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2008年03月31日

時には苦手、不得手な振りをする

時には苦手、不得手な振りをする

完璧な人間っていませんよね。

想像してみて父親が完璧だったり、社長が完璧だったら何か気味が悪くありませんか?

或いは母親でもいいですが、完璧な母親っていませんしいたらお会いしたいくらいです。

人間ってそんな風に作られているんではないでしょうか。
だから、キリスト様でもお釈迦様でも苦難の修行や道を歩まれたんだと思います。

或いは自分は完璧だと思っている人は存在しますよね。

実は完璧なのではなくて、思い込みが激しくて自己主張が過ぎていて、自分知らずで我侭で、世の中知らずなだけなんですけどね。

やはり人間らしいのは、完璧でない若しくは完璧とは程遠い人間ほど親しみやすくて、手を貸しても上げたいものです。

人間としての経験や苦難を人並み以上に経験したり、その道の勉強を重ねたり、修行に余念のない方もおられます。

私が存じ上げている方々の中にも、ただ拝見しているだけでも心休まる人はおられるものです。

見てますとそんな方でも、苦手な部分、不得手な所が存在する事に気づきます。

わざと作っておられる部分もあるように見受けられることもありますが、大概はその人となりがそうさせている、あるいは人として全てを完璧に行う事の困難さを痛感しますし、一面その壷をちゃんと身につけておられるようにも思えます。

或いはそんな方々は、比較的に割り切っておられて、出来ないところはしっかり人に任せる、人を信頼する術を備えておられるように見受けます。

家庭でもそうですが、
人間的に尊敬できない父母では困りますがそうでない範囲では父親とて苦手な部分や不得手なところがあるんだということを見せておいても良さそうです。

その方が却って子どもの成長を早め、自立心を育て、自分の力を人の為に遣うことを覚え、存在価値を自らが見つけるように思われます。

企業でもどうも同じに思えます。

私などはつい負けず嫌いですから、
子どもにも無理して完璧であろうと努めてきましたが、どうせ死ぬまで続けられる訳でもありませんし、人間何処かでボロが出てしまいます。

そこで信頼を失ったり、過去を否定されても大変ですからできれば最初から、弱みを見せたり苦手な部分や不得手な所を見せたり、作っておいてもいいかもしれませんね。

人間の関係ってむしろそんなところから深まるようですよ。
  


Posted by mister_kei0918 at 08:37Comments(0)

2008年03月30日

花は見て上げなさい、人は見つめなさい

花は見て上げなさい、人は見つめなさい

まさしく春真っ盛りになってきました。

福岡の桜は部分的に或いは花木の個体によっては既に満開を迎えている木もあります。
でも大半の桜はまだ。

あと4、5日を待たないと満開にはならないような気がします。

桜だけではありませんよね。チューリップ、パンジー、ラッパ水仙、こぶし、木蓮、もうつつじの蕾も色づいてきました。

ここ数年、花木、特に花を見ることが大きな楽しみな一つになって来てます。

美しいですよね、
どうしてこんなに美しいのだろうと訝しくさえ思ってしまいます。

造形美というか、創造主の力の凄さと言うか、自然の美しさに圧倒されてしまいます。

それとそんな花たちの美しさに傾けられる心の有難さや、今の自分の心のゆとりに感謝しています。

いつも花を見ていてやはり見て欲しんだなと思わずにはおられません。

桜などは特にそうですが、
たかが4、5日の花を咲かせるために一年間の酷暑や厳寒に耐え抜き、春を待ちわびるかのように蕾を色づかせ、木一杯の花を咲かせるエネルギーはたたえて上げねばいけませんし、やはり見てあげなくてはいけません。

気をつけてみていると花を咲かせる前の桜の木は幹までも色づいてくるようにも思いますがどうなんでしょうか。

人もそうです。
家族も友人も見ることも大切さを痛感してきました。

逆に眼をそらす事、見ないことがどんなに恐ろしい結果をもたらすか、今の時代が証明してくれてます。

人の場合は、
心が存在しますから見るだけでは満足しませんよね。

他人は見るだけでもいいかもしれませんが家族や恋人、心寄せる人々は見つめなくてはいけないように思います。

見て、表情や内面をも見てあげたいとする思い、それが「見つめる」。

心を通わせようとする思いが「見つめる」という行動の始まりだと思うのです。

人は見つめられる事でより進化しようとする行動や美しくなりたいとする努力、真剣の自分のことを思ってくれているという安心感、また自分に対する期待感をも感じたりも致します。

デビュ仕立ての女優さんが見る見る磨かれていく様子などはまさしくそんなことではないでしょうか。

振り返ってみますと人を「見つめる」という事は、結局は自分を成長させ、高める効果を持ち、内面を見つめる事になるようにも思います。

人を見つめるには、人から見つめられる事に耐えられる自分でないといけないことは当たり前ですよね。

難しいことですが、見つめる事はより深い心の想いがそこに存在するようです。
  


Posted by mister_kei0918 at 13:37Comments(0)

2008年03月29日

桜の佐賀、長崎へ

桜の佐賀、長崎へ

今から、大型バス2台を連ねてのさが、長崎紀行へ出かけてきます。
お目当ては当然桜ですがどの程度開花しているのでしょうかね。

本来は年度末の大変な時期ですから、余り気乗りは致しませんが行事の一環でお世話係ですので参加しないというわけにも行きませんし。

佐賀も長崎も行き付けた所ですので、観光よりもお目当ては桜。

福岡がまだですので幾らか期待はしてますが。  


Posted by mister_kei0918 at 07:16Comments(0)

2008年03月29日

人間の狼は羊の顔?

人間の狼は羊の顔?

最近の事件をマスコミで見ていると
「まさかそんな事をする人ではない」、
「真面目な人でとても想像もできない」、
「家族仲も良くて、親子、夫婦で睦ましい姿を見てました」、
「人当たりの良い方で明るくて気さくな性格ですよ」・・・・・。

人間なんて本当に分かりませんし、ましてや心の動きなんて想像だにできません。

人間の本心が行動に現れているとも限りませんし、だからこそ優しい側面が出たたり、だからこそ正義感が表面に押し出ていたりもするものです。

良くある話で
「結婚前はあんなに優しかった夫が豹変したように変わった」とか、
「全くそんな素振りはなかったのに、暴力的な行動や言葉に悩まされている」、
「結婚前はよく色んなところへも連れて行ってくれていたのに途端に旦那は何処にも連れて行かない。自分だけゴルフや釣に興じるようになった」・・・・・

人間ほど、場合によっては豹変する動物は他にはいないのではないでしょうか。

だからこそ、常日頃から人と激しく接点を設けることによって訓練を繰り返し、本来の人のあり方を学んでいくものだと承知しております。

自分も実は羊と思っていても人間である以上、いつ狼に変わるかもしれませんが長い人生の中で苦しい場面や眠れない夜、切羽詰った状況を幾つも幾つも乗り越えながら人としての修練を積み重ねていくことの重要性を痛感いたします。

会社であればただ、業績の競争や技術レベルの向上、利益の確保だけではなく夫々の人々が人間性の向上に向けて努める場、精進の出切る所でもあるわけです。

生活の糧としての仕事ばかりではなく極めて大切な人としての糧の場であります。

私も大いに反省しきりですが、家庭でもそうですよね。
夫婦が一つ屋根の下で暮らすという事はお互いの価値観や思想信条を尊敬しつつ、認めながら切磋琢磨を繰り返しお互いがお互いの人としても価値の高め合いだと思うのです。

理性を高め、深めつつ相手の心に土足で踏み込む事のないように精進の日々を送りたいものです。

人生は自分見つけの旅のように思います。

本当の自分は何処にいるのか。

あらゆる経験や苦悩を繰り返す事によって、本当の自分が見えてくるように思うのです。

その様に考えると、今日の苦しみや明日への悩みの自分見つけの為の一つと思えば楽しくもなるものです。

いずれにしても、もう聞きたくない!!そんな心境の毎日のニュースです。
  


Posted by mister_kei0918 at 00:21Comments(0)

2008年03月28日

花見は大人数に限る?

花見は大人数に限る?

昨夜は100人を超す花見でした。

花はあと少し、4~5日は必要かもしれません。桜の木そのものの個体差もあるようですし、地域や日の当たりにも影響されるのでしょう。

隣の木は満開なのに、私の自宅の近くの花はもう葉桜なのになどなど。

それもまた自然の成り行き、風情、ままならないところなんでしょうね。
だからこそ掴みどころがなくてもどかしくて自然の深いところなんでしょうね。

花見の会場は隣が前方後円墳があり、眼の前は規模はそう大きくはありませんが公園になっていて桜の名所です。その公園の中にある特別な場所での花見例会でした。

そこがビール工場の中に存在してますので当然ビールは出来たばかり、注いだばかりですから旨くて当然。

おまけにそのビールメーカーの赤ワインまで提供いただいて。

弁当は当然、花見弁当を準備戴いて、おでんに焼き鳥を添えて。

お世話をする方々は大変なことでした。
ボランティアでよく頑張っていただき感謝してます。

花見は恋人同士であれば当然二人、家族や職場であればそれなりの人数ですが、大人数での花見もまた楽しいものです。

乾杯が終わった途端に花を愛でたり、見上げたりする事も忘れるほど会話に夢中になってしまうものです。

アルコ-ルに飲まれる人、管を巻く人、罵詈雑言を吐く人は、最初からご案内を差し上げてませんのでそんな危惧の必要のない人々の集まりです。

胸襟を開いて、楽しい豊かな会話に包まれて、明日への活力となるような余韻が残れば大成功です。

仲間に感謝、お世話の皆様に有難う。
  


Posted by mister_kei0918 at 11:12Comments(0)

2008年03月27日

人間はそこまで鬼になれるのか

人間はそこまで鬼になれるのか

「鬼の目にも涙」とも昔から言います。鬼にも一分の涙が存在するんです。
血も涙もないのは実は人間でした。

最近の事件、実は人間はそこまで鬼になれるのかと自問をしましたがこの言葉を思い出しました。

先日の千葉県の事件、昨日の岡山県の事件、もう振り返るのも嫌なほど聞かされてきています。

我々の想像の域を遥かに超えた幾多の事件が起きたのでしょうか。

「人間はそこまで鬼になれるのか」とのタイトルを書きましたがもう鬼以下、地獄の沙汰どころの話ではなくなってしまいました。

人間ほど残忍、残虐、非道な動物は存在しないのではないでしょうか。
一粒の涙どころか涙のかけらも感じられない悲しい事件の連続です。

何がそうさせるのか、どうしてそんな人間が出来上がってくるのか、不思議な気さえします。

いずれにしても安心して安全に心安らかに暮らせないものでしょうか。

政治や社会構造に問題があるようであれば、一日でも早く解決の手立てをしなくてはいけませんし我々個人でできることがあるとするならば是非努力も重ねてみたいものです。

家庭でも、学校でもやれること、やらねばならないことがあるならば早急に知恵を絞って勇気を持って取り組まないと、人間自身がとんでもない存在になるような気がしないでもありません。

そのうち、地球からも締め出されるかも。

自然にも悪い事を随分してきているし。
  


Posted by mister_kei0918 at 13:44Comments(0)

2008年03月27日

面接の日々

面接の日々

先日、25日から面接が始まりました。

会社の制作デザイン部門と営業の増員の為に募集が始まりました。

今回は何人の方々にお会いするのでしょうか。
多分、小さな会社ではありますが面接にお見えになる方々はそれなりに身だしなみを整え、書類も整理して、緊張を解そうと努力をされているものと拝見してます。

実は面接をする私のほうも緊張するんです。

緊張というか、
説明をしなければいけないところはきちんとしなければいけませんし、お見えになる方々の緊張は解さないといけませんし、しかも当社の印象も良くしておかないといけませんしね。

出来れば全ての方を採用できればいいのですがそういうわけにもいきませんし、選ぶ方にもそれなりの苦労や苦心が存在するものです。

面接だからといって、横柄な言葉使いや態度は禁物。

唯でさえ、身の引き締まる思いや緊張ではち切れそうな思いをされているわけですから、せめて帰るときくらいにはゆっくりした心持で帰って頂かないと。

先輩の社長が昔言われてました
「○○君、自分は採用するときは一番最初に面接した人に決めるようにしているんだよ。多くの人に会ってもそんなに優劣があるわけでもないから、一番先に縁が出来た人に決めている」。
といわれた事があります。

それも一理ですが、私は少し違います。

出来れば多くの方、つまり最後まで面接を致します。

折角、当社への就職を希望したわけですから全ての方にお会いするのが礼儀だと思っていること、

一人でも多くの方の話をお聞きする事が私の勉強や経営や、
考え方にも大いに参考になること、
できれば若しや採用にならなくても少なくとも当社に一人でも多くの方に足を運んでいただき、つぶさに見てほしいこと、

私の人生観の一端でもお話できる機会であること・・・・・。

今日も数名の方の面接を行います。

私も真剣です。
  


Posted by mister_kei0918 at 11:38Comments(0)

2008年03月25日

好きになることは易しいけど愛する事は難しい?

好きになることは易しいけど愛する事は難しい?

仕事もそうですし、人に対してもそうです。

好きになることは簡単にできますが、愛する事は大変で難しいものです。

方や惚れるという言葉もありますが惚れる事は容易ですが惚れ込む事は難しいものです。

私などは性格が軽いものですから「好き」の言葉を連発してしまいます。

でも、誰にでも言うわけではないのです。
ある程度好意を持っている人に対してですが若い頃はとても言えなかったんですが今となっては比較的楽に口をついて出ます。

それも人生を重ねてくると、好きという感情と愛するという想いは別物であることを認識できますし場合によっては好きという言葉を使う事によってより深い人間関係の構築に役立つ事を知ったこともあります。

女性にも好きといったからとて今更、恋愛感情に走るわけではありませんし、さらっと気安く言葉にする「好き」はかえって爽やかだったりもするものです。

これを家内にも恥ずかしさを感じないで軽く言えるといいのですが。

そして、片方の「愛する」は中々、口にする事は出来ません。
それなりの深い想いや幾らかの覚悟を要するとの認識があるからでしょうか。

「好」の字の象形は母親が子どもを抱いている様を書いたもので微笑ましい、美しい、好ましいの意味ですからやはり愛よりは幾らか心のあり方が希薄というか軽いと考えていいのでしょう。

「愛」の字の象形は頭を巡らせ、振り返り振り返り想いを通わす、想い慈しみの意味があるようです。

アイラブユーは軽い乗りでいえますが「君を愛しているよ」は余程でないと口には出来ないものです。

日本語そのものがそんな性格の言葉なんでしょうね。
それが国民性でもありましょうし。

でも愛してる人の数が多いほど幸せに近づきそうな気がしないでもありません。
  


Posted by mister_kei0918 at 13:27Comments(0)

2008年03月24日

仇(かたき)を多く作るよりも良き師を一人

仇(かたき)を多く作るよりも良き師を一人

卒業シーズンになると子供たちのニュースがあちらこちらから飛び交います。

いいニュースに出会うとつい慶びに頬が緩むものですが、そうでないときは塞ぎ込んだり、悲しかったり暗い面持ちになるものです。

最近も中学生が授業のボイコットだけではなく妨害を繰り返し、挙句の果ては職員室や校長室の什器備品までも壊したりしている事が報じられてます。

卒業式の混乱は幾らか収束したのか余り報道されなくなりましたが或いはもうニュースバリューを失い取り立てることにも入らなくなったのでしょうか。視聴者の気を引くニュースにならないのでしょうか。

よく、卒業式の当日に先生を校舎の裏に数人で呼びつけて暴力を振るったなどのニュースも聞きましたし、子どもたちの話の中にも良く登場したものです。

所謂、在校の期間にどうしても自分たちの気にそぐわない先生は所謂、仇なんでしょうね。

卒業証書を受け取った後であれば、自分の成績や内申書、成績の影響が及ぶ事はありませんからこのときが仕返しの最大のチャンスなんでしょう。

それは人間の関係ですから気に食わない、許せない関係も存在するのは当たり前ですし、社会に出れば殆どがその様な状況です。

今の世の中の状況を見たら、人の命や尊厳を軽視する若者がどれだけ存在するのか恐ろしくさえなります。

親は何を考え、何を子供に教えてきたのでしょうか。

人間としての大事な事は体を張ってでも教えなくてはいけません。

中学生の2年生の頃は第2の成長期であり反抗期です。もうそのときは既に遅きに失してます。

三つ子の魂百までといいます。幼児期の教育こそ人間性確立のチャンスであることを分からねばいけません。

暴力が解決するのは何もありませんし、後悔をするに決まってます。相手の先生には一生忘れ去る事のできない悲しい苦しい思い出となって負いかぶさってしまいます。後悔さえもなければ人間の顔をした狼でしょう。

多くの先生の中から一人でもいいから素晴らしい先生、師と仰ぐ方を見つけることの大切さを学ぶべきでしょう。

生涯の支えにもなるものです。
  


Posted by mister_kei0918 at 12:48Comments(0)

2008年03月23日

愛情が色濃いうちは

愛情が色濃いうちは

愛情が色濃いうちは、少々の事も許せたり、認知も出来るものですが希薄になってくる途端にとんでもない事になってしまいます。

よく言われます。
「箸の上げ下ろしも気になってくる」。

その人が立てる物音でも、極端に言えば吐息でさえも気になりだすものです。

こうなると余程の事がないと修復は不可能ですし、一旦は離れるなり別れるなりしないと多分溝は深まるばかりに間違いがないものです。

愛憎などという言葉もあるくらいですから。

愛情の「愛」は人や自然をいつくしむ事ですし
「情」は心が深い、若い、ある意味純粋、或いは始まりのこと。

人間としての人を純粋にいつくしむ事が所謂愛情という事でしょうか。

それに加えること「始まりの時の心と変わりなく」という事かも知れません。

予断ですが「恋」も愛情の一つでしょうが私は勝手にこのように解釈しています。

「恋」の下の象形は心そのもの。

上の亦(えき、やく、また)は二つ、あるいはいろんな意味で二股と解釈してもいいのでしょうか。したがって二つの心がうごめく様。

或いは幾重にも葛藤や思惑、挫折を繰り返す男と女の心の有様と解釈しますが如何でしょうか。

極めて個人的な勝手な解釈ですのでご容赦を。

話は戻って、
愛の話ですが相思相愛という言葉の通り、人間は想い想われる事によって心が満たされるように出来ているようで、片想いでも満足しませんし増してや愛を袖にされると大変に苦しみ悩むものです。

できる事なら、愛情の対象は失うことなく増えていってくれるとそれだけでも心豊かに生きていけるものです。


『愛が薄くなると欠点が見えてくる。   西洋ことわざ』
  


Posted by mister_kei0918 at 17:44Comments(0)

2008年03月22日

人を許せる人ほど好きな人の数が増える

人を許せる人ほど好きな人の数が増える

日本人の好きな言葉に「罪を憎んで人を憎まず」と言う言葉が昔からあります。

罪を犯すには家庭環境や社会、時代背景にもその一端があり、人を憎んではいけないという事だと私は解釈しています。

私自身は「罪を憎んで人を憎まず」と言う言葉は余り好きではありません。
些細な事ではそういう事もあり得ますが巷に発生する事件事故の殆どは許せない事が殆どであり、これを許しては被害者はたまらないと言う思いがあるからです。

自分の身に置き換えてみても納得できない、許せないと言う事が余りにも多すぎます。

この言葉の背景には或いは違う解釈や歴史が存在するのかもしれませんね。

「許」は何処か許す側の威圧的、傲慢さなどを感じるのですがどうでしょうか。

聞き入れる、認める、任せる、興す、盛んにする等の意味がありますがどうもそんな匂いはしますよね。

許せばいいという事でもありませんし、許さない勇気も必要なものです。

私自身はむしろ寛容という言葉の方が好きです。

「寛容」の寛の字はやぎの象形文字のようです。
ですからおっとりした優しいおとなしいそんな感じがしますし心を思わせます。

意味合いは広い、優しい、深い、豊か、緩やか、許す、のびやか、穏やか・・・そんなところのようです。

容の字は受け入れる、包み込む。口や家のように多くのものを受け入れるとの意味を持つ象形文字のようです。

人に寛大な人。何でもかんでも許す、受け入れると言う事ではありませんよ。
当然厳しさや強さが裏にあるから寛大さも生きてくるわけですから。

人に寛大な人の周りには多くの人が寄り合います。寛容の心はつまり人の心を引き付ける魔力を持つような気も致します。

時には自分には寛大で他人には厳しすぎる人も見かけます。
出来れば自分には厳しく他人には寛容でしょうか。

明らかに放任や溺愛とは違いますよね。
放任や溺愛は人を堕落させ、人間としての心の成長の妨げとなってしまいます。

人生では上手い使い分けが必要なんでしょうね。
  


Posted by mister_kei0918 at 16:34Comments(0)

2008年03月21日

東京へ行ってきました「盲導犬チャリティセミナー」

東京へ行ってきました「盲導犬チャリティセミナー」

昨日は春分の日。お彼岸の中日という事でしょうか。

急遽、東京に出ることにいたしましたのでお墓参りは16日の日曜日に行ってきました。
今月は2回の東京日帰りとなりました。

昨日は朝6時半に会社に来て残務の整理とブログを書いて車で空港へ。

8時5分のANAにに乗り、会場の有楽町の到着が10時半。
11時半の開場には少し時間がありましたので駅前のビックカメラのPCコーナーを散策。

凄いものを見つけました。
ネットへ繋ぐデータカードがついたノートPCが19,801円。

余程その場で買おうかとも思いましたが、思いとどまって福岡へ帰ってから再びビックカメラへ出向く事にしました。

或いは買うことになるのかも。

実は15日の会議で会った友人が持っていたんです。
聞くと東京で買ってきたとの話。誰もそんな価格を信じることだ出来ませんでしたが私がそれを確認した格好になったわけです。

1000人が集まるセミナー会場には既に長蛇の列が出来ていました。

5人の講師がお話になりましたが、それは刺激的な素晴らしい内容でした。

出かけましたのは内容もありましたが趣旨目的が収益の殆ど(1000万円?)を盲導犬協会へ寄付をするということに感銘を致しました。

会場入り口には寄付を呼びかけるコーナーや盲導犬も来てました。
賛同された講師の方々も無料との事。

私の隣の方は兵庫県でしたが沖縄や北海道、全国からもお見えのようでした。
東京の凄さを見せ付けられた様な感じでもありました。

6時間のセミナーと最終便での帰福でしたので幾らか疲れ気味でしたが、
東京土産を待ってくれていたのでしょうか、
10時半まで待って土産を受け取ってくれた孫の笑顔で疲れも吹き飛んでしまいました。

今日からも頑張らないとね。セミナーの中身も噛み締めながら。
  


Posted by mister_kei0918 at 09:07Comments(0)

2008年03月20日

「愛するあなたの為に自分を磨く」

「愛するあなたの為に自分を磨く」

若い頃でしたら自分の将来の為に何か役に立つことを習得したいとか、技能を磨きたいとかそんな事を常に考えながら過ごしていたものです。

いよいよここまで来ると、大よそ人生の半分は充分に過ぎましたし、子どもたちも大きく成人をし家庭的にも安定をしてきました。

もうここらで自分の為に求めるものも少なくなってきました。

自分を追い込んで我慢をして、敢えて自分に壁を作って乗り越える努力をさんざんしてきたものでした。

意欲や気力が減退したのではなく、諦めたわけでもありませんが、この付近で自己の利益や保身をかなぐり捨てる年齢に近づいてきたようです。

自分の人生はもうこれからは自分のものではなくて家族や会社、社会の為のものであるようにも思えます。

愛する家族や友人知人、或いは会社や地域社会の為に少しでも役に立てるような人生にしなくてはいけませんし、勉強や研鑽の必要があるとするならばそれは自分の為ではなさそうです。
「愛するあなたの為に自分を磨く」。

今朝から、また今月2回目の日帰り東京です。

朝8時5分のANAで東京へ飛んで、有楽町で6時間連続セミナーを受けてきます。
実は盲導犬へのチャリティのセミナーでもあります。

日帰りで羽田発20時5分福岡着、帰宅は22時頃でしょうか。

いつもは品川プリンスが宿泊ホテルなのですが、満室状態のようですし、あくる日の午前10時には来客になっていますので日帰りとしました。

愛するあなたたちの為に自分磨きの旅をしてきます。
  


Posted by mister_kei0918 at 05:49Comments(0)

2008年03月19日

恥は重ねる程に人を強くし、嘘は重ねる程に奈落に落ちる

恥は重ねる程に人を強くし、嘘は重ねる程に奈落に落ちる

私などは赤面症ですから人前で話すのも嫌ですが、出来ることなら嘘をつかないで過ごせると嬉しいのですが。

やはり「嘘も方便」宜しく止むを得ずつく嘘もあるものです。

また、それが世渡りを上手なものにしたり、相手に好都合な状況を作ったりもするものです。

だから、つい小さな嘘のつもりが大きくなってみたり方便を重ねるうちに嘘の塊みたいな人間にもなってしまったりもします。

恥は字の如く「恥じて耳を赤らめる」。
人間らしい字に思えませんか。赤くなった耳たぶは何となく微笑ましかったり、可愛らしかったり、心の素直ささえ感じてしまいます。

「恥を知り、修養をして善に至る」とも言いますし、恥を知らない人を「厚顔無恥」とも言います。

「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」とはよく言われます。
恥ずかしいと思わないでどんどん尋ねたほうがいいよとのこと。

知識を豊にし、人との交わりを良くし、恥ずかしさを乗り越えるたびに人間として強くなっていきます。

「嘘から出た誠」とも言います。

嘘にまみれた人生は人間関係も構築できませんし、信じてもらえない人生はこれほどつまらない、惨めな人生はありません。それを「自業自得」とも言いますが。

嘘で塗り固められた人生は、もう嘘の中でしか生きる事は出来ませんし、嘘で貶めた人の数以上に自分を陥れる事になってしまいます。


『人々がいつでも、正直なことをいうのはなぜか。
神が嘘を禁じたからではない。
それは、嘘をつかないほうが気が楽だからである。
ニーチェ(独 哲学者)』

『よほど巧みに嘘をつけない限り、
真実を語るに越したことはない。Jジェローム』
  


Posted by mister_kei0918 at 15:13Comments(0)

2008年03月18日

その方との出会いは二度はない

その方との出会いは二度はない

人との関わりは始めての対面で大よそが決まるような気がしませんか。

この人とは長く付き合えそうとか
この人は自分のタイプではないとか
どうも人間的に好きになれそうもないとか
こんなところがいけ好かないとか


何となく長く付き合っていると修復できるところがないではありませんが何処かに初対面の印象が付きまとうものです。

逆に好きなタイプでありながら、付き合っているうちにどうもそうでない部分が気になったり、目に付き始めたりも致します。

でも振り返ってみると、「そういえばそんなところを感じないでもなかった」ということも良く経験する事です。「やはりそうだったんだ」とか。

本当に初対面は大事なようです。

その瞬間で一生の友となったり、場合によっては結婚にまで発展して、一生の伴侶にまでなったり致します。

実は私がその経験者ですが。

妻に会った瞬間に「この人と結婚する」と思ったものです。

当時、大阪に勤務していたのですが実は9年来付き合っていた彼女が東京にいたのです。

仕事の関係で福岡へ出張となり、そこで偶然に出会った同じ会社の支社の女性にそんな出会いを致しました。

結婚の話でなくても人間不思議なもので、そんな事を嗅ぎ分ける能力を本能的に持ち合わせているようにも思えます。

お店などでもそうですよね。

初対面がいいと味も美味しく感じますし、少々高くても納得してしまいます。
しかも2度も3度も足を運んで買い物もしてしまうものです。
お店が遠くても。

お店でアンケートを取ったらしいのです。
お味はどうでしたか?
価格はどうでしたか?
色は?、包装は?


最後に、お店の雰囲気はどうでしたか?
店員のご挨拶は?

最後の雰囲気や店員の印象の良かったお客様に限って、始めの質問の答えが「味は美味しい、価格は手頃、色も包装も良好」と答える結果となったようです。

最後の答えが良くなった人は、言わずもがなです。

やはり、初めて出会う印象は全てに影響するようです。次出会ったときではもう遅いようです。

私も出来るだけ、気をつけるように、好感をもたれるようにしないといけませんね。
  


Posted by mister_kei0918 at 12:57Comments(0)

2008年03月17日

眼が笑っていない?

眼が笑っていない?

「眼は心の窓」とも言いますが、私の友人があの人は「眼が笑っていない」と言うんです。

確かに口元や頬は上がってますから本人は笑っているつもりなのでしょうが、眼が確かに笑っていません。

眼光鋭くて、相手の心やその動きを見透かそうとしているのか、却って不気味な感じさえするのです。

むしろ眼だけが笑っていたほうがいいかもしれませんね。

顔の上部分、眼だけを出して笑っているかどうかを見ると一目瞭然かも。

象の目が優しくておとなしくて、いつも笑っているようにも見えますがやはりその形なんでしょうね。

人間の場合にはプラス心のあり方でしょうか。

私もそうですが曇った心や訝しい心、蔑んだ思いが存在すると人間は何処かにそれが現れてしまうものです。

大人が赤ん坊を見て笑うときの笑顔が一番美しいといいます。

出来れば屈託のない赤ん坊に多く接する事も訓練になるのかも知れません。

良く「あの人は眼光鋭い」とか、「眼に落ち着きがない」とも言います。

また、会話の時には「人の眼を見て話しなさい」とも言いますが、余り見つめられると会話は弾まないものです。

時には眼をそらせて、相手に緊張感を与えないのも大事なようです。

眼は「心ほどにものを言う」。

そうです。或いは言葉以上に語るのが上手かもしれません。
  


Posted by mister_kei0918 at 15:53Comments(0)

2008年03月16日

幸せの空気に包み込んでくれる人

幸せの空気に包み込んでくれる人

人の雰囲気は不思議なものです。

近くにいるとどうしても陰気な雰囲気を感じてしまう、或いは闘争心が湧いて着てみたり、落ち着かない気分になったりする人がいるものです。

或いは寂しい気分、悲しい気分、涙を誘うような雰囲気を醸し出す人もいるものです。

また、優しい雰囲気で包み込んでいただける方もおられるものです。

良く、明るくなりたければ明るい人、
幸せになりたければ今が幸せな人、
事業を成功に導きたければ現状で上手く行っている会社、
伸びている会社、利益の出ている会社や経営者と
付き合うように努力しなさいとは常に言われます。

結婚式に割りと頻繁に呼ばれる人を例にとってもそう感じます。

幸せな雰囲気に何度も浸ってますと、その事の素晴らしさを肌身に感じてますし、気持ちの高まりも凄いものです。

また、そんな雰囲気を持った人々の中にいること事態が既に心の状態が出来上がってますし、周りの異性たちも充分な気持ちを持った者たちの集まり化しているものです。

また、人の幸せを純粋に喜ぶことの大事さや素晴らしさを学ぶものです。

そんな人や会社は周りをも取り込んで明るく、幸せな生活や、業績向上に寄与する力も秘めているようです。

出来れば、笑顔に満ち溢れた方、
幸せに包まれている方、
経営が順調でひたむきに努力している方を見つけることも人生にとっては大事な事のようです。

私の近くにもそんな方が沢山おられます。
それにあやかってみたいものです。

少しは、ご苦労されている方や幸せを見つけようと頑張っている方々の力になる事も大事な事のようですよ。
  


Posted by mister_kei0918 at 10:35Comments(0)

2008年03月15日

「優しさは人を憂う事」

「優しさは人を憂う事」

昨日は家内と二人で福岡市中央区で行われた「第6回おもてなし塾」へ出かけてきました。

抽選ですから夫婦で当たったのは珍しいのではないでしょうか。
しかも夫婦で参加したのはこれで2回目。

人と経営研究所・所長の大久保寛司さんが講師で笑いが多く、時にはしんみりと、時には厳しい指摘があったり全般的には明るく楽しい時間の経過を忘れるくらいの内容でした。

ただ、訴える、諭すだけではなく視点や方向を変えた物事の見方、考え方を教えていただきました。

一番に私の気を引いた言葉です。
「優しさは人を憂う事」、読んで字の如く。

私のように自分に優しい人、我田引水的な人間にとっては本当に有難い優しい言葉です。

人に優しい人は結局は自分にも優しい人なんですね。

人の幸せは自分から作り出しことは難しいものです。
たとえそうであってもその幸せは比較的足元が弱く、長続くせず、或いは人から疎まれたり蔑まれたり、足元をすくわれることも少なくないものです。

人から頂いた幸せは、幸せの深さも深く、周りが持続するように支えてくれますし、自分の気持ちの豊かさがますます高まっていくものです。

幸せを勝ち取るには、それなりに時間と人を幸せに導こうとする努力、自分の心や頭を磨く投資や労力が必要なようです。

自分に回ってきた幸せを受け入れるにも、準備や努力が必要な事といわれます。

準備をした人に幸せは巡ってくるとも言います。

その第一歩が「人を憂う気持ち、人の幸せを我が喜びとする気持ち」なのでしょう。

今日の自分にはどれだけ人に優しくできる自分がいるのか楽しみです。


『人を幸せにすることが自分の幸せと思える人は、幸せになりやすい。本多時生』

『辛いという字がある。もう少しで、幸せになれそうな字である。星野富弘』
  


Posted by mister_kei0918 at 11:45Comments(0)

2008年03月14日

繰り返しと自己研鑽の薦め

繰り返しと自己研鑽の薦め

研鑽というとプレッシャーがかかりそうですが、そうではなくて毎日こつこつと余り大層な時間も掛けないでやれることがあるといいですね。

例えば20歳から、15分間毎日続けて60歳になったら、219、000分。
時間にして3、650時間。
約152日。

一年の約半分を寝ずに休ます、食事の時間も取らずに頑張ったことになります。

計算してみると凄い数字ですね。
ですから地道に目立たず少しづつ少しづつ頑張った人には適わないようです。

私の様にいつも泥縄式で土壇場にならないと行動も起こさないし、勉強もしない人間には今更嘆いても仕方のないことです。

ただ、こつこつやってきて知識や経験を増やしただけではなくて、辛抱することや時間をやりくりする事、一つの事に執着して努力をする事の大切さや掛け替えのなさを身をもって体験する事はそれ以上に大切な事のようです。

それが大学の4年間でもいいですよね。

その差が社会に出てからや結婚してからの家庭生活、いろんな社会活動に中で素晴らしく確実に生きてきます。

たかが一日一時間。
4年間で1、460時間。60日間に匹敵します。

60日間、一つの事に連続して没頭するととんでもない事が起こりそうです。

女性のお化粧でもそうかもしれませんよね。
綺麗になることだけではなく、綺麗になりたいと願う気持ちの高まりや技術的な工夫や努力。
何物にも変えられなくなりそうです。

子どもとの時間もそうかもしれません。出来るだけ、一日10分に接点がとんでもない人間関係に発展しそうな気がするから不思議です。

会社の隣の席の女性とも或いはそうかも。
毎日の少しの会話の積み重ねが・・・・・。

結婚相手ともそうかも。常に近くにいて繰り返し繰り返し交わす会話の端々から人間は様々な事を解釈し、想像を逞しくして理解しようと努めるものです。

想いが近寄ったり、或いは離れがたい存在にもなってしまいます。

日々の積み重ね。

私の余生がどれだけかは計り知れませんが、例え一年でも研鑽を旨とすることは生きがいを増やし、或いは寿命さえも延ばしてしまうかも。
  


Posted by mister_kei0918 at 11:32Comments(0)

2008年03月13日

自分が変ったら相手も変わった

自分が変ったら相手も変わった

ある父親が夜遅く、足元もふらつくほど酔っ払って帰ってきました。

玄関を開けた途端、長男が外出をしようと靴を履きかけています。もう高校生が外出するには余りにも遅すぎます。

父親は言います。
「今頃、高校生が遊びに出て行く時間ではないだろう」

息子は言います。
「自分は毎晩毎晩、酒をあおって遊び呆けてまともに帰って来もしないくせに」
父親は二の口が出ません。

自分の身の振り方を反省もせずに人の説教なんておこがましいものです。

「子どもは親のするようにしかしない」
「子は親の鏡、親は子の鏡」ともいいます。

得てして親以上には子供はならないのが普通です。

時として、「鳶が鷹を産む」事もありますし「親を反面教師として素晴らしい子どもの誕生」ということがないではありませんが。

また、世の中、偶然がきっかけとなって親を遥かに凌ぐ存在の子どもが出来たりもするものです。

親が変わらないで子どもが変わるわけはありませんが、若しかすると親を跨いで変化するやも知れません。

経営でもそうです。

自分は際立った努力もしないで社員にだけ要求をする、無理難題を吹きかける、過大な要求を突きつけることがあるものです。

経営者としてやるべき最大限の努力は当然する。

その上で教育成り、スキルアップ向上を図る事をしながら要求するところはし、頑張らせないといけないのではでしょうか。

人は得てして人が思うようには動きたがらないものです。

キャンディーズの歌の歌詞の中に
「微笑返し」という言葉がありますが、微笑があれば微笑が帰ってきますし当然憎しみには憎しみが帰ってきます。

高慢な態度には高慢な態度、慇懃無礼な言葉には当然慇懃無礼な言葉です。

さて、今日も自分がどのように変われるのか。楽しみでもあります。


『もし変化を望むなら、その変化が起こる前に、あなたが変化そのものにならなくてはなりません。ギタベリン』
  


Posted by mister_kei0918 at 00:36Comments(0)