スポンサーサイト

上記の広告は2週間以上更新のないブログに表示されています。 新しい記事を書くことで広告が消せます。  

Posted by スポンサー広告 at

2008年01月31日

時には踊り場で休みながら

一所懸命の思い

小さい頃から「一生懸命に勉強するんだよ」とか「一生懸命、真面目に働くんだよ」とか周囲の人々から励まされてものです。

最近は悩みを聞いてあげて「元気で頑張らないといけないよ」などと言うと「私はこれ以上は頑張れません」とか「潰れてしまいます」とか言われてしまいます。

頑張るという言葉の意味は「かたくなに拘ったり、張り詰めたり、強固、思いを貫く・・・」そんなことでしょうか。

それよりも強いのは懸命ですよね。
「命を懸ける、或いはそんな思いで努力する事、死にもの狂いで精を出すこと」。

「生涯、真面目に頑張りなさいね」が一生懸命に込められた願いです。

所が最近、「一所懸命」という言葉を使う方が増えました。
一生といわずとも、とりあえず頑張りましょうという事でしょうか。

所は、その時期とか、事柄とか、一時的な目標や目的、その時の希望や願いと思ってみては如何でしょう。

一年間だけでも頑張ってみる。
この目的を完遂するために努力する。
手に入れるもののために尽くしてみる、
具体的な目標に到達するために精を出す、



その様に思うと幾らか気が楽になることもありますが何だか頑張ってみれば叶いそうな、実現しそうな、手に入れることが出来そうになるから不思議です。

人は生涯を通じて努めねばならないこともありますが、その時、その時代、その世代でせねばならないこともあります。

そんなときこそ「一所懸命」。

生涯と思えばつい思いも潰(つい)えてしまいます。

階段を一段一段登るように、時には踊り場で休みながら人生を歩みたいものです。

そんな意味で「一所懸命」という言葉は有難い限りです。
  


Posted by mister_kei0918 at 12:54Comments(0)

2008年01月30日

辛い経験に姿を変えてやってくる

苦しいときのチャンス到来!!

チャンスを只の機会と捉えるか、好機の到来と捉える正確かによってその人の将来は大よそ決まるようにも思えます。

過去数十年、振り返ってみると何回かの人生の曲がり角や転機であったと想像される時期が思い起こせます。

概して苦しかったときや人生に大いに迷ったときの決断ほど正確で実り多いもののように思います。

切羽詰った状態であれば、当然思いも集中的ですし、行動も中途半端では済ませませんし、後の無い緊迫感も備わっているものです。

そんな余裕のない状態こそが、チャンスを生かす絶好の機会とこそ見るべきではないでしょうか。

人によっては、余裕があって、ゆとりがあるほうが四方に知恵が働き、情報をしっかり収集し見つめる事からチャンスを生かす時期だと考えそうですが

案外、そんなときは一点に集中は出来ませんし、駄目でもともと的な考えにもなりがちですし、気持ちも緩みがちです。

やはり危機感があったほうがチャンスを生かせる度合いは大きいと思うべきでしょう。

良く「産みの苦しみ」と言ったものです。

或いは私だけの事なんでしょうか。



『チャンスというものは、多くの場合、辛い経験に姿を変えてやってくる。
だから、殆どの人は気づかない。アン・ランダース』

『じたばたしたり苦しんだりした時は、実はチャンスなんだ。
自分になにが起きているかをしっかり観察すると見えてくるものがあるみたいだ。
小泉吉宏 「ブッタとシッタカブッタ」(メディアファクトリー)より』

『チャンスに出会わない人間は一人もいない。
それをチャンスにできなかっただけである。アンドリューカーネギー』  


Posted by mister_kei0918 at 21:35Comments(0)

2008年01月29日

「あの講師は何なんだ」

小学校の先生をしてきました

小学校の子供たちを前にして、話をしてきました。

以前、福岡市中央区のPTA会長を数年してましたので子供たちを前にして話すチャンスは幾らもありましたが授業は初めてでした。

当たり前ですよね、先生ではないのですから。

内容は「租税教室」。
相手は小学校6年生。

子供たちに税金の事をもっと知って欲しいとの願いからでした。

真剣な眼差しの子供たちの表情を見てましたら、これはいい加減ではいけないなと思った次第です。

私の顔や様子を一生懸命見ている子、

タイミングよく相槌を打ってくれる子、

聞き漏らすまいとメモを取っている子。

実は今時のお子さんですから、話を聞くのもニヤニヤしてみたり、話をしていたり、或いは声を上げたりする子が中にはいるのではないかと考えていたんです。

見事に裏切られてしまいました。

考えてみたらそうですよね。
私の6年生時代はまだまだ子供じみていて遊ぶ事しか考えた事はありませんでした。

今の子供達は凄く豊富な情報の中で生活してますし、揉まれてますから私の10代後半頃くらいの成長を見せているのではないかと思うくらいです。

教室の後ろの方には校長先生、教頭先生、税務署の職員数人、会社の経営者が5~6人くらい。

さながら、先生方の教育研究集会のようでした。

おまけに撮影までされて。

税金を理解していない私が租税教室をするのですから滑稽そのものですが税務署の方々にして見ると興味深深、冷や汗ものではなかったでしょうか。

当の私はといえば、自分の浅知恵だけで、自信たっぷりと話してきましたので極めてスッキリです。

後から校長先生から税務署へ「あの講師は何なんだ」とお叱りを受ける事がなければ良いがと安堵しきりです。

久しぶりに前にした子どもたちの姿に私の方が感動を致しました。

子どもたちに「有難う!!」

落ち着いたら学校へ私の方からお礼状でも発送いたしましょう。
  


Posted by mister_kei0918 at 14:47Comments(0)

2008年01月28日

おまえがいつの日か出会う災

おまえがおろそかにした罰

今日は正午前から雨になってしまいました。

昨日が幾らか冷え込んでましたので或いは今日は雪かもと思ってましたが素人予報は当たらないものです。

それでいいんですよね。

物事をおろそかにしたり、約束を反故にしたり、裏切ったりする事は本来、嫌いなほうですので殆どそんなことはありませんが、時として「今のこの災いは若しかすると」と思い当たる事が存在する事があるものです。

先日も因果応報や輪廻転生について、私なりの勝手な思い付きを書いてみましたがやはりどうも心当たりがあるものです。

逆もそうですが「あの時のお陰が今のこれがそうなんだ」とか、思い当たる事もしばしばです。

それを狙った言動は顰蹙物ですよね。

打算が働いていては概して好結果はもたらさないようです。
或いはそれ以上の結果をつい求めがちだからでしょう。


『おまえがいつの日か出会う災いは、おまえがおろそかにしたある時間の罰だ。ナポレオン』
  


Posted by mister_kei0918 at 17:09Comments(0)

2008年01月27日

なんとも言えない瞬間ですよね

「疲れた自分が愛おしくなって」

最近ではそんなことはありませんが、比較的若い頃と言った方がいいでしょうか。

昨夜の民放テレビだったと思います。

私は余り民放は見ない、というか見たくないと言った方が正確です。

最近の民放テレビは興味を引くものが余りない事、
番組内容がどうも出演者が楽しんでいるようで画面を見ている我々を意識していないような気がする、
偏った報道がされていたりや納得させてくれる番組が少ない、
番組の捏造が多すぎたり、
最近もあったようですが充分な検証がなされていない報道があったり。

ちあきなおみさんの歌「紅い花」が流れてました。

素晴らしい歌手ですよね。
近来まれに見る方のように思いますし、司会のたけしさんも高い評価をされておられました。

その中に「疲れた自分が愛おしくなって」の歌詞が含まれてました。

歌詞と私が書いている内容は若干異なりますが「疲れた自分が愛おしくなって」という事では同じですので引用をさせて頂きました。

若い頃、そうですね。
事業や社会活動に一生懸命、一心不乱という言葉がまさしく当時の私であったように思います。

社員を全員送り出し深夜の会社で一人、つかの間の息抜きをするとき、
或いは冷えた体をフトンに包み込んだ瞬間、
極端なときには赤信号のほんの何秒かの待ち時間。

そんなときがあったものです、疲れた自分が愛おしくなる。

多分、時間を惜しむことなく全身全霊を打ち込んでいる方なら瞬間的にでも、こんな経験はお持ちだと思われます。

なんとも言えない瞬間ですよね。

片方では「なんでお前はそこまでするのか」、
「なんでお前がそこまでしなくてはいけないのか」とか、

又一方では「もうそれくらいでいいのではないのか」や
「もう手を休めてもいいのでは?」とつぶやいてくるのです。

人によっては自殺にまで発展する方がいますが瞬間的にはこのような状況ではないのでしょうか。

人間やはり、一番可愛いのは自分です。

自分が愛おしいと思えるにはやはり時には極限まで追い詰めてみる事も必要なようです。人にもよりますが

「疲れた自分が愛おしくなって」の体験をすると次のステップの愛おしい自分を発見したくなるものです。
  


Posted by mister_kei0918 at 18:57Comments(0)

2008年01月26日

不倫や駆け落ちも良く見聞きしたもの

命を賭けたら怖い

「死にもの狂いで頑張ります」とか「死んだつもりでやります」などと若い頃は口に出したり、考えたりもしていたものです。

最近は命が惜しくなったのでしょうか。

臆病になったのでしょうか。

或いは「どうせ、命を賭けたって大した事はできない」と開き直ったのか。

歳を重ねると、賭けるほどの命ではなくなったのかもしれません。

昔は「恋に命を賭ける」とか、「命を賭けた」不倫や駆け落ちも良く見聞きしたものでした。

或いはそこまで人間の執着心もなくなったのでしょうか、ましかするとそんなに深刻に考える事までもないのかもしれませんね。

今年は鼠年。

博多・中洲のどぶ鼠は丸々と太って、栄養満点。昔は良く見かけたものです。

街の中や家屋の中でも余り見かけなくなりましたが、
人間が住みにくいように鼠にとっても生きる事が難しくなったのでしょうか。
見かけなくなりました。

「鼠も虎の如し」とも言います。
・・・めずみも命がけで飛び出す勢いは虎の様である・・・の例えですが
「窮鼠、猫をも噛む」とも言います。

人間でもそうですが命を賭けたら怖いの喩えです。

命を賭けるなどというと古臭いですが、人間だって命を賭けると凄い力を発揮することを時々でも思い出さないといけませんね。

命を失っては何にもなりませんけどね。

子の字の了は「陰から陽への変化の意」らしいです。
  


Posted by mister_kei0918 at 12:59Comments(0)

2008年01月26日

過去の亡霊のような

成功は失敗の元?

「失敗は成功の元」と教えられてきたものです。

そうですね、
失敗から学ぶものは多いものです。でも失敗も一過性のものになったり、慣れてしまったり、学ぶ姿勢を失ったりするとそれは失敗でしかないですよね。

次も同じ失敗を繰り返す。

危機感がなかったり、重要性を認識してなくてもそんなことになってしまいます。

或いは逆に成功体験が生かされないときもあるものです。

成功に気が緩んだり、満足が過ぎたり、
有頂天になっていたりすると結局は足元をすくわれて成功体験が少しも生きない、そんなことにもなるものです。

むしろ成功が失敗に元になってしまうことのほうが打撃が大きく取り返しのつかない事態を呼び起こしたりもするものです。

日常的な行動の中でもそうですが企業経営でもそうです。

過去の亡霊のような成功体験を引きずる余り、前進が出来なかったり、改革が進まない、積極的な決断が大いに鈍ったりも致します。

むしろ、オーバーな言い方をすれば過去の栄光や成功体験はかなぐり捨てて、原点に戻って、立ち返ってしかも謙虚に考える事が大事なようです。

私の様な勇気のない、保守的な人間は常に過去にさかのぼって物事を判断しがちです。

むしろ多くの失敗、結局は多くの失敗体験の中から導き出す結論こそ、力強いようにも思えます。
  


Posted by mister_kei0918 at 07:46Comments(0)

2008年01月24日

やきもちもそうです

発熱で始まり悪寒で終わる?

言葉の妙とはこんな事を言うのでしょうか。

『結婚とは、熱病とは逆に、発熱で始まり悪寒で終わる。リヒテンベルグ』

そうですね、
熱を上げ過ぎたが為に、とんでもない結末になったり本来あるべき自分の姿まで見失ったりもするものです。

ほどほどが丁度良いということでしょうか。

やきもちもそうですよね。
こんがりの内はいいのですが焼きすぎると嫌らしくなったり、人間そのものが嫌いにもなったりするものです。

仕事でも過ぎた熱意は、
むしろ結論を急いだり、望む結果が出ないと反動も大きいものです。

少しづつ少しづつ、時間を稼ぎながら、思慮深く、足元を見つめつつ、周りに配慮した行動こそ、素晴らしい結論を生むものです。

でも、人間って難しいものです。

そんなに上手くはいきませんが、
心の片隅に少しでもこんな思いを潜めておくと、時には自分を戒めてみたり、反省をしてみたりもいたします。

日頃のことでもそうですが、熱病みたいに取り組みすぎるとつい勇み足をしたり、転んだりつまづいたり、失敗の憂き目に出くわしたりするものです。

いつもの私がそうですが。
  


Posted by mister_kei0918 at 16:25Comments(0)

2008年01月23日

時には潤滑剤ともなり接着剤でもあり

子供は悪魔の手先?

もう何年前になったのでしょうか。

子供の名前を「悪魔」と名づけた親がいたことを覚えてますか。

当時は話題にもなり、顰蹙も買い、悲しい気持ちにもなったものです。

多分、そんな名前だと子供の頃にいじめの対象にはならないかもしれませんね。

或いはその子が逆に名前の由来ゆえにおとなしいお子さんだったら、大いにいじめられる事も考えられます。

子供は自分たちが作ったものではありますが、だからといって親が勝手をしていいのではありません。

周りの親兄弟、親族、ひいては社会や国、世界の貴重な宝であることを認識しなくてはいけませんよね。

昔は子供は授かりものであるとか、預かり物であるとかいったものです。
子供はその親が一時的に預かって、社会へ送り出すものだったんです。

そう思うと、つい子育ても軽やかになってくるものです。

当然独占するものではありませんから、私物化もいけませんし、虐待や度を過ぎたいじめは許されるものではありません。

子供は「親がしたようにしかしない」とも言われます。
因果は巡るものです。
報いは忘れた頃に覆いかぶさって来るものです。

子供の存在で苦労する事があることを否定するものではありませんが、子供のお陰で様々な時点において、助けられた事や救われた事、慰められた事、或いは元気を貰ったり勇気百倍にもなったりするものです。

また、子は鎹(かすがい)とも言われます。

夫婦の長い歴史の中には様々な思いが交錯するものですが、子供の存在が、時には潤滑剤ともなり接着剤でもあり、親としての豊な人間性さえも醸成してくれるものです。

昔から名は体を現すと言ったものです。

その子がそんなことはないようにと願わずにはおられません。

その事を却ってバネにして逞しく人間らしく優しく生き抜いて欲しいものです。  


Posted by mister_kei0918 at 21:58Comments(0)

2008年01月22日

極まったもの、より高まったものが

「智徳と元氣 如何」

1月17日に頂いたお題に対する私なりの見解です。

『人間を取り巻く環境の中には様々な知恵や知識を必要とする時が多いものです。

それは経験から頂くものもありますし、人間として本来備わっているもの、あるいは先人から頂く貴重なものもあるものです。

智恵は、人間として歩む中でのより深い知識知恵と解釈するのですがどうなんでしょうか。

人生、より充実した、より幸福感に満ち溢れた、人間としての高まりを導き出すのはそれなりの智恵の結晶のような気がしてなりません。

人間として、より正しく、より清らかに、周りをも取り込んで幸せへと導きだす知恵といえばいいのでしょうか。

それが極まったもの、より高まったものが智徳。

人間として歩む為のより深い知恵と心の有様(ありよう)でしょうか。

元氣は智徳に裏づけされた心や体の様(さま)といったら言いのでしょうか。

心身ともに人間として或いは人間の体として正しく生きようとする人間本来の姿や形。
字体から行くと健康な様、溌溂とした様を連想しますが。

「昔から健康な体には健康な精神(心)が宿る」と言われました。

表面的な捉え方をすれば異論が残りますが、夫々の人間にとって健康のあり方も違うものでしょう。

また、夫々の生き方や心のあり方も異なるところがあって当たり前と思われます。

そうでないと人生なんて金太郎飴のようで、上り下りや曲がりのない道路に似てて変化を失った空しい、退屈なものになってしまいます。

より高邁な智徳を求め、より元氣な自分であるために努力する事の大切さや意義を理解し、精進する事の楽しみを覚えたいものです。

自分の生き方や自分のあり方に呼応するような智徳と元氣。

それを求めて弛まず歩き続ける、そんな自分でありたいものです。』
  


Posted by mister_kei0918 at 12:56Comments(0)

2008年01月21日

行き過ぎた愛がもたらす結果は

「感謝修心と適愛 如何」

去る1月11日に頂いたお題に対する私なりのご返答です。

『素晴らしい御題を頂いて有難う御座います。
先日のブログやSNSに「感謝って何なの?」を書いたところでした。

私の勝手な解釈なのですが

『感謝とはお蔭様を感じ、それに答えようとする姿勢』と綴りました。

感謝を表す言葉が「有難う」であったり「すみません」であったり。
行動としては軽い会釈もそうでしょうし、目の動きでも表せるものです。

物やお金、労力、或いは時間で償う事も出来るかもしれませんが、やはり響くのは「感謝の念」に適うものはないように思われます。

純粋で、下心でない感謝の思いを真の自分の心のあり方として我が心の中に造っていく事、修めていくことやその努力が感謝修心ということになるのでしょうか。

自分の心のあり方に、精進を重ねても重ねても様々な迷いや欲や憶測が付きまとっております。

人間、死ぬまでこんな状態で全うするのかとも思いますが、迷いや欲の中からこそ真実や本来の心のあり方を模索するような気も致します。

人の愛し方も様々夫々ですが、
自分の思いだけで相手を支配できるものでもありませんし、逆に相手の思いだけで支配されてもいけないでしょう。

余りにも愛情が深すぎた為に人間関係を崩してみたり、とんでもない方向に進んだりもするものです。

象徴的なものが「溺愛」でしょう。

世の中の悲惨な事件やトラブルが溺愛によって引き起こされたものが少なくありません。

行き過ぎた愛がもたらす結果は余りいいものではないでしょう。

逆は「放任や無関心」でしょうか。

これでは人間関係の構築は順調には行きませんし、変な不信感や猜疑心が充満してしまいます。

言われるように人間として適度な距離、適度な深さを持った愛情こそ必要なものかもしれませんね。

感謝に包まれた心とそれに裏づけされた愛情こそ、幸せの女神の前髪を掴む道具かもしれません。』
  


Posted by mister_kei0918 at 16:34Comments(0)

2008年01月20日

程良い調和の中で成り立っているもの

「まごころと自我 如何」

昨年の12月27日に頂いたお題です。
私の身勝手、我侭な解釈です。ご参考までに。

『いつもこの二つの狭間にあって苦しみ続けるのが人間のように思われます。
心の葛藤とでも言えばいいのでしょうか。

人としての行動や思いは時として、この二つの存在ゆえに悩み苦しむといっても過言ではないように感じます。

まごころは真心。

本来、人としてあるべき姿、持つべき思いや感情と表現するのでしょうか。
あるいはその行動。
自分が持ち合わせたまごころも時として、相手にはまごころとして受け入れてもらえない事も多々存在します。

価値観の違い、立場の違い、宗教的なこともありますし育ちや環境、教育、民族的な歴史文化・・・普遍的なまごころの存在はあるのでしょうか。

自我。

他人や自分以外のものに対する行動や思いとでも言うのでしょうか。
相手を時には敵対するもの、自分に不利益をもたらすものとして認識をしてしまう。

際立つのが第1、第2の反抗期、成長期に顕著な形として現れてきますから、時には動物的な行動であったり、常に敵対的な言動が周りを苦しめ、自身もその目覚めに翻弄されるものです。

一般的な大人社会や日常的な行動の中では、余り意識してはいませんが人間的なあり方と自我との程良い調和の中で成り立っているものです。

常にまごころでありたいと願う気持ちと自分の立場や利益を優先したいと思う心や、或いは動物的な感情をいかに上手にコントロールが出来るのか、この付近が世渡りや人間関係に大きく左右するものです。

純粋無垢では生きていけませんし、我侭放題でも摩擦の人生に成ってしまいます。

人間社会の妙味もそんなところから滲み出てくるものかもしれません。

もごころと自我、
まごころ同士の鬩ぎ合いや葛藤の中で精進を重ね、どのように自己の確立をするか、世渡りをするかが私の命題でもあります。』


難しいお題ですが
精進を重ねる中であるべき姿に一歩でも近づける事は楽しい事です。

  


Posted by mister_kei0918 at 09:46Comments(0)

2008年01月19日

口に突き刺さる刃

「創造心と言葉 如何」

昨年12月の中旬に頂いたお題です。
先生が求められている内容とは異なっているようにも思いますが、あくまでも私の私見ですのでいいですね。


『人類の歴史は創造の歴史と言っても過言ではないでしょう。

創造の歴史は結局は破壊の歴史との繰り返しですが今度は地球そのものを破壊する行動を作り出してしまいました。

人類の歴史は文明を造っては壊し、造っては壊しの繰り返しの連続です。

その度にますます創造心は拡大の一途を辿り、破壊の度合いも想像を絶する規模に膨らんできました。

近代文明は今までにないスピードと規模を持って創造拡大されて来てますが、過去がそうであるように想像の規模を遥かに上回る破壊が待っている事は容易に想像できます。

今度は地球規模です。

果たして人類はどんな創造で今度の破壊を乗り越えるのでしょうか。

言葉は人間が生み出した最大の想像であり発明ですが、
これほど素晴らしいコミュニケーションツールは存在しませんし、
創造や文明の発達も言葉なしでは実現もしませんし機能もしなかったでしょう。

片や言葉はその形のように口に突き刺さる刃を意味します。

これによって幾千万の人間が命をも失い、不幸のどん底にも落とされました。

心を伝える手段であると共に、奈落の底にも引き摺り下ろす力を秘めています。
また、これほど人を幸せにする物も世の中には存在しないでしょう。

人類において創造心には壁は存在しませんが言葉には明らかに壁が存在します。

夫々の文化や文明が言葉や距離の壁で、
適当な距離が存在し独自性を保っていたのですが、

今の時代のようにボーダレス、グローバル、ネット社会という耳障りの良い言葉の裏に潜む破壊の恐ろしさが牙をむきそうに思うのですが如何でしょうか。』


これから益々破壊の道を進むのか、はたまた困難を克服するために創造心を働かせるのか人類の腕の見せ所のような気がします。
  


Posted by mister_kei0918 at 11:19Comments(0)

2008年01月18日

前世や後世を通じて迷い、苦しみは常に付きまとうもの

「因果応報と輪廻転生や如何」

昨日と同じで昨年の12月にお題を頂いての私なりの考察です。


『原因と結果は常に向き合っているものであり、
結果にはそれに付きまとう原因が存在する。

罪や災いを起こしたものには必ずそれに呼応した結果が待ち受けている。

逆に社会や世の中に善の行いや施しをしたものには必ずそれに対する良好な結果が待ち受けているとするものであり、

善行を勧める言い習わしではあるが世の中を見渡すと不思議とそれを感じさせる現象を見聞きする事が多い。

人の一生だけではなく前世や後世を通じて迷い、苦しみは常に付きまとうものでありこれから逃げることは出来ないとする輪廻転生。

その迷いや苦しみの存在をそれはそれとして理解しながら、幸せを求め続ける人生の妙味を見出すのが人間に知恵であり、努力でしょうか。

廻り来る迷いや苦しみは、それだけで存在するのではなくてその裏側には必ず楽しみや喜びが待ち受けている。

その扉をこじ開ける鍵がまさしく因果応報。

待ち受ける結果を期待しての行動は余り良い事ではないかも知れませんが、

心の底からの人や社会に対する自分の行動や施しが結果的には
自分や周りに対して明るい光明をもたらすものであることを身をもって体験できると素晴らしい事のように思われます。

両方の言葉とも、
自分の生き様だけではなく或いは自分の祖先、先祖、或いは末永い先の子孫、後世にも影響をもたらすものだとすれば、
今の片ときも疎かにしてはいけないような気持ちになって参ります。』


宗教など片隅も知らない私の考察ですので全く畑違いの事を書いているのかもしれません。
  


Posted by mister_kei0918 at 15:00Comments(0)

2008年01月17日

限られた命しか与えられていない私ども

「天意と生命や如何」

ある著名な先生から頂いたお題です。
これに対する私の身勝手な解釈を今日は掲載を致しました。夫々の方々が夫々に感じる事であり一様なものでもないでしょうが、私自身の思いを綴ったものとしてお読み下さいませ。

『天意は天、つまり神から授かったというか与えられた、若しくは意を受けた使命とでも言いましょうか。
一人の人間として命を全うする中で、ただ全うするのではなく与えられた人間としての使命を果たしなさいということでしょうか。

生命とはただ生物的な命という事だけではなく、取り巻く社会や家族、自然の中でその役割を充分に果たしながら尽きるまでの道程なのではないでしょうか。

天意と生命がまさしく一つのものとして作用しあい、共鳴しあい或いは葛藤しあう事によって素晴らしい人間としての生き様が醸成され、完成していくように思います。

天意を感じながらも生命として充分な機能をしえないでの苦しみ。
或いは生命として余りあるほど機能していながら天意を全く感じない人間。
世の中様々ですが、そのバランスが大事なのでしょうね。

宗教のよってその事に到達できる人間もいましょうし、良き師、良き父母に恵まれて目覚める人間もいるでしょう。
或いは不幸にして、目覚めを知らない、自分の本来のあるべき姿を知ることなく命を全うする人間も多いものです。

限られた命しか与えられていない私どもには、とても到達できない、知りえない世界が存在するのも事実のよう思われます。

それは極めて重要な感覚であり、その存在を認めることから様々な事象の解決の糸口を見つける鍵がありそうです。

天意を感じ、心身ともに健康な生命に恵まれながら、希望を捨てることなく生涯が全うできればこれに越した事はありません。』


そこは違うとか、そうだと共鳴をされたりする部分が存在するとおもいます。
それでいいんだと思うのです。生き方も夫々ですから。
  


Posted by mister_kei0918 at 14:53Comments(0)

2008年01月16日

見事に念願の彼女と結婚が実現

頑張れコールも過ぎるとプレッシャー?

「頑張れ」「頑張れ」、周りから言われすぎると帰ってプレッシャーになりますよね。

頑張れの言葉自体やその意味は本来そんなに強烈なものはないはずですが、聞く本人には抑圧的で強圧的な印象がどうもついてまいります。

精神的に弱い方々が余り「頑張れ」コールをされるために余計に負担になって回復が難しくなるとは良く聞くことです。

勉強でもそうでした。私自身は試験の前日などに「明日の試験は頑張ってね」などと言われても頓着のないほうでしたが友人の中にはいつもは成績がいいのにそんな大事なときに限って実力が発揮できない人がいたりしたものです。

土壇場になったときには開き直るくらいが丁度いいんですがね。

期待が大きすぎたり、或いは本人が期待負けするタイプの時はどうも逆作用するようです。

同じ人間でも期待をされるとされる程に頑張る人もいますし、期待以上の成果を勝ち取ったり、実力以上のレベルに登っていく人もいるものです。

却って、何も言われない方がいい人もいますし。

一般的に自分に厳しい人、己に常に課題を突きつけて前進を試みる人は他人から過大な期待をされたり、プレッシャーを突きつけられても上手に吸収する力があるようにも思えます。

ということは日頃から自分自身が向上心を持ち、果敢に様々なことに挑戦をする、少しぐらいは負けず嫌いの方が過大な期待を込められた「頑張れ」コールにも強い様な気が致します。

常に自分を叱咤し、向上する我が姿を描きつつ、精進する人。

大勢の人を前にして、滔々と弁舌爽やかに話している自分の姿、
難関の試験を見事突破して、夢を掴み取った自分の姿、
事業に成功して、見事に業績をあげ財産を築いた我が姿、
見事に念願の彼女と結婚が実現し、数人の子供にも恵まれる姿、



そんな夢や希望を強烈に思い描く癖を持つことも大事なんでしょうね。

そう有りたいものです。
  


Posted by mister_kei0918 at 18:22Comments(0)

2008年01月15日

ついていない人と付き合わない?

学びて時にこれを習う

12日は午後から、宅配寿司で有名な社長の卓話をお聞きする機会に恵まれました。

行動力もさる事ながら、プラスすることの豊富な知恵や知識をお持ちの方だとお見受けをいたしました。

成功するにはそれなりの必然性と持って生まれた先天的なもの、後に獲得する運が必要なようです。

人間として必要なもの、或いは成功する人に不可欠なものって言い換えてもいいのかも。

1、 ついていない人と付き合わないこと。ついていない人は笑顔が少ない。
2、 口に出して言った事がすべて。責任を持つ事と、正確にわかりやすく言葉を選ぶ事。
3、 頼まれたらすぐに実践すること。


それと学んだことを実践に移すこと。

孔子の言葉を引用されました。

『子曰、學而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎。』

子曰わく、学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや。
朋あり遠方より来たる、また楽しからずや。
人知らずして慍(うら)みず、また君子ならずや。


私は多分、講演会や研修会への参加は普通の方よりは多い部類に入ると思っていますが、一つは頭が良くありませんから 殆どを忘れてしまう・・・だから意識的に人並みになろうと勉強の回数を増やしていることもありますが・・・それと実践が伴わない。

その付近は私の大いなる欠点でしょうか。


学習の習は繰り返すこと。
字の上の羽は重なり合っている様ですから何度も何度もとか、繰り返し繰り返し。

下の白は本来は口ですから口に出して、或いは行動と言い換えてもいいかもしれませんが今で言えば継続とか続ける事でしょうか。

学んだ事を何度も何度も繰り返すことが学習の意味のようです。

或いは「習うより慣れろ」とも言いますが、より強調した言い方かもしれませんね。

それが結局は文字通り「習慣化」するということになるのでしょう。

習慣化するとしめたもの。

余り意識することなく行動が出来ますよね。
  


Posted by mister_kei0918 at 13:13Comments(0)

2008年01月14日

或いは死ぬまでそうかもしれませんね

成人の日々

昔の成人は15歳ですから今で言えば中学の3年生の頃でしょうか。

昔の元服と言ったらしいのですが、今と比較するのは相応しくないのかもしれませんね。

時代背景や生活様式も全く違いますし寿命が多分50歳にも満たない時代ですから人間としての成長も早かったのではないでしょうかね。
それも精神年齢は特にその様に感じます。

今年も成人は1月1日の計算で135万人。昨年からすると4万人も減少のようです。

もう、私の成人から何年経過したのでしょうか。子供が3人、孫2人。

人生の半分は過ぎてしまいましたが、何歳になっても人間としての到達間や達成感、上り詰めた思いなどはかけらも出てきません。

それは私だけではなく全ての方がそうなのではないでしょうか。
或いは死ぬまでそうかもしれませんね。

「もうここまででいいんだ」と納得する日々は多分生涯来ないでしょう。

生きる限り、成長を望み、生活の充実を求め、競争の日々で明日のあり方をいつも思い巡らす日々のような気がします。

或いは20歳になったから成人ではなくて人間らしい状態になることですから、一生人間としてのあるべき姿を追い求めて模索をし、精進を重ねるのかも知れません。

当然そういう意味では今日成人式を求めた方々も私にとっては人生の競争相手であり、切磋琢磨の仲間だといったほうが正しいかもしれません。

だって、年齢の差なんて所詮大した物ではなくて、今日成人を迎えた人が50歳の人間を越える事なんてよくあることですから。

毎日が成人の日々だとの思いこそが人間としての本来あるべき姿を追い求める人にとっては有効な手立てかもしれません。


『少年は親たちが思っているより三年早く大人になっている。
しかし、自らが考えているよりは二年ほど遅い。ルイスハーシー』  


Posted by mister_kei0918 at 18:26Comments(0)

2008年01月13日

お互いの傷を嘗めあっている

語られない今年の干支

今年は子年。

毎年、年末の忘年会では「来年は○○年だから・・・」。
新年会では「今年は◎◎年だから・・・」。

語られすぎて「もういいです」と言いたくなるほど耳に張り付くものです。

どうしたものか今年は新年会を重ねても重ねても「子年」の話が飛び込んできません。

去年からの偽装問題やらサブプライム問題、格差、社会保険、防衛事務次官、総理の退陣、様々な事件事故・・・書きつくせないほどのマイナスな事が余りにも多すぎました。

昨年は亥年。日本では猪(韓国やタイでは豚のようですが)、「猪突猛進」等といわれて期待されたものですが逆方向に走りすぎたようにも思えます。

今年は子年。十二支の初めですから本来、大きく期待されたり夢膨らむ年でなくてはいけないのですが昨年が余りにも悪すぎましたね。

昨日は本年最後の新年会でした。

その中で、初めて子年の事を語られた来賓がおられました。
ほっとしたんです、せめて年の初めくらいは夢や希望に満ち溢れた気持ちになりたいものです。悲観的な話はしたからといって一挙に解決するわけはありませんし、お互いの傷を嘗めあっているに過ぎないんです。

景気が悪いの、政治が悪いの、国際情勢がどうのといっても何が解決しますか。

それよりせめて年の初めくらいは、たかが干支と言わないで期待を込めてスタートを切りたいものです。

子年の子は日本では鼠。

好かれる動物ではなかったり、食べ物にもなりませんし、有害動物として嫌われてますから余り人の口に上らないこともあるのでしょうね。

でも、鼠は十二支の初めですから初心に戻りましょう、原点の立ち戻りましょうの意味もありますし鼠算ではありませんが子供を多く生む動物ですよね。

日本人が増えて欲しい子供ですよ。

また、家系繁盛のシンボルでもありますよね。

今年のスタートも決して歓迎するような状況ではありませんが、思いを込めて子年を語ってみました。  


Posted by mister_kei0918 at 16:13Comments(0)

2008年01月12日

私共の欲望や欲求、ありたいと望む事とは別の言動

手柄は自分のものにして、失敗は他人に押し付けて。

世の中、出来る事なら自分の都合のいいように、暮らしたいものです。

自己都合が他人の都合と勝ち合う事がなかったり、妨げになったり、不都合が生じないとそれでもいいのでしょうが世の中そんなに上手くは出来ていないものです。

むしろ他人の都合を優先してあげるほうが、上手く行くものです。一つの潤滑剤の役割を果たしのでしょうね。

人の目は不思議とそんなことは目敏いもので、印象に焼きつくものです。

そうだからといって打算が見えては困りますが人って付き合っているうちに見えてくるものです。

或いは最初は打算であっても心がけているうちに、人間の言動はどうも修練されてくるもののようです。

手柄もそうです。

人の手柄であってもできるものなら自分のものにして、利益を貪ってみたり得意満面であってみたいものです。

或いは失敗はそれこそ他人の精にして、知らんふりを囲ってみたいものです。

所が世の中の生き方は、私共の欲望や欲求、ありたいと望む事とは別の言動がどうも良さそうです。

人の手柄は出来るだけ評価し、賞賛し、褒めてあげて、
自分が手柄を上げたときには出来ればほんの一部だけでも分けてあげて。

自分の失敗は当然、自分の失敗、できれば失敗以上の取り返しがないといけませんよね。

他人の失敗は出来れば過剰反応しないで、できればカバーをしてあげて挽回の為の協力を惜しまない。

でも、人間として許されない失敗、人権や命、或いは財産を脅かす行動や失敗、生活の基盤、社会の規範を乱すような犯すような失敗は厳に慎まないといけませんし、戒めないといけませんよね。

難しいことですが、
そんな心がけの行動が一部実行されるだけでも大きな進歩ですよね。

笑って暮らそうと思えば、まず人の笑顔つくりから始まるようです。  


Posted by mister_kei0918 at 11:43Comments(0)