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2008年02月29日

啓蟄とか、三寒四温とか、桜の蕾が

雨の日もまた楽し

今日は夕刻から福岡市内は雨になってしまいました。
天気予報がそうだったんでしょうか。

春を迎えるための行事と思えばこれもまた、風情を感じます。

などと長男の前では言えないんです。

雨が大嫌いで、濡れるのが嫌なんでしょうね。
ちょっとした距離でも傘をささないとどうもいけないようで。

私は小さい頃から、農作業やら漁業やら祖父に連れられてやってましたので濡れるのは当たり前。

却って濡れるのが心地いいと言えば言いすぎと言われる位です。

最近の女子高生でも雨が結構降っていても平気な顔で濡れながら歩いている子を良く見かけます。

それが一人や二人ではなくて。

やはり私だけでなく余り苦にならない人っているようです。
彼女たちは多分傘を持ち合わせていないからでしょうが本当に嫌な雨ならカバンを頭の上にかざすとか、何か工夫をしそうなものですがそれもしない子がいますから濡れる事がまんざらでもなさそうです。

自然界は天気になったり雨になったり、大風や大雪だって仕方のないものです。

私が一人逆らっても詮無い事ですから、
抵抗してもどうにもならないことは受け入れようと思うことにしました。
大雨は別ですよ。

その方があまり天気にも気を使いませんし、傘がなくてもどうって事はありません。
人生もそんなもんです。

逆らってもどうしようもないものはまずは受け入れてみる。

それでも性に合わないことは徹底的に争ったり抵抗をしたり、努力をしてみる。

まずは何でも飲み込んでみて、咀嚼してからでも遅くなさそうです。

今日の雨は春の訪れの使者ではないのでしょうか。

啓蟄とか、三寒四温とか、桜の蕾の膨らみ具合が気になる時期になりました。


『雨は一人にだけ降り注ぐわけではない。 ロングフェロー』

『日の輝きと暴風雨とは、同じ空の違った表情にすぎない。
運命は、甘いものにせよ、にがいものにせよ、
好ましい糧として役立てよう。 ヘルマンヘッセ』
  


Posted by mister_kei0918 at 19:40Comments(0)

2008年02月28日

働くは「端(はた)を楽させる」と書きますから

自分を守るためにも人を大切に

人間、幾つになっても自分が可愛いものです。

どんな苦境に立たされても、どんな不幸に陥っても決して自分の精にはしたくないものです。

或いは日本人の持って生まれた国民性で、幾らか自虐的なところはありますが究極のところ、結局は他人や社会や政治、経済の精にしてしまうところがあります。

「自分の精だ」等といいながら、それは裏返しの言葉であったりもします。

本当に自分が可愛かったり、守りたかったりするならば、昔から大人に言われました。

「自分が可愛ければ、自分を守りたければ他人を大切にしなさい、他人を守る事、他人に役に立つ事に徹しなさい」

事のつまりは、周りや家族、他人が物言わずとも守ってくれるというわけでしょう。

良く「自分の幸せを求める前に他人を幸せにする事を考えなさい、実践をしなさい」と。

つい、目の前の利益ばかり追求しがちな私ですが、それだからこそ自己利益や保身ばかりが先立ってしまいます。

本当は幸せは自分で勝ち得たものは僅かで、殆どが他人から頂くものかもしれませんし、より深い、より持続性のある幸せほどそうなのかもしれません。

身を粉にして働く、それも他人の為でありたいものです。

だって、働くは「端(はた)を楽させる」と書きますから。
  


Posted by mister_kei0918 at 16:13Comments(0)

2008年02月27日

夜を徹してもんどり打って、悩み抜いても

明日を思い患う事なかれ

人間、悩みの種は尽きないものです。
越しても越しても、次から次と難問は出てきます。

でも、難問のレベルが違うというか、跳び箱を越えるときのようですよね。

3段が怖くて飛びきれなくて困ったものです。周りから笑われたりして。

3段が飛べれば、勇気も備わってますし、コツも掴みましたし、ジャンプ力もついてますから4段も飛べますし、或いは一挙に5段も飛べるかもしれません。

ですから、余り心配する事は必要ないようです。

コツコツと努力する自分と、怖くない、失敗を恐れない勇気が備われば大丈夫なようです。

人並みはずれた事をしようと思えば別ですが。

それと心配な事は出来れば今日の内に、余り時間を稼がないで解決に向けての努力をしたほうが問題を大きくしないで、しかも人間関係を余り壊すことなく収拾が出来そうです。

謝るべきは早く謝る、
喧嘩しないといけないのであれば早めに喧嘩する、
文句言うのであれば間髪入れずに文句を言う、

時間を置けば置くほど、色んな思惑や考えが輻輳して、事を益々複雑化してしまうものです。

相手もそうです。或いは色んな手練手管を考えたり有利に働かせるために悪知恵を仕入れたりもするものです。

或いはトラブルなどであれば、自分が悪くないと思っても少しは謝る言葉を挟んでみたり態度を見せると相手も軟化して却っていい結果を導き出したりもします。

また、様々な懸案事項や問題の中には、今日解決の難しいものがあります。

時間が決められていたりするものもあるものです。
例えば「このトラブルは明日の4時ごろに会って解決を!!」等と言われるとこちらに落ち度があった場合はそれまで悶々と悩み続けるものです。

「明日を思い患う事なかれ」主義でいってはどうでしょうか。
当然、何もしないで時間を待つということではなく誠意を持って考えるは考える。
準備をすることがあれば準備をする。

対応策を早めに整理して、後は頭から放してしまう。

夜を徹してもんどり打って、悩み抜いても大した問題解決にはならないものです。

私の若い頃がそうでした、眠れない夜を何度経験したことか。


人間、悩みの種は尽きないものです。
越しても越しても、次から次と難問は出てきます。

でも、難問のレベルが違うというか、跳び箱を越えるときのようですよね。

3段が怖くて飛びきれなくて困ったものです。周りから笑われたりして。

3段が飛べれば、勇気も備わってますし、コツも掴みましたし、ジャンプ力もついてますから4段も飛べますし、或いは一挙に5段も飛べるかもしれません。

ですから、余り心配する事は必要ないようです。

コツコツと努力する自分と、怖くない、失敗を恐れない勇気が備われば大丈夫なようです。

人並みはずれた事をしようと思えば別ですが。

それと心配な事は出来れば今日の内に、余り時間を稼がないで解決に向けての努力をしたほうが問題を大きくしないで、しかも人間関係を余り壊すことなく収拾が出来そうです。

謝るべきは早く謝る、
喧嘩しないといけないのであれば早めに喧嘩する、
文句言うのであれば間髪入れずに文句を言う、

時間を置けば置くほど、色んな思惑や考えが輻輳して、事を益々複雑化してしまうものです。

相手もそうです。或いは色んな手練手管を考えたり有利に働かせるために悪知恵を仕入れたりもするものです。

或いはトラブルなどであれば、自分が悪くないと思っても少しは謝る言葉を挟んでみたり態度を見せると相手も軟化して却っていい結果を導き出したりもします。

また、様々な懸案事項や問題の中には、今日解決の難しいものがあります。

時間が決められていたりするものもあるものです。
例えば「このトラブルは明日の4時ごろに会って解決を!!」等と言われるとこちらに落ち度があった場合はそれまで悶々と悩み続けるものです。

「明日を思い患う事なかれ」主義でいってはどうでしょうか。
当然、何もしないで時間を待つということではなく誠意を持って考えるは考える。
準備をすることがあれば準備をする。

対応策を早めに整理して、後は頭から放してしまう。

夜を徹してもんどり打って、悩み抜いても大した問題解決にはならないものです。

私の若い頃がそうでした、眠れない夜を何度経験したことか。
  


Posted by mister_kei0918 at 17:20Comments(0)

2008年02月26日

山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く

春の足音と梅の香り

昨日は昼の陽気に誘われて、近くの公園へ家内と二人で梅の香りを求めて散策をしてきました。

福岡市中央区の平尾にある野村望東尼さんの屋敷跡のある公園です。

7時頃の外気温が3度でしたから福岡にしては寒い朝でした。
今頃の気候でしたら朝が冷え込む日中は暖かくなるものです。

多分福岡でも一足早く咲くここの梅は、盛りを越えあと数日では殆ど散ってしまうのかもしれません。

そこで急に思い立って、太宰府まで走る事に。

始めは九州国立博物館への駐車場への取り付け道路脇に咲く梅。
犬を連れて散策をされている人、5時前の夕刻なのにカメラを盛んに向けている方。

ここの梅はまだ8分咲きでしょうか。
多分、形格好からして近くの方であろう散歩のご婦人に尋ねてみました。

「この梅林は個人の所有ですか」。
個人ではなくてお宮さん、つまり太宰府天満宮の所有という事でした。

それから、太宰府天満宮さんへお参りも兼ねて。

本殿右側の飛梅は流石に時期を逸してました。
でも周辺や本殿裏の梅林は今、若しくはこれからというところでしょうか。

ついでに梅が枝餅を買い求めて。

次は先程のカメラマンに教えていただいた太宰府政庁(都府楼)の中にあるという梅林を見物に。

良くぞ教えていただいたものです。
梅の木の数といい、花の咲き具合といい、環境といい、それは素晴らしいものでした。
当然それだけの梅ですから香りも凄いものです。

家内と「花は梅よりもは桜だね」等と言っていたものですが、これで考えが変ってしまうほどです。

梅は花だけではなく、その香りの素晴らしさも我々に与えてくれている事を忘れてました。
それに桜よりも長持ちしますしね。

当然、先程の梅が枝餅は社内で早速、家内と私の口に飛び込んだのは間違いのないところです。

今朝の7時の外気温は11度。しかし今日は雨の一日になりそうです。
もう春はそこまで来てます。

『山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く
   春夏秋冬あしたもよろし ゆふべもよろし
     すなほに咲いて白い花なり。     種田山頭火』
  


Posted by mister_kei0918 at 11:20Comments(2)

2008年02月25日

過去が神々しくも見えたりするものです

お前には必要な事だったんだよ

過去を振り返ってみるとしなくても良かったような体験や経験もあるものです。

「苦労は買ってでもせよ」とも言われましたが、随分としなくても良かったのではないかと思われるようなことも経験してきました。

当時は「どうして自分だけこんな目に会わねばいけないのか」、
「人が背負い込む苦労の全てを自分ひとりに背負わされているような気がする」、
「一生、こんな惨めな思いをしながら人生を終わってしまうのか」とかとか・・・

でも不思議なものです。

背負い込んだはずの苦労というとんでもないお荷物は、結局自分の血に成り肉になっているものです。

苦労は買ってでもせよと教えられて、様々な火中の栗まで拾ったりもしたものです。

それは経験という大きな収穫となって、問題解決の様々な糸口を目の前に突きつけてくれます。

下手をすると人間までをも変えてしまいます。
人間の屋台骨までも太くしてくれるものです。

経験は自分にとって必要なものだったとする認識。
その経験があればこそ、今の自分がここに存在する事とする畏敬の念。
過ぎ去った苦しい経験の存在を認め、崇め奉り、しかもそれがあればこその自分であることを再確認する事で過去が神々しくも見えたりするものです。

振り返ってみると只、指をくわえて苦労だ苦労だと喚いていても解決には何にもならないものですし、底なしの泥沼にはまり込んでいるようなものです。

解決の糸口を見つけるためにもがき苦しみ、努力を忘れない事ではないでしょうか。
それが経験というものでしょう。

「神様は、その人に負えないような苦労は負わせない」
とか言われたものです。

でも、往時は八方塞りで天も地も我に味方するものの存在さえも否定し、かつそんな精神的ゆとりなど微塵もありません。

人生のハードルは、少しづつ少しづつ高さを増してきます。

でも経験という踏み台がそれ以上に厚味を増す事で苦にもなりませんし、却って楽しいものに心地いいものに変化するもののようです。


『人間が賢くなるのは経験によるのではない。
経験に対処する能力に応じてである。
英劇作家:バーナードショー』
  


Posted by mister_kei0918 at 20:46Comments(0)

2008年02月24日

見逃していたら後悔していたかも

「京都五山、禅の文化展」行ってきました

九州国立博物館で今年の元旦から開催されている「京都五山展、禅の文化展」に一人で行ってきました。

いつかは出かけないと思いつつ中々実現できなくて、今日つまり最終日になってしまいました。

朝早くの大濠公園のジョギングを済ませ、(実は小雪の中のジョギングでしたが)朝食を済ませ急遽思い立っての事でした。

家内へ誘い水を向けたのですが、
最近休んでいるプールにどうしても行きたいというので断られ、
自分の部屋で寝ている娘にも見事に断られ、結局は一人になりました。

出かける時は雪は降り止んでましたが、太宰府の山々は流石に真っ白状態。
でも周辺の道路は雪の気配は全くありませんでした。

駐車場に入れるまでに約一時間ほど空き待ち。

室町幕府の三代将軍・足利義満がなくなって600年を記念しての展示会。

京都五山の禅を中心として文化を感じてきました。

最近、富みになぜかしら、そんな歴史や古来の文化、宗教に触れることを意識的に行うようになって来ました。

年の精でしょうか。
或いは今まで余りにも気ぜわしい事をしてきましたので少しは落ち着きなさいとの思し召しなのでしょうか。

いずれにしても、見なくてはいけないと思っていた「京都五山展、禅の文化展」。
最終日でしたがこの目で拝見できてほっとしています。

多分、見逃していたら後悔していたかもしれません。
  


Posted by mister_kei0918 at 18:50Comments(0)

2008年02月23日

箸の上げ下ろしまで気になる様な破綻しきった夫婦関係

寂しさは良く分かる?分からない?

「年寄りの淋しさなんて、お前みたいな若いもんには分かるわけがない」

「倒産の憂き目に遭遇した人間の気持ちなど、お前のようなサラリーマンには想像もできんだろう」

「辛い病人の気持ちや手術の痛みなど健康なお前に分かるわけがない」

「貧乏の厳しさや苦しみは理解できるわけがない」

「失恋の痛手や切なさはお前には分かるわけがない」

「リストラされた人間の悔しさなんて順調なお前になど分かるわけがない」

「連れ合いに先立たれた俺の淋しさなどお前には分かるわけがない」

「勉強しなかったお前には勉学の苦しみなど知りはしないだろう」

「離婚の大変さや苦しみはお前には理解できるわけがない」

「浮気しているときの複雑な心境なんて分かりはしないだろう?」

「夫婦の絆や愛情の形など未婚のお前には分からないよな」

「親子の情愛など、子どものいないお前には知り良しもないよ」

「幼いときから母親のいなかった人間の事など分かりはしないだろうな」

「就活に四苦八苦している姿などお前には想像も出来ないだろうな」

「箸の上げ下ろしまで気になる様な破綻しきった夫婦関係などお前に分かるもんか」


分からないだろうと良く言われそうな事を書き綴ってみましたがきりがありません。

でも、分からないですよね。
直に「分かりません、すみません」と言う他はありません。

でも大よそですが想像は出来ますよね。

やはり経験なんですよね。経験してみないと分からない。

実は余り経験したくない事ばかりですが。
しかし、苦しい事の羅列をしましたが逆も大変多いものです。

経営の楽しさや素晴らしさ、結婚、夫婦関係、子どもとの情愛・・・。

そんなことを考えてみると、悲しいことも苦しい事も切ない事もある程度は経験していたほうが人生が意義深く、楽しいものになるそうな気がします。

それが相手の立場にもなって物事の判断だってできますし、不幸なとき淋しいときの感情だって理解しやすいものです。

人間関係の極めて良好な情勢にはそれが大事なんではないでしょうか。

今の淋しさや苦しみが癒えたときには、
素晴らしい時が待ち受けている事を想像する事も早く抜け出る処方箋のようにも思われます。
  


Posted by mister_kei0918 at 15:59Comments(0)

2008年02月22日

心に訴える、心通うおもてなしを頂いたら

笑みを失ったホテルマン

笑みを「失った」と書きましたが或いは最初から笑みはあったのでしょうか。

実はだいぶ以前から彼を知っています。
個人的に親しいという意味ではなく私自身が会議や催事で良くホテルを使うので彼とは時々そんな関係で顔を合わすと言った方が正確です。

福岡でも一流のホテルでどなたでもその存在は知ってます。

昨年の末にはリッツカールトンの究極のサービス、おもてなしをこの耳で聞く機会にも恵まれましたし、

数日前は家族で出かけた大分県中津市にある温泉宿の素晴らしさの余り、来年の正月の予約までしてしまいました。

心に訴える、心通うおもてなしを頂いたら、必ず帰ってくるものがあるものです。

多分、あれだけの大きなホテルですから教育もしっかりされているはずですし、部下の指導や模範も示さないといけない年齢に充分達してもいますから、それなりの分別や自分の立場もわきまえていなければいけないはずなんです。

話していても笑み一つ浮かべませんし、お願いしたことが充分に受け入れられたのかも反応がないために分かりません。

私は幾らか慣れてますから、辛抱もしますが一旦何かトラブルがあるといっぺんで利用するのは止めてしまうかもしれませんね。

大きいホテルですから、そんな程度では蚊に刺されたようなもので全く関係ないのかもしれません。

でも、同じ利用するなら後味も良く爽やかに使い切りたいものです。

若しかすると彼で失ったお客さんも多く存在するのかもしれませんね。
分かりませんが。

人間はそんなに変われるものではありませんが、一般的にはホテルは華燭の場であったり、慶びや出会いの場、笑顔の飛び交う場でなければいけませんよね。

余り書き過ぎますとホテル名や場所までわかるといけませんのでこの付近で程ほどに。
  


Posted by mister_kei0918 at 18:35Comments(0)

2008年02月21日

世の中そんなに甘くはありませんでした

女にわからないテーマが一つ?

昔の先輩たちに聞くとある人は「中洲の店から職場へ行った」?当時は大変に賑わった西日本一の歓楽街ですよ。

とか昭和30年以前といえば、
男性であってそこそこの年齢であれば大よそ想像がつかれると思いますが、「××から仕事場へ通った」とか、今時の人間には見当もつかないような時代が存在したものです。

「男は外で働くもの、女は家で家庭を守り子どもを育てるもの」と男たちが勝手に理屈ともつかない理屈をつけて、自分たちの都合の良い様に世の中に吹聴したものです。

仕事の精にして、如何にもその事が当然の如く世の中をまかり通っていたものです。

その頃の言葉なのでしょうか。

『女には、どうしてもわからないテーマが一つある。
男は仕事に注ぐだけの熱情をなぜ家庭にそそげないのか、ということだ。
  D・デックス』


実は男が情熱を注いだ振りをしつつ、現(うつつ)を抜かしたのは実は別のことが殆どだったのです。

或いは現を抜かす事に情熱を注ぐ余り、仕事を忘れたのもしばしばでした。

そして、仕事や役割を充分に果たせなかったことが、どれだけ世の中に損失を与えた事か。

自分たちに都合のいい社会を保つ事、保身を囲う事にのみ神経をする減らした結果が今の世の中の有様です。

男共でスクラムを組んで、都合のいい事には共同戦線を張って。

でも、世の中そんなに甘くはありませんでした。
  


Posted by mister_kei0918 at 21:42Comments(0)

2008年02月20日

人間性を疑われたり、人間としての本性が見えなかったり

礼儀は人を助く

余り杓子定規に礼節を重んじすぎるのも返って人間関係を損ねたり、礼儀だけかと誤解を招いたりもするものです。

逆に礼儀や礼節がなさ過ぎるのは、人間性を疑われたり、人間としての本性が見えなかったり、付き合いを敬遠されたりも致します。

過ぎるも不足もどうかとは思いますが、どちらかというと礼儀礼節があって、損をする事はなさそうです。

一言の礼儀やちょっとした心遣いや礼節が思わず人間関係をより深めたり、思わぬ展開へ発展したりも致します。

良く挨拶は「相手の心へ飛び込んでいく事だよ」と言われます。当然自分の心を開いての事ですが。

「おはよう」の一言が信頼に結びついたり、「ごめん」の一言が終生の人間関係を構築したりもするものです。

逆にその一言を忘れたが為に、或いは言うチャンスを失ったが為に、もっと素晴らしい人生を切り開くはずの最大のチャンスを失っていたのかもしれません。

そこに笑顔を沿えればもっと最高ですが。


『礼儀正しさは人を飾り、しかも金はかからない。イギリスのことわざ』

『礼儀正しさが人の本性に訴えかける働きは、
熱がロウに伝える働きのごとし。ショーペンハウエル(哲学者)』

『行儀作法はしばしば運をもたらす。ラテンことわざ』

つい余りにも身近な人、例えば家内であるとか、恋人、子ども、親・・・何となく照れくさかったり面倒くさかったりもするものですが

そんな事を思いながらの日常は、何となく楽しいものになりそうです。

それが打算では困りものですが。
  


Posted by mister_kei0918 at 15:29Comments(0)

2008年02月19日

生涯の「涯がい」は、崖と流れる水の境目の事

人間の生涯は、未完成なエピソードの続き

表現が素晴らしいですね。
ストーリーでもないし、エッセイでもないし。
やはりエピソードでないといけなかったんですね。

『我々の願い通りになることなんて、そうそうあることじゃないんだよ。たいていの人間の生涯は、未完成なエピソードの続きじゃないか?   Tカポーティ』

エピソードには、悲しみやクスクス笑い、嘆き、そんなものを感じさせてくれます。

意味合いは「挿話」とか、文章や物語、演劇の幕間などに挟みこむ短い、小さな話のことですよね。

人間には確実な生き方やストーリーなんて存在しません。

夫々が生きた結果であり、大よその想像や当てにならない不確かな予想でしかありません。

自分が書いたように生きられるなんてありえないことですし、例えそんな人生だとしたら面白くも楽しくもないものです。

退屈極まりない、結局は努力も競争もしない怠惰な、堕落した世界でしかないように思えます。

予想もせず、唐突に、突然に襲い掛かってくる人生の荒波や幸せ。

それが為に血の滲むような努力や精進を重ねたりもするものです。

エピソードだから、実は悩んだり苦しんだり、迷い込んだ幸せに小躍りしたり、この次のエピソードに密かな期待を込めたりもします。

予想された、あるいは筋書きに沿った人生なんて面白くもなさそうですし、それは人生と呼ばないのかもしれません。

生涯の「涯がい」は、崖と流れる水の境目の事。

つまり、左にはそびえる崖、対する右には人をも飲み込む水の流れ。

人の生涯はつまり予期せぬ、思わずのエピソードやアクシデントの連続を言っています。

どっちに転んでも大変ですが、
経験や知恵、生き抜く力がバランスを取ってくれるのでしょうか。

人生そのものが何時まで立っても、何処まで行っても未完成。

明日はどんなエピソードが待ち構えているのか、楽しみでもあります。
  


Posted by mister_kei0918 at 11:01Comments(0)

2008年02月18日

不幸せ、不幸への階段の踊場なのかもしれません

朝顔の蕾

今時、朝顔の話をすると時期はずれで笑われそうです。

それは、梅の花や桜でも同じかもしれませんね。

私ども日本人は人の生涯や人生を自然界に例えて表現するのが上手ですし、極めて敏感に反応する国民性を持っていることは良く語られるところです。

こんな言葉を見つけました。

『朝顔は朝の光を受けて開く…のではありません。
24時間光を当てた蕾はついに開かなかったからです。

意外にも、夜の冷たさと闇の深さが開花に不可欠だったのです。
人間も、暗く悲しいことがあっても、
それによって人生の色彩を作っているのかもしれません。

今日の悲しみは明日の花咲くためです。』


幸せだけが人生でもありませんし、
また、不幸せだっていつもでも続くものでもありません。

実は小さな幸せの蕾が膨らみかけているのに気づかない自分かもしれませんし、充分な幸せにも関わらずそれを幸せと気づいていないのかもしれません。

大きな幸せの真っ只中かも知れませんがそれはまた、不幸せ、不幸への階段の踊場なのかもしれません。

或いはもう下り坂が目前に迫っているのかも。

幸せの絶頂はもう下るしかない坩堝の始まりかもしれませんし奈落の底への一歩が始まったのかもしれません。

「明日の来ない今日は無い」
「太陽の登らない日はない」
「闇は明日の夜明けの為にある」
とも言います。

明日の小さな幸せを望む事、
感じる事の出来ないことがむしろ恐ろしい事かもしれません。

今日の自分は明日の為にあることを信じながら、

明日の自分は今日の自分ではない事を信じつつ、

今日の夜を過ごしたいものです。
  


Posted by mister_kei0918 at 19:03Comments(0)

2008年02月17日

6年生の頃の家庭科の先生を好きになったのを

1983年2月25日の初恋

1983年は昭和58年です。

多分、ご記憶の方も多いと思いますが村下孝蔵さんの「初恋」が発売をされた年でした。

その時は既に起業をしてましたが、私自身がこの曲に興味を持ち始めたというより、聞かされているうちに心に染み付いた歌と言った方が正しいようです。

その頃は事業をまともなものにする為に一心不乱、粉骨細心の日々でした。

当然、別に初恋をしていたわけでもありません。

そうですね、
初恋は小学校の4~6年生の頃でしたでしょうか。
クラスの女の子で大きいお風呂屋さんのお嬢さんでした。
当然片思いです。相手にもしてくれるような状況ではなかったのです。

思い出しました。あと一つ。

当時は母が入院中で私一人で生活をしていた時期でもありました。
母一人子一人の家庭でしたので辛い日々でした。

当然、貧しい家庭ですから満足に食べるものはありませんし、自分で何を作れるわけでもなく。いつもひもじい思いをしていたのを覚えてます。

時々、遠く離れた祖父が不憫に思って尋ねてくれてましたのと、間借りをさせて頂いていた大家さんが差し入れをして頂きました。

話が飛んでしまいましたが6年生の頃の家庭科の先生を好きになったのを思い出しました。

その先生が私の家庭事情を可哀想と思われていたのでしょう。

家庭科の授業の準備や材料を事前に揃えねばいけないのですが、いろいろとアドバイスを頂いたものでした。

初恋の思い出も遥か彼方のものになってしまいましたが、久しぶりに聴いた村下孝蔵さんの「初恋」は依然として心に訴えてきます。

1983年当時、良く通った中洲のお店で店の女の子たちが数人でお客さんの為に歌ってくれていたものです。

時間を決めて歌っていましたのでいつも2回ほどは耳にしてからお店を後にしたものです。

ですから私の心に染み付いた曲の一つと成りました。

発売開始は2月25日ですから、今日から一週間後の事でした。

彼は出身が水俣市、亡くなったのが1999年、46歳。
  


Posted by mister_kei0918 at 12:47Comments(0)

2008年02月16日

強靭な精神力を持ったイチローならではのことでしょうか

満足は重ねるべき?

若い頃もそうでしたし、子ども時代にも大人から
「ここで満足したら駄目。
まだ先を目指せ!!まだ上があるんだ。満足するな」
と檄を飛ばされたものです。

つまり満足する事がそこで停滞してしまう、天井を突いてしまうとか或いは満足する事で気持ちが萎えてしまうとか、そんな事を危惧する余りそういう言葉になるのでしょうね。

言葉の意味からすると「満ち足りる」事ですから、言われてみるとそんな気がします。

でもイチローはこんな事を言ってます。

『満足は重ねるべき、
何かを得たらいつも満足をする事にしている・・・
それでまた新たな挑戦が見えてくる。   イチロー』

「ここで満足するな」等と言わなくてもいいと彼は言います。

ある目標を掲げてそこへ到達したら満足する。
そしてまた高いレベルの新たな目標を目指して努力する。
そういう事ですよね。

私のように気弱な人間は
満足した時点で達成感が満ち溢れて、次のステップへ進むにも時間がかかりますし、「もうここまで来たんだから後は少しのんびりと」等と気持ちも幾らか萎えてしまいます。

だから周りから
「ここで満足したら駄目。まだ先を目指せ!!まだ上があるんだ。ここで満足するな」だったんです。

強靭な精神力を持ったイチローならではのことでしょうか。

本当は一つ一つ、区切りをつけながら、
成果を噛み締めながら、
自分を褒めながら、
満足を重ねていくのがいいのでしょうね。
  


Posted by mister_kei0918 at 17:23Comments(0)

2008年02月15日

東の空には上弦の月

春の息吹が

昨日までの天気が嘘のようです。

平尾の野村望東尼さんの公園の梅の花も10日ほど前から満開状態です。

車で通りかかるだけでも香りが漂ってきます。

福岡城址の舞鶴公園ももう満開ではないでしょうか。桜ほど華やかではありませんが春間近を教えてくれます。

今日の朝7時頃の外気温が6~7度。
今、午後1時30分の外気温が24度。

幾らか水も温んできました。

今日の空を見上げましたか?

明らかに雲の形が変化して来てます。冬空からも明らかに春の訪れを教えてくれてます。

東の空には上弦の月が太陽の光に負けじと輝いています。

公孫樹の蕾も心なしか膨らんできました。
もうすぐ、桜の蕾もピンク色に色づき始めます。

心躍る春の訪れです。

子どもたちも希望に胸躍る季節の到来です。

私共も負けてはおられません。
老骨に鞭打って、あと一奮張りして見たいものです。

皆さんもご一緒に!!
  


Posted by mister_kei0918 at 14:16Comments(0)

2008年02月14日

悶々と一人悩んでいても、殆ど解決には結びつかないもの

見える化、見せる化の効能

最近、経営者向のセミナーや講演会へ出かけると良く言われます。
「見える化」

企業の問題点や経営の中身、経営者の考え、社員の能力や会社に対する思い、
家庭でもそうかもしれませんね。

父親がどんな考えや人生観を持って生活をしているのか、夫婦の問題でも家族に出来るだけオープンにする、子どもの夢や現在の悩み、努力の成果・・・。

特に私などはそうですが、
抱えた悩みは出来るだけ内密にして一人だけで解決を図ろうと試みたりするものです。

でも坩堝にハマった人間の心は、融通が利かず、周りが見えず、ゆとりさえも失っているものです。

解決の糸口どころか、混乱の極みを経験するものです。

『見えないプレッシャーを見えるプレッシャーにする。   イチロー』

とあのイチローは言ってます。

ただ、真剣に、有りっ丈の情熱を傾けてアメリカで戦っているだけと思っているイチローは実は守備のグラウンドで吐く程のプレッシャーと戦っていると本人が言います。

自分は何と戦っているのか、具現化することによって乗り越えるという事でしょうか。

我々の日常でもそうです。

自分の事を余り口にしない人、悩みを明かさない人、心を開かない人。

まず、何を考えているのか分かりませんからこちらも口籠ってしまいますし助け船だって出しようがありません。

具体的に相談されるとつい、力を貸してあげようとか、ない知恵でも振り絞って何とか応援をしてあげたくなるものです。

社長が悶々と一人悩んでいても、殆ど解決には結びつかないものです。

実はこんな事なんだと、胸襟を開いて社員に相談してみたら、案外思った以上の力を社員が発揮したり、実績を上げてくれたりするものです。

親子関係でもそうですよね。
「お前のこんな事で悩んでいるんだよ」とか
「お父さん、こんな事で頭を抱えているんだけど力を貸してくれない」
などと言われたら、つい両の手の腕まくりくらいするものです。

実は私の一番苦手なことなんですけどね。
  


Posted by mister_kei0918 at 19:11Comments(0)

2008年02月13日

自分を守る最後の砦は自分ですよね

自分で自分を見放したらおしまい!!

幾つになっても自分は可愛いものです。

時には褒めてみたり、
時には笑ってみたり、
時には嘲笑してみたり、
時には卑下してみたり、
時には叱咤してみたり、
時には激励してみたり、
時には見放したり、
時には勇気付けてみたり、
時には詰(なじ)ってみたり
時には蔑(さげす)んでみたり。

自分に対してだからこそこんな事が出来るんですよね。

他人にこれほどの行動や態度をしたら人間関係なんか存在するわけがありません。

或いは家族や親友にはこの全てではなくても何分の1かはできるかもしれませんね。

自分に対しては他人へは出来ないことも平気で行ってしまいます。

それはある意味、自分を信じている証かもしれませんし、自虐的な行動は逆に他人に対する優しさの裏づけであったり、そうありたいとする人間特有の行動かもしれません。

でも、自分を守る最後の砦は自分ですよね。

決して自分で自分を見放すような事ではいけません。
他人が例え信じてくれなくても自分だけは信じていかねばいけません。

多分、全てを否定し自分をも見放して終う時は人間として終わりを向かえるときかもしれません。

最大の味方は自分。
最後に支えるのも自分。

感情の動物である人間が一生を全うできるのはやはり自分を見放さない、見捨てない自分がいるからではないでしょうか。
  


Posted by mister_kei0918 at 07:53Comments(0)

2008年02月12日

それは奈落の底への一里塚だったりもします

女の道(みち)は一本道?

先日のNHK大河ドラマでの台詞です。

篤姫の乳母の強烈な言葉でした。

「女の道(みち)は一本道でござりまするぞ。
定めに従わず、引き返すは女の恥ですぞ」

島津斉彬の養女になることを躊躇する篤姫への名台詞でした。

聞いている私までもがドキッとしてしまいました。

いつも物事にふらついている私にしてみたら度肝(どきも)を抜かれたような、血が引くような言葉でした。

何事にも信念がなく、人の言動に左右されてばかりで人としての芯のない私にとっては「しっかりせんか!!」と活を入れられたようなものです。

人は事に当たっては、時として迷ったり、疑念を感じたり決断が鈍るときがあるものです。

何時までも決断を鈍らすばかりで時間だけを稼ぐやり方は結局、貴重なものを失ったり、素晴らしい転機をやり過ごしたりするものです。

自分の気持ちが100%固まらなくても行動に移すときも必要なものです。

天命とまではいわなくても、それが実は人としての重大な岐路だったり、転機だったり、好機だったりもしたりします。

それを後で気づく人もいますし、全く頓着のない人間もいるものです。

後悔をする程度で済むことであれば、それはそれで納得をしたりもしますが、それが人生を左右する、若しかすると大きな幸せをつかめるチャンスだったとすればこれは由々しき問題です。

良く、気持ちが7割程度固まれば、躊躇せずに行動に移せとは経営者のセミナーで聞く言葉です。

日常の事でもそうですが、煮え切らない行動は結局、チャンスを失うだけではなく人間不信までも引き起こしたりもするものです。

かと言って少しの配慮や情報の収集もなく、分別のない決断も困りものですが。

それは奈落の底への一里塚だったりもしますから。
  


Posted by mister_kei0918 at 12:55Comments(0)

2008年02月11日

中津市を通り過ぎてひとまず宇佐神宮へ

おもてなしってそんなもの!!来年のお正月の予約を

一昨日の夜は、あるバーチャル系の学びの仲間が博多に寄り合い、杯を傾けました。

顔を知っているわけでもなく声を交わしたわけでもなく、人間は不思議なものです。

同じ志を持つものは、顔を見合しただけで相通じるものが存在するものです。

ほぼ、考えている方向は同じですし年齢の差こそあれ、多分その学びついては価値観はほぼ同じ土俵上にあって共有できる人たちの集まりでした。

年齢は20台から80歳近くの方まで。
若い女性から老練なおじいさん?まで。

昨日の朝から大分県中津市の金色温泉「こがね山荘」へ出かけてきました。

北九州、苅田、行橋を経由して、中津市を通り過ぎてひとまず宇佐神宮へ。

久しぶりの宇佐神宮でしたがやはり全国の八幡様の総本宮ですよね。
歴史もそうですが広さや雰囲気が神宮としての位の高さを充分に認識させてくれます。

もう6時前後、
周りも幾らか夕張を迎えつつある山道をひた走ってお宿への到着でした。

近くでは旧暦で行われる「どんと焼き」が10日らしくてあちこちで大きなやぐらが立ち、道々には明かりが灯され、子どもたちが急ぎ足に会場へと向かう姿に出くわしたものです。

実は到着した金色温泉「こがね山荘」のおもてなしに感動をしたという話なんです。

昨年の秋にはリッツカールトンの重役の方の究極のおもてなしの話を聞いて以来、

ホテルやお店、サービス業のおもてなしが気になるようになってましたので当然、

ここでもそんな思いで食事や温泉、お部屋の事を拝見してましたが、

その配慮の細やかさや料理の美味しさに心を打たれ、結局は今年の年末、来年新年の宿泊を予約をする事になりました。

実は年末年始の私のスケジュールもまだ決まってはいないのですが。
  


Posted by mister_kei0918 at 18:58Comments(0)

2008年02月10日

奥さんは美人だし、子どもは頭がいいし

どうも私だけが貧しくて、私だけが倹しくて!!

そんな想いはありませんでしたか?

若い頃は
「どうして自分だけあくせく懸命に働いているのに周りは贅沢に生活してゆとりがあって、
繁く旅行にも出かけて立派な家に住んで、
車も新車で、
身につける洋服もブランド物で、
中洲へも飲みに出かけるし外食もしょっちゅうで、
家族は幸せそうだし、
奥さんは美人だし、
子どもは頭がいいし、
親は財産持ちで、
会社の社長で・・・自分だけどうしてこんなに貧しいのだろう」

「こんなに倹約をしてもお金は貯まらないし、自分だけがどうしてこんなにまで節約したり、倹約したりしないといけないのか」

「若しかすると自分は一生こんな惨めな生活に終始するのだろうか?」


こんな事はありませんでしたか。

でも、良く考えてみると一人の人間がそんなにまで恵まれているのは極めて稀で皆、同じような思いに駆られているものなんです。

一つや二つはあるかもしれませんね。
「天は二物を与えず」とはいいますがそんなことはないようです。

私もいつもそんなことを考えている青年でした。
おまけに自分の性格や生まれ、体・・・何もかも恨み節の対象にして、まるで悲劇の主人公に仕立てて傷を舐め舐めしているようです。

実は周りを良く見てみると
状況は似たり寄ったり。

そんなに変るものではないものです。四方八方から耳に入ったり目で見たりすることを全ての人がそうであるように錯覚しているだけで。

或いはもっと過酷な状況の中で頑張っている人のほうが多いかもしれません。

大切なのは
だからといって現状に満足してはいけませんよね。

あと一つを手に入れるための努力を怠ってはいけません。

それが大事なんです。
人よりも一歩でも二歩でも先を行こうとする努力。
決して人を押しのけたり跳ね除けたり、無視したりしてはいけません。

人から学ぶ事の大切さを充分に認識、実践しながら自分の道を見つけることではないでしょうか。

自分のあり方を。  


Posted by mister_kei0918 at 09:15Comments(1)