありました。確か父親と母親の絵だったと思います。

これがとんでもない絵なんです。
今で言えば精神鑑定でもした方が良さそうな絵で、いくら幼稚園の子供にしたってひど過ぎると思われても仕方のないような。

ですから未だに絵を見ると自分の感性のなさに寂しい思いをしています。逆に上手に書ける方には大いに時間を作って描いて欲しいものです。

音楽もそうですね。
余り聴く機会に恵まれなかった事もありますし、楽器に慣れ親しむ家庭の環境でもなかったことも由来するのでしょう、金銭的にも。

でも小学校の学芸会では赤とんぼの歌を独唱した事はあるんです。

その他の人の感性を揺さぶるような趣味や特技は何一つ身につけることは出来ませんでした。
でも、その事の大切さを否定するものでもありません。

今はむしろ、その分を取り戻すべく時間があれば美術館や博物館、コンサート会場へ出向きます。

同じ一生ですからしっかり取り戻さないとね。

多くの人々が其の事によって豊な感性に浸っているのに、私一人が損をしてきたようで。

始まりは久留米の石橋美術館でした。
偶然に通りかかったわけですが飛び込みで入ったのが「マリーローランサン」の展示会でした。本物の絵画に触れたときの感動は未だに忘れません。

その後は絵に限らず、陶芸や書画でもなるべく本物に出会う癖、見る癖を、機会を作るように努めております。

本物の人に出会うことに負けないくらいに必要な本物との出会い。それは感性を揺り動かしてくれますし気づきを与え、安らぎと癒し、行動を後押ししてくれます。

お金と時間は幾らか要するのかも知れませんが、古来から本物を求める人々の想いには心のそこから湧き出る何かがあるのかもしれません。

華美に彩られた物を異常に身につける必要もありませんし、分不相応でも可笑しいですよね。本物を求まる余り、生活を省みない行動や所作を見る事もありますが、惑わされてもいけませんよね、或いは他人の物に手を染めたり。

私などはやはり見る癖程度に留めておいた方が良さそうです。
  


Posted by mister_kei0918 at 09:52Comments(0)

2007年07月27日

結婚の場合はそれだからこそいいのでは?

本物の人に会う癖

本物の人とか言うと失礼な言い方に聞こえたり、差別的に聞こえないでもありませんが、実は世の中には本物の人が実在するのも間違いのないところです。

本物の人が実在すると言うと実在するから本物だと切り返されそうですが、本物の情報を持っている人、真実に迫る考えや、行動パターンを持っている方が世の中多くはありませんがおられるものです。

そんな方は比較的個性的で、何となくそんな雰囲気をも醸し出しているものです。

私どもが普段接している人々を別に差別的に見るとか接するとかいう事ではなく、時には身震いをするような本物の人に出会うことは極めて大事であり、進んで機会を作るべきであるように思います。

その事は自分が磨かれていくことでもあり、寸文の一でも本物に近づく方法でもあります。

そんな人々は決して自分を本物だなんて意識のかけらも持ち合わせていないものです。当然自分から本物だなんて言う訳もありません。

見極めるのは自分なんです。自分の力で本物の人を見極める力、それを養う必要があります。
それは普段から一人でも多くの人とお会いする事ではないでしょうか。

相性が合うとか、どうも気が合わないとか、会っていると楽しいとか、気が塞ぎこむとか、なんとも感じないとかありますが出来れば好き嫌いを越えて付き合えるといいのですが。

私ども凡人には分け隔てなくなんて付き合いは中々出来ませんが、数度に一度くらいは気の会わない人にだって会うほうが良いように思われます。

本物の人を見つけるには様々な人に会ってこそ、その差や存在の度合いが測れるものですし自分の人生にとって素晴らしい出会いに気づく機会が多いほど有用に働きそうです。

自分が本物化していくかどうかは、その人の精進や環境、心構え、生まれ、取り巻く人々によって決まるのでしょうから自分での確認は出来ないでしょうが、近づいているかはどうも感じる事は出来そうです。

或いは周りがそんな判断を下してくれそうです。

どうせ生きていくなら本物の人間だといわれるようにありたいものです。

結婚でも本物の相手に出会うといいのですが短い期間でしかも自分自身も未熟な者同士が本物として出会うのはとても難しいものです。

結婚の場合はそれだからこそいいのではないでしょうか。終生連れ添う中でお互いの人間性を高めながら本物化を目指していく。それが結婚の素晴らしさであり意義深さでしょう。  


Posted by mister_kei0918 at 10:55Comments(0)

2007年07月26日

父親像とか母親像に置き換えて読んでみると

孔子の政治家の資格とは?から学ぶ経営者像

昨日、参議院選挙が近いという事から2600年前の孔子の言葉を引用しましたが改めて読んでましたら私どうも経営者への戒めにも聞こえてきました。

勝手ながら経営者の資格とは?と問うて見たら孔子からこんな言葉が帰ってきたのかも。

(昨日のブログをご覧になってください。また、大事なしかも大好きな孔子の言葉を勝手に書き直すことをご勘弁下さい)


「五美を実行し、四悪を排除できれば資格が充分だ」と答えています。

その五美とは?と問われて

「上に立つ者は、お客様や社員に恩恵を与えてしかも会計を乏しくしないこと。
社員を使役してしかも不満を抱かせぬこと。
気宇宏大であってしかも寡欲であること。
泰然としていてしかも傲慢でないこと。
最後に、威厳があってしかも圧迫を感じさせぬこと。
この五つがそれだ。」

では、四悪とは何ですか?と問われて

「社員教育をおろそかにしておきながら、
いきなり就業規則にそむいたといって社員を処罰するやり方、
これを残忍といわずに何といおう。
指導もせずにいて実績をあげろと強制する、
無茶としかいいようがない。
はっきり命令を下さずにいながら、
突如として実行を迫る、それは非道というものだ。
出すべきものもケチケチ出し惜しむもったいぶったやり方、
これが悪しき経営者根性である」


当てはめてみると本当にしっくりいくものですね。
という事は何事も本質、本道、基本は変わらないという事でしょうか。

また、その付近が経営者の悩むところなんですね。

裏返して言い返してみると、逆に経営者の苦しみをつかむ事ができます。

或いは父親像とか母親像に置き換えて読んでみるとこれがまた、しっくりいくから不思議です。


昨日、参議院選挙が近いという事から2600年前の孔子の言葉を引用しましたが改めて読んでましたら私どうも経営者への戒めにも聞こえてきました。

勝手ながら経営者の資格とは?と問うて見たら孔子からこんな言葉が帰ってきたのかも。

(昨日のブログをご覧になってください。また、大事なしかも大好きな孔子の言葉を勝手に書き直すことをご勘弁下さい)


「五美を実行し、四悪を排除できれば資格が充分だ」と答えています。

その五美とは?と問われて

「上に立つ者は、お客様や社員に恩恵を与えてしかも会計を乏しくしないこと。
社員を使役してしかも不満を抱かせぬこと。
気宇宏大であってしかも寡欲であること。
泰然としていてしかも傲慢でないこと。
最後に、威厳があってしかも圧迫を感じさせぬこと。
この五つがそれだ。」

では、四悪とは何ですか?と問われて

「社員教育をおろそかにしておきながら、
いきなり就業規則にそむいたといって社員を処罰するやり方、
これを残忍といわずに何といおう。
指導もせずにいて実績をあげろと強制する、
無茶としかいいようがない。
はっきり命令を下さずにいながら、
突如として実行を迫る、それは非道というものだ。
出すべきものもケチケチ出し惜しむもったいぶったやり方、
これが悪しき経営者根性である」


当てはめてみると本当にしっくりいくものですね。
という事は何事も本質、本道、基本は変わらないという事でしょうか。

また、その付近が経営者の悩むところなんですね。

裏返して言い返してみると、逆に経営者の苦しみをつかむ事ができます。

或いは父親像とか母親像に置き換えて読んでみるとこれがまた、しっくりいくから不思議です。
  


Posted by mister_kei0918 at 07:42Comments(0)

2007年07月25日

五美を実行し、四悪を排除

選挙の前に今一度、政治家の資格

平成16年のブログに一度書いたことがありましたが、29日の参議院選挙を控えて改めて政治家の資格を考えてみる事にしました。

2600年前の孔子が政治家の資格について尋ねられて。

「五美を実行し、四悪を排除できれば資格が充分だ」と答えています。

その五美とは?と問われて

「上に立つ者は、人民に恩恵を与えてしかも国庫を乏しくしないこと。
人民を使役してしかも不満を抱かせぬこと。
気宇宏大であってしかも寡欲であること。
泰然としていてしかも傲慢でないこと。
最後に、威厳があってしかも圧迫を感じさせぬこと。この五つがそれだ。」

では、四悪とは何ですか?と問われて

「社会教育をおろそかにしておきながら、
いきなり法律にそむいたといって人民を処罰するやり方、
これを残忍といわずに何といおう。

指導もせずにいて実績をあげろと強制する、
無茶としかいいようがない。
はっきり命令を下さずにいながら、突如として実行を迫る、
それは非道というものだ。
出すべきものもケチケチ出し惜しむもったいぶったやり方、
これが小役人根性である」

今から2600年前の孔子がこんな事を言われたのです。

何時の世も変らないものだと思うのか、
今の時代が余りにも変わりすぎたものだと思うのか。

庶民の政治家に期待するのはやはり変らないのでしょうね。

或いは政治を行う人も所詮は人、私どもと離れた存在ではないのかもしれません。

よく言われる言葉に「政治家も国民のレベル」。

結局は私共の素養とか知識のレベルを上げる事が政治家のレベルを上げる事の成るのでしょうか。
逆に責任転嫁をされているようにも思えますが。
  


Posted by mister_kei0918 at 21:09Comments(0)

2007年07月24日

昂揚することなく物静かに、平然と

あれこれ考えない様に

今月は総会への出席の数が14~15回にもなります。

その全てでお願いや挨拶をさせていただきますがもうその場に及んで、
じたばたしない、
慌てない、
なるようにしかならない、
上手を言おうなんて考えない、
時間をあまり取らないように簡潔に、
威圧的な言葉や土足で人の懐に入るような言葉使いをしない、
儀礼をわきまえ謙虚さを忘れない、
主催者のご苦労を思いやり礼を尽くす・・・

そんな事を考えてます。

それと言葉足らずやお願い、説明不足を後で悔やまない事も必要かもしれませんね。

大事な事はしっかり発言しなくてはいけませんが大筋で言わんとすることが伝わればそれで良しとしないと悔やんでも仕方はありませんし、その事は結局あとへ尾を引いてしまいますのでさらっと流す必要があるようです。

でも、何の準備も心がけもしないで出かける事はいけませんよね。

挨拶やお願いをされる方々に大変失礼な事ですし。

また何を言おうとしているかがはっきりしないとか、ちぐはぐとか、しどろもどろでも極めて礼を欠くことになります。

ですから事前の研究や情報の収集、若し必要なら分析も必要かも。

事に及ぶ前にそれなりの準備がなされていると自信を持って挨拶だってお願いだって報告も出来るものです。

今日も2回の総会に望みます。

でも、昂揚することなく物静かに、平然と出席を致します。

その事が私自身の経験ですし、新たな勉強であり、大事な人間関係つくりです。

大切な機会は私自身が活かさないと誰も手を貸してなんかくれません。
  


Posted by mister_kei0918 at 10:18Comments(0)

2007年07月22日

西郷隆盛南州翁の残された言葉

「敬客愛品」の文字

昨日、福岡市内を走ってましたら「敬客愛品」の文字を書いた大型トラックが走ってました。

多分西郷隆盛南州翁の残された言葉「敬天愛人」を捩られたのではないかと想像いたします。

明治維新の最大の功労者といっても過言ではないでしょうが、幾つもの素晴らしい言葉や逸話、実績を残されてますが最も親しまれて使われる言葉の一つではないかと思います。

「天を敬い、人を愛す」昔でなくても、というかむしろ今こそこんな思いが隈なく人々の心の奥底に存在して欲しい言葉の一つです。

また、これを上手に利用?されて会社や団体の思い入れとされておられる事に敬服を致します。

「敬客愛品」、お客様を大事にし、取り扱う商品を愛情を持って接する。

多分運送関係の会社ではなかったかと想像はしますが確かな事ではありません。

過去の方々の残された言葉には確かに重みを感じます。
一つでも多く、そんな言葉に接する事も極めて大事な事のようです。
  


Posted by mister_kei0918 at 08:28Comments(0)

2007年07月21日

結婚をするまでは上げ膳据え膳

常に目標は高く、そして時々見直しを

私もそうですがつい自分の目標としているところへ到達すると達成感や場合によっては空虚な気持ちになりがちです。

場合によってはお山の大将のような気分に浸ってみたり、見下してみたり、達成できない人を卑下してみたり、優越感で一杯になってみたり。傲慢さや高慢な態度は結局、周りから自分を遠ざけ孤独の坩堝に落ち込んでしまいます。

結婚の時の事を考えてみてもこんな話を良く耳にします。

「恋愛中は良く気を配ってもらっていたけど、結婚した途端に口やかましくなったり、怒りっぽかったり、我侭な口調になったり、何処にも連れて行ってくれません」。

妻は娶ってみれば自分のものだととんだ思い違いをしてみたり、手に入れたが最後、自分が天下を取ったような我侭放題な輩も存在するものです。

私の存じ上げてる女性は結局離婚をしてしまいました。

結婚をするまでは上げ膳据え膳に徹し、女性を手に入れるや手のひらを返したように人間が変ってしまうなんて良く聞くものです。

それは一人の好きな女性を結婚まで持っていくには男性にとって並大抵の努力ではありませんがそれは女性とて同じこと。

オリンピックでメダルを手にした優秀な選手が目標を失って挫折の人生を送ってみたり、以後の人生が狂ったなんて話も少なくはありません。

起業だって一緒、頭の中でこんな会社にしたい、売り上げも此処までもっていきたい、社員も何十人も採用してなんて夢を掲げて起業をするものです。そんなに甘いものではありません。

起業をして多くが一年以内に消滅する時代といわれてます。

起業をする事が目的ではあっても目標ではありません。結婚をする事が目的ではあっても目標ではありません。

目標だって、夢だって実現すれば終わりではいけませんよね。
たとえ高邁な目標を達成したとしても時々は見直しをしてまた違った目的や目標、夢を掲げなくてはいけません。

結婚が出来たら、次は子供でしょうか、次は自前の家でしょうか、独立だってそうかもしれません、お墓だってあります、資産作りだって夫婦の目標になってもいいですよね。

次は素晴らしい子供にするには親としてどういう目標を立てればいいのか、お互い夫婦として人間性を高めるにはどのように努力をするのか、際限なく目的目標は出てくるものです。

目標は目じるしや目当て。
目的は目先の的ですよね。

という事は所詮、当面の行くべき宛(あて)のように思うのです。

であればそこまでたどり着けば新しい目標目的を作らないと路頭に迷ってしまう、勢いを失う、或いは人間性さえも失ってしまう事にもなってしまいます。

その事がプレッシャーになってもいけませんし、精神的苦痛でもいけませんが、心地よい快感をさえも感じるようになれば大成功かもしれません。

人間は不思議なものです。目標としていた1mのハードルを越すと次の1m20cmのハードルが越せるのです。

さあ、次の目標は何処に定めましょうか。

『人生の目標を達成しようとする時、限界がたった一つある。それは、自分が決めた限界である。(Dウェイトリー)』
  


Posted by mister_kei0918 at 10:47Comments(0)

2007年07月20日

比較的身近におられたりもするものです

重い人、軽い人

世の中全てが一様に出来ているわけではありませんのでそんな疑問は当たり前と言われそうです。

同じ年頃なのに若く見える人、老けて見える人。

同じ生まれ育ちなのに落ち着いている人、いつもそわそわ落ち着きのない人。
笑いの絶えない人、苦虫を咬んだように眉間にいつも皺を見せている人。

周りに何となく明るい雰囲気を醸し出す人、周囲にバリアーをいつも築いて寄せ付けないでいる人、或いはいるだけで澱んだ空気を持ち込む人。



昨夜も多くの方にお会いしましたが不思議なものです。

そんなに年が離れている訳でもないのに妙に落ち着いて人望がありそうで力(腕力ではなくて)がありそうで、地に足がしっかり着いていそうで。

その反面、私のようにどうも心もとなくて、弱弱しくて、頼りなくて力もなさそうで、どうかすると萎えそうで、自信もなさそうで。

その差は何処から来るのでしょうか。

どうも観ていると人格と識見とは言いますが
やはり、日頃の経験の積み重ねのように思われます。
様々な葛藤や修羅場を潜り抜けて、実践的な経験を積み重ねてきた人、
弛みなく、継続的に率先して行動をしてきた人、
人の顔色を伺うことなく信念に基づいた、
しかも真実を求めようと努力をされた方、
自己への投資を怠らず常に人との係わりの中にある人。

世の中にはそんな人は殆どいないと思われがちですが、比較的身近におられたりもするものです。

若い方々のこれからはそんな方々にどれだけ多く接点をもてるのか、それによって人生の展望が開けたり思いがけない飛躍だってありえるものです。

今はいい人見っけの時代。

素晴らしい人はその人となりを身につけておられるものです。
尊敬とは尊び敬うと書きますが一人でも多くの尊敬できる人に会う努力が将来の鍵を握るといっても過言ではないと思われます。

今になって見ますとどうして早くからそんな事に気づかなかったかと悔やまれますが、まだ決して遅くはないでしょう。
  


Posted by mister_kei0918 at 12:28Comments(0)

2007年07月19日

正面向かって人と喧嘩をするようなこと

ごめんね、すみませんは先に言ったが勝ち

難しいですよね。

もうどのくらいになるのでしょうか、喧嘩なんて全くしなくなりました。年を重ねた精でしょうか。

年を取ると丸くなるの、頑固になったのと良く巷で言われます。
世の中を達観できるようになり何でもとりあえず受容できるようにもなりますし、経験を重ねると物事の見方や判断が偏ってくる、或いは固定的になるというのでしょうか、所謂頑固な側面も出てきますよね。

もう正面向かって人と喧嘩をするようなことはありませんが、日常的に人との係わりは欠かせないものがあります。

迷惑やお手数を掛けたら、すかさず「ごめんね」

私の為に時間を割いてくれたり、物を戴いたら「すみません」或いは「ありがとう」でもいいんでしょうが素直な気持ちで口をついて出てくれると嬉しいですね。

つい、気に触ったりする事もありますがごめんね、すみませんは先手を打った方がどうやら勝ちのようです。

気持ち的にむしろそんな気分で無い時ほど、後で有用に働いてくるように思われます。

立場が逆転してしまうというか、本来向こうの方が言うべきことを先手を打ってこちらがすると気分的にも優位に働きますし、何といってもすっきりする事請け合いです。

ごめんね、すみませんを癖になって言い続けていると、不思議と人との諍いや葛藤もめっきりなくなりますし、むしろ気分爽快な日々が過ごせるといっても過言ではありません。

言うほど損もしませんし失うものもありません、
むしろ相手の心を引き付けるには最も素晴らしい言葉のように思われます。

さて、今日は何回ごめんね、すみませんをいいましょうかね。


難しいですよね。

もうどのくらいになるのでしょうか、喧嘩なんて全くしなくなりました。年を重ねた精でしょうか。

年を取ると丸くなるの、頑固になったのと良く巷で言われます。
世の中を達観できるようになり何でもとりあえず受容できるようにもなりますし、経験を重ねると物事の見方や判断が偏ってくる、或いは固定的になるというのでしょうか、所謂頑固な側面も出てきますよね。

もう正面向かって人と喧嘩をするようなことはありませんが、日常的に人との係わりは欠かせないものがあります。

迷惑やお手数を掛けたら、すかさず「ごめんね」

私の為に時間を割いてくれたり、物を戴いたら「すみません」或いは「ありがとう」でもいいんでしょうが素直な気持ちで口をついて出てくれると嬉しいですね。

つい、気に触ったりする事もありますがごめんね、すみませんは先手を打った方がどうやら勝ちのようです。

気持ち的にむしろそんな気分で無い時ほど、後で有用に働いてくるように思われます。

立場が逆転してしまうというか、本来向こうの方が言うべきことを先手を打ってこちらがすると気分的にも優位に働きますし、何といってもすっきりする事請け合いです。

ごめんね、すみませんを癖になって言い続けていると、不思議と人との諍いや葛藤もめっきりなくなりますし、むしろ気分爽快な日々が過ごせるといっても過言ではありません。

言うほど損もしませんし失うものもありません、
むしろ相手の心を引き付けるには最も素晴らしい言葉のように思われます。

さて、今日は何回ごめんね、すみませんをいいましょうかね。
  


Posted by mister_kei0918 at 15:03Comments(0)

2007年07月18日

単なる節約家、倹約家ではなくて

補修だらけのランドセル

皆さんの小さい頃はどうでした?

目の前を大きなランドセルを背負った一年生でしょうか、すれ違いました。

私の一年生時代は勉強机なんて当然買って貰える環境でもありませんし、洋服だって制服ではありませんでしたので新しく買っていただいたものの中で今でも鮮明に思い出すのはランドセルです。

あ、そう言えば入学式の洋服は新調して貰ったような気がします。
たった一枚の写真が存在しますから。

母親に初めて会ったのが一年生になる直前でした。
母としても多分、一年生になるときには自分の元へ呼び寄せる事でそれなりの準備はしていたのかもしれませんね。

入学式の前夜、買って貰ったランドセルを背負っては下ろし背負っては下ろしをした記憶があります

そのランドセルは実はボール紙で出来ていたんです。

今時そんな事はありませんし想像も出来ないでしょうが実はそんな時代だった事もありますが当然皮で出来たランドセルなんか買える訳がありません。

使っているうちにひび割れが出始め、テープで留めて背負った記憶があります。芯がボール紙ですから裂け始めると止まりませんよね。

でも、後生大事にしたものです。
何年生まで使ったかは記憶にありませんがそんなに長くはなかったでしょう。

消しゴムだってそうでしたね、粉になるまで使いましたし。
鉛筆だってもう芯だけになりそうなところまで使ったものです。

節約、倹約だけが美徳とは思いませんが、気持ちに中にはいつも持っていなければいけないことですよね。

時には笑われるくらいに節約家だったり、倹約家だったり。でも時には凄い決断でもって驚くほどの物や情報を買うこともあったりして。

どうも周りの人、特に自分一代で大きな資産を手に入れたり、しっかりした経営をし大成した先輩たちを見ていると皆さんそんな一面を持っておられます。

単なる節約家、倹約家ではなくて、その時の為に備えつつ必要と決断したとき、チャンスと見たときには違った一面を見せられるようです。

こんな文章がありました。

『ボロボロの筆箱。A君が6年間使い続けた筆箱です。
「1年生のとき、担任の先生から言われたんです。
『筆箱は6年間大切に使うように…』って。だからボクその約束守ったんです」。
お母さんが言いました。
「おかげでものを乱暴にしないだけでなく、人を大切にする子どもに育ちました」。
先生の一言ってすごいですね。』   


Posted by mister_kei0918 at 07:30Comments(0)

2007年07月17日

不思議なものですがこんなときに限って

約一ヶ月で10数回の総会

今月は2日に一回のペースでの総会参加です。昨年も幾らかこんなスケジュールでしたが今年はそれにいくつか重なってきました。

でも、何とか乗り越えないといけない事ですから根を上げる事はありません。

当然会社の経営や色んな活動をこなしながらですので大変なスケジュールですが、こんな事も人生の中では充分にあり得ることですし、これからも起こりえることですから与えられた事と受け止めて頑張る事にしています。

中には壇上からお願いや挨拶だけで途中退席をさせていただくのもありますし、中座が許されない最後までいなくてはいけない総会もあります。

不思議なものですがこんなときに限って様々な予定も飛び込んでくるものです。スケジュールはほぼ真っ黒状態になってしまいました。

台風だとか地震だとか、自分の力でどうしようもない災害を抱えた方々が早く落ち着かれますように、救われますように祈念をしながら、自分の力で消化できる程度の私の予定を淡々とこなしていかなくては。

今月は留まることを許されない一ヶ月になりました。
  


Posted by mister_kei0918 at 14:37Comments(0)

2007年07月16日

過酷な自然と向き合いながら、

またもや大惨事になってしまいました

先日6月の30日だったでしょうか。新潟県山古志村(現在の長岡市でしょうか)の方が福岡へお見えになられて2002年でしたか、その時の地震災害に福岡県の方々に多くの義捐金や物資をいただいたことに対するお礼の言葉を聴いたばかりでした。

まさか今日また、新潟地方に地震が起きるなど想像も出来ませんでしたが
一番に先日頂いたお礼の言葉が思い起こされました。

強烈な台風が沖縄、奄美大島、南九州、四国、紀伊半島から太平洋側の日本海側を爪あとを残しながら通りすがったばかりというのに。

過酷な自然と向き合いながら、闘いながら歴史を積み重ねてきた日本ではありますが余りにも過酷なように思われます。

被害がこれ以上増えませんように、かつ被災をされた方々が一日も早く立ち直れますように祈念いたします。

家内から「何かお手伝いできる事があればしないといけないね」と。  


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2007年07月13日

プロの世界で一流になるには

「オアシス」と「オイアクマ」

最近はどうなんでしょうかね。

私どもがPTA活動などをしているときには「あいさつ運動」とか「オアシス」キャンペーンだとかを一生懸命にしていたように思います。

朝の早い時間に小学校の通学路の角々や信号のある交差点などに父兄が立って、通学路の安全確保もありますが子供たちへ「おはよう」の元気な掛け声で挨拶の大事さと寝ぼけた眼(まなこ)を見開いて校門をくぐって欲しいからの思いでした。

昨日、ある道路を車で走ってましたら久しぶりに見かけました。

オ:おはようございます
ア:ありがとうございます
シ:失礼致します
ス:すみません

間違いありませんかね。もう昔の事でしたので忘れかけてます。

それと私の頭の中でいつも思い出す言葉があと一つあります。それがオイアクマなんです。何か口に出すには憚りますがこびりついて離れない言葉です。

これは確か、プロ野球の阪急の名選手だった福本選手の言葉ではなかったでしょうか。

盗塁の記録をいくつか持っていましたし、足にかけた3億円の保険金、確か国民栄誉賞を断ったという事でも話題になった方でした。

間違っていたらご容赦下さい。

オ:驕るな
イ:威張るな
ア:焦るな
ク:くさるな
マ:負けるな

体格にも恵まれない方がプロの世界で一流になるには並大抵の事ではないと思いますが常に自分に言い聞かせながら努力を重ねられたのでしょう。

自分なりの言葉を持っているといいのかもしれませんね。
戒めになったり、反省になったり、時には勇気付けの言葉だったり励ましだったり。
  


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2007年07月12日

こんな体験談を聞かせて頂きました

父親になれないお父さん

こんな体験談を聞かせて頂きました。

形は違っても世のお父さんの中には似たような体験をされている方々がおられるのではないでしょうか。

子供は大好きなんだけど、どうも壁が存在する。
抱いてあげたいのだけれどもどうしても子供が抱けない。
手をつないで歩いてみたいのだけれどもどうしても手がつなげない。

その方は若い頃から大型の船舶、或いは巨大タンカーの船員を長い年月に亘って体験をされました。

一年のうち、ご自宅にいるのは連続した3ヶ月だけだそうです。
それ以外の年月は世界中の港という港は殆ど行きつくすほど航海の連続だったようです。

大きくなった子供や奥様にとっては「口やかましい亭主は元気で留守であればいい」ではありませんがそんな一面もないではありませんよね。

でも子供の小さい頃、成長著しい頃を思い起こすと判りますが、

赤ん坊の顔を見て次会うときはもう歩いている、
歩き始めたときに会った子供は言葉を喋り始めている、
次にあったときには保育園へ行き始めたいる、


何時も身近にいない人間なんて幼い子供にとっては他人と同じですよね。
幾らか慣れたときにはまた一年に近いほど離れてしまう。

その方は子供をしっかり抱きとめられない自分にもどかしさを感じたといいます。
子供のほうも抱いて欲しいと思うのでしょうか、自分の周りをぐるぐる回るしぐさをするといいます。

親子ともどもにそんな思いに駆られながら約20年間、船員を続けられたと言っておられました。

その後は奥様とも離婚をされ、どうも子供さんはご自身が引き取っておられるとのこと。

その付近は不思議ですよね。
子供と馴染まなかった父親、父親の胸に直に飛び込めない子供たち。両親が離婚したら母親のところに行かず父親と共に生活をする。

それは母親の性格や離婚の原因が明確でもありませんので判りませんが或いはそうなる必然性があったのかも知れませんしね。

ご自身の父親もやはりそのような勤務状態の船乗りだったようで父親からは決して「船乗りにはなるな」と言われてたようです。自分が経験してみると父親が言っていた事が良く理解できるとのことでした。

今は船員をやめて新しい奥様を迎えられて、起業をされ事業も確立をされておられます。

私も相手は子供ではありませんが似たような思いが今でも駆けずり回っています。
  


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2007年07月11日

「桜田門外の変」井伊直弼

「一期一会のこころ」、身近な人から始まるもの

昨夜は一期一会について学んできました。

福岡市博多区にあります安国山・聖福寺の133世住職、細川白峰老師のお話でした。

聖福寺は福岡の人々のとっては非常に馴染みの深いお寺で1195年ですから、1192年(いいくに作ろう)の鎌倉幕府の始まった数年後に栄西禅師が当時の源頼朝に言上書を出し作られたようです。

しかも日本で最初の禅寺としてもつとに有名です。境内にお邪魔しても癒されるような、心静かになるような、包まれるような面持ちになるのは私だけではないようです。

2014年には栄西禅師が没されたから800年を迎えられるようで盛大な法要が営まれるようです。

仏様のうち過去、現在、未来に当たる阿弥陀、釈迦、弥勒の三世仏が全てそれまでに造立されるとのことです。

私の今までの解釈では一期一会というと、今日はじめて会う方、久しぶりに会う方との縁を大切にと解釈をしていましたが老師は自分の父母、夫や妻、子供を含む家族の一期一会こそ最も大事なものと教えていただきました。

出来れば朝起きたとき、布団の上に胡坐をかき今日一日の家族をを思い、夜床に臥す前に今日一日の家族の安寧を感謝するぐらいの時間は作っていただければとのことでした。

そう言われてみるとそうですよね、
身近な家族には感謝をする事なんて殆どありませんが今の自分の存在は家族に負うところが甚大ですし、家族がいるから幸せに健康にも過ごせるものです。

今日また、家族と会えて幸せを祈り分かち合い、感謝をしあう姿が本来の一期一会なのでしょう。

そこから全ての物が始まるのかもしれません。

言われるには一期一会という言葉は「桜田門外の変」で46歳で命を落とした幕末の大老・井伊直弼が始めて使い始めたとのことで当時盛んに行われていた茶の作法や生業にも関係があるようです。
  


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2007年07月10日

恥ずかしいやら、目を逸らすやら

他人の奥様と真剣に見詰め合って

去る7月7日は福岡市中央区で開催されたコーチングのセミナーへ行ってきました。

知人の紹介でした。
極めてコミュニケーション下手で、しかも対人恐怖で口下手な私にとっては意義深い、貴重なセミナーでした。

残念でしたのは午前中の基調講演は聞けましたが午後は来客やら会議やらで参加が出来ませんでした。
最後まで聞いてしっかり勉強をしていたら、この文章ももっと立派なものになっていたかもしれません。

後半になった基調講演の講師から「近くの方とペアを組んでください」、私の席の近くには前後は別にして両サイドに人がいません。

続けて「できれば知らない方のほうがいいです」、それでも側に人がいませんからペアの組み様がありません。
私の席は後方だし別にペアなど組めなくても結構だし、或いは近くの人たちの行動を眺めていればいいだろう程度に考えていたんですが。

後方から「お客さん、この方とペアを組んで戴けませんか」とスタッフの方の緊張した切羽詰った表情の声。

連れてこられた方を断るのも失礼だし「あ、結構ですよ」と見上げながら答える間も無く中年の奥様思しき方が隣に座られました。

間も無く講師から一分以上?或いはそれ以上の時間だったかもしれませんが「目と目を見つめ合ってください」というのです。

元来、家内とだって10秒と目を見つめる事なんてなかったのに全くの見ず知らずのしかも妙齢のご婦人であろう方と1分か2分、或いは3分だったかもしれませんが、目を見つめるなんて。普段そんな事出来るわけがありませんよね。

恥ずかしいやら、目を逸らすやら、照れ笑いで誤魔化すやら、おまけに汗までかいて。

それが一度ならずも数回は繰り返したでしょうか。

人間って不思議なものです。会話を交わしたわけでもありませんが昔から知っているような打ち溶け合っているような錯覚に陥るから不思議なものです。

ほんわか、ほんのりした気持ちは私だけだったのでしょうか。

それが瞬間的に観るだけなら恥ずかしさなんかないのでしょうし、ほのかに通う思いなんて出てはこないのでしょうが。

講演が終わって、席を立った途端に先ほどのご婦人の方が「主人です」って挨拶に来られたのにはびっくり仰天。
何処かの誰かの奥様とは想像の域でしたがまさかご主人が来ていて、挙句にご挨拶までされて。

私の口をついて出たのは「奥様をお借りいたし、申し訳御座いませんでした」、これが精一杯の私の一言でした。

人様の奥様と真剣に目と目を見つめ合う経験なんてもうないでしょうが。多分、かの奥様も果たして私と同じ思いだったのでしょうか。

誤解のないように言えば、真剣になったのは目と目を合わす好意そのものであって、心と心を通わす意味での真剣ではない事を申し添えます。弁解がましいかな。
  


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2007年07月09日

天帝の粋な心遣いなのかも

七夕とカササギ(カチガラス)

久しぶりに七夕の話を改めて読んでましたら「カササギ」が登場するんです。

私どもは昔から「カチガラス」の名前で知ってましたがまさか織姫と彦星の話に登場しているとは全く想像もしてませんでした。

カラスに似てますがでも違いますよね。
スマートで背や腹の白が際立って、何か気品というか上品ささえ感じます。

韓国の国鳥、佐賀県の県鳥のようですが、私の記憶では豊臣秀吉が朝鮮出兵の折に参加した佐賀藩主鍋島直茂が朝鮮半島から持って来たものだと聴いています。その鳴き声の「かちかち(勝ち勝ち)」が戦争当時としては縁起がいいとのことから「かちがらす」と呼ばれるようになったと聴いています。

七夕伝説は中国から伝わった話と日本古来の話とが重なって今のような伝説になったようですが、そこに出てくるカササギはわたしの先ほどの話では朝鮮出兵の頃からの外来種と思ってましたが実は昔から存在していたようです。

奈良時代の大伴家持のこんな歌に歌われているんですって

・・・「かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」・・・

数十年前くらいまでは確か松浦地方や伊万里地方やでしか殆ど見ませんでしたが、最近は田主丸や浮羽、吉井地方でも見かけるようになりました。

佐賀平野では電柱や大きな木の枝先に小枝を集めて作った巣が目についたものです。
確か電柱にも巣を作るんでトラブルにもなっているとか。

七夕伝説に出てくるカササギは雨が降って渡れなくなる天の川両岸に立ちすくむ織姫と彦星を哀れに思った多くのカササギが羽を広げて道を作りわたらせるという、そんな役割を演じているようです。

雨の日は二人はてっきり逢えないものだとばかり思ってました。

天帝の粋な心遣いなのかも知れませんね。

近くに住む鳥がそんな素晴らしい役割を演じているとは露知らず嬉しくもなりました。
  


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