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2008年04月30日

仮想と現実の区別がつかなくて

仮想と現実の区別がつかなくて

私共の若い頃というか、
それ以前或いはもっと昔もそうだったのですが、殆どが現実の世界が自分の知りえる世界であった筈ですが、現在は現実の世界ではない仮想世界、または空想世界といっても良いかもしれませんが日常的に分け隔てなく接する事になってしまいました。

そこまでいかなくても、世界中で起こる全ての事が時間差無く、いつでも何でも見える状態も色んな現代の状況に反映し、影を落としているのかもしれません。

ですから、
今時の子どもたちには現実とは違う世界もあるということも教えておかないと大変なことになるような気も致します。

その様な世界で生きていかねばならない子供達に同情もしてしまいます。当の子供達は意識していないかもしれませんが。

現実に起こっている事件や事故。

どうしても過去には想像も出来なかった、あるいは起こっていなかった、存在していない事件事故が余りにも多すぎるようにも思えます。

映画も漫画も、アニメもそうです。
素晴らしい作品が殆どですが中には、本来なら眼を覆うような描写がなされているなどの作品があります。

社会構造の変化も見逃せません。唯でさえ精神的に過重な負担がかかっているところですから。

街中に溢れる情報の中にも、引き金になるようなものも存在します。

殺人事件も極めて異常な、しかも猟奇的な事件、尊属的な殺戮が多いですよね。
オーム真理教に代表される人の心理を変えて行うとんでもない事件。
個人が銃器を使った事件など。

そのような影響を受けて発生した事件事故が続く事が結局は現実を作ってしまうものです。

余りに過激な仮想や空想社会を繰り返し繰り返し見せ付けられることによって、現実との区別がつかなくなってきているのではないでしょうか。

子供達には出来るだけ、優しいもの、明るいもの、心豊かになるものをみせてあげるように努める事が大事なようです。

それと常に親と一緒に行動できる機会を作ってあげることも大事なようです。親の姿から現実を学ぶ事は結構多いものです。

摺り込まれた脳は、現実社会へ引き戻す事は不可能と思っていたほうが良さそうです。
親によって摺り込まれることもあるものです。

こんな事を考えてますと私の子育て時代は既に終わりましたので良かったなと思っております。
  


Posted by mister_kei0918 at 09:37Comments(0)

2008年04月28日

能古島の春

能古島の春

昨日は久しぶりに博多湾に浮かぶ能古島に出かけてきました。

子供達が小さい頃は良く出かけてものです。アイランダパークの花々もそうですが実は潮干狩りに数回。

余り取れた記憶は残っていません。

朝の9時15分の福岡市営渡船で僅か10分。瞬く間の到着。
渡船場近くの西鉄バス停から多くの子ども連れの家族と乗り込み、アイランドパークへ。

周囲が僅か12km、高いところでも標高が200mくらいでしょうか。
檀一雄さんや井上陽水さんの「能古島の片想い」などで有名になった島です。ビワやミカン、かいわれ大根の発祥の地としても知られてますが、私にとってはうどんや陶器でも印象深い島です。

間も無く到着したアイランドパークはやはり依然来たときの印象のままで、花々の咲き揃った場所でした。

志賀島や海の中道、博多の町並み、とりわけ百道の景色は福岡ではなく、外国の大都会でも連想させそうな素晴らしい景色です。

この景色を眺めていると、福岡の将来がアジアの拠点都市として、あるいは日本でも有数の港湾都市として栄えていくであろう姿を想像してしまいます。

久しぶりに芝生に腰を下ろして食べる手作りのおにぎりも殊の外、格別に美味しくも思えたものです。

周りを走り回る幼い子供たちの姿や歓声にも、自分の子育て時代の思い出を重ねながらしばし悠然の時を過ごしました。

ポピーやつつじ、八重桜・・・花々が咲き揃う園内は若者や子どもたちの明るい声が飛び交い、元気さえ戴いたような気にさえしてくれます。

出来れば、もっと園内が満員になるくらいの訪れる人々の姿が欲しいものです。

福岡はこんなに海辺に浮かぶ素晴らしい能古島が存在するわけですから、喧騒の都会で時間をつぶすだけでなく大いにこちらに出かけて頂きたいものです。
  


Posted by mister_kei0918 at 11:39Comments(0)

2008年04月27日

叶わない夢ってあります、でも

叶わない夢ってあります、でも

「望みや夢はどうしてかなうの?」という題で昨日書いていました。

それには理由が存在する事を私の勝手な憶測や経験で語ったつもりでしたが、中には叶わない望みや夢もあることを気づきました。

本当は叶わないことのほうが多いのですが、人間は後ずさりや後悔、失敗、実現のできなかった事への懐古や反省、嘆きは出来るだけ和らげるように出来ているようにも思えます。

それと僅かな成功体験で殆どの不成功体験を覆い被せてしまうようです。

ですから、できるだけ多くの成功体験を作る事が重要なようです。小さくても良いから。

それと先程のように叶わない夢や望みが多いということも知っておくことも大切な事。

それと当然、多くの叶わない望みがあるわけですからそれのしっかり脳裏に焼き付けておくことではないでしょうか。同じ失敗、不成功を繰り返さないためにも。

でも、その事が望みが叶う原動力に成り、更に加速をさせ、喜びを倍加させることを知っておいたほうが良さそうです。

このように考えますと多くの失敗体験や苦しい事が結局は成功への足取りを確実なものとし、チャンスを掴む時期を早めてくれそうです。

人は失敗には、神経質、挫折に繋がりがちですが、結局は失敗の上に立つ成功や叶う夢、実現する望みが殆どであり、極論をすれば失敗をしない成功なんて砂上の楼閣のようなものでいつ崩れ去るとも分かりません。

でも、同じ失敗はあまり繰り返してはいけないようです。

自分の気持ちも惨めになりますし人の信頼を損ない、夢や望みを持つ事さえ否定しがちなものです。

幸運の女神の前髪を掴むのも、その心の準備が出来た人から順番に巡ってくるようにも思います。
  


Posted by mister_kei0918 at 21:40Comments(1)

2008年04月26日

望みはどうして叶うの?

望みはどうして叶うの?

本当に望みは叶うのでしょうか。

或いは「望みなんて空言で実現する筈などある訳ないだろ」と思ってはいませんか。

そりゃ、100%実現したら却って世の中が交錯、混乱してしまいますし、一つの事に集中してみたり一人の人間も関わる事が無いものがあったりしてとんでもない事になってしまいます。

また、実現させようと死にもの狂いになっての努力などしなくなるかもしれませんよね。

或いは、逆に望んでも100%実現しないとなると、
退廃的な考えが蔓延して苦労したり、研究したり努力する人がこの世からいなくなるかもしれません。それこそ怠惰なつまらない人生になってしまいます。

「小さい頃から社長婦人になりたいと思ってました」、
「いつか経営者になろうと思っていたんですよ」
「お医者さんになって病気の方々を救いたかったんです」
「素晴らしい男性と巡りあって素敵な家庭を作るのが夢だったんです」
「若い頃から、豪華客船で世界一周をしようと決めていたんですよ」
「貧しい家庭でしたから、いつかは両親も一緒に一軒家に住みたいと望んでいたんです」
「子どもは3人、それも男の子2人、女の子1人が欲しいと思ってました」



列挙すればキリがありませんが、こんな話って良くありますよね。

でも、世の中不思議なものです。
願いは多くが叶う事を経験された方は多いものです。
それは経験しないと分かりませんし、結果が出てみないと実感だって出来ません。

そうですね、叶う理由。

多分、望むという事は願う、意識する、常に心に存在する、気持ちがその一点に集中してくる、向き合おうと努力する、強く感心を持つ、興味をそそる、上昇志向に通じる、欲望とまで化する・・・・・。

こんな事はありませんか。

子どもが欲しいと思っていると、今まで気づかなかったお腹の大きな母親が眼につきだして、どうして世の中にはこんなに身ごもった人が多いのだろうと感じた。

転職をした途端に、その業種の情報がやたらと気になるようになり、入手できるようになった。

何処かマンション住まいをしたいと望みだしたら、やたらとマンションが気になりチラシも丹念に見るようになった・・・・・。

望むという事は、
自分の気持ちの高まりと同時に知識欲も旺盛になり、吸収も早く、感心もより以上に高まるようです。

ですから、自ずとその方向に導かれていくのではないでしょうか。

嘘だとか叶わないと思っている人が多く存在するとしたら、その分だけ望みを持つ人、信じる人の成功の確率が高まると考えましょう。

私も、色んな事を経験しましたが、中には神がかり的な思いもしたことがあります。

年齢に関係なく、望みを捨てない、それが若さを保つ秘訣でもありそうです。
  


Posted by mister_kei0918 at 10:46Comments(0)

2008年04月25日

人に好かれたいなら

人に好かれたいなら

人に嫌われたい人なんていないですよね。

この世を捨てたいという人は珠に見かけます。
先日の鹿児島での殺人事件は人を殺したいからタクシーの運転手さんを殺したと言っておるようですが、そんな人間は人の迷惑にならない処でこの世を見捨ててほしいものです。

こんな言い方をすると顰蹙を買うかもしれませんが。

自分の身勝手な思いや行動が他人の命を奪うなんて決して許される事ではありませんし、そんな人間には極刑、若しくは社会的制裁、ひいては懺悔と後悔の日々が待ち受けていることを知ってもらわねばいけません。

世の中には様々な人がいるものです。

大よそ、身近にいる人々は性格など想定の範囲ですが、中には首を傾げても理解の範囲を遥かに超える人がいます。

いずれにしても、
人との関係は出来るだけ良好で恨まれる事無く恨むことなく、恙無く関係を保ちたいものです。

愛する関係でなくても、せめて好感を持たれる位にはありたいものです。

アメリカのデール・カーネギーが人の心を動かす話し方と、その心構えについて書いた本「人を動かす」の中から、人に好かれるための6つのポイントを見つけました。

(1)相手に対して誠実な関心を寄せること。

ついでにこんな言葉も、『正直』とは、真実を語ることである。つまり言葉を現実に合わせることである。それに対して『誠実』とは、現実を言葉に合わせることである。つまり約束を守り、期待に応えることなのだ。スティーブンRコヴィー著 『7つの習慣』より

(2)笑顔で人に接すること。

笑顔だけでも素晴らしい事です。「出来れば笑顔が素敵です」等と言われるだけでもしめたものです。

(3)名前を覚えること。

特に中洲などではそうですよ。覚えてくれただけでも感謝感激してくれます。日常でもそうです。

(4)聞き手にまわること。

人の話が上手に聞けないと不信感を募らせますし、内容も咀嚼できません。話し上手よりも聞き上手。
余りの饒舌は嘘や大げさに聞こえるものです。

(5)相手が関心を持っていることを見抜いて、話題にする事。

それには胸襟を開いて普段から付き合うことではないでしょうか。自己の都合だけでの付き合いは長続きもしないものです。

(6)心からほめること。

これが難しいんですよね。私のように心根が腐っている人間は直になることが中々ありませんし、本心から人を誉める事に躊躇したり、歪んだ思いを持っていたりします。


人間関係を上手に、卒なくこなせる人は尊敬に値します。
それも根っから出来る人は羨ましい限りです。
  


Posted by mister_kei0918 at 14:07Comments(0)

2008年04月24日

「自分が出来なかった事は子どもにもさせない?」

「自分が出来なかった事は子どもにもさせない?」

社会に反する事や迷惑や混乱をさせるような事、或いは法的に許されない事は子どもにさせるべきではありませんが、経済的、時間的ゆとりや当の子どもが納得の上でやりたいということは出来るだけさせた上げたいというのが親心というものでしょう。

子どもがやりたいといっても、させてはいけない事、やりたいといってもさせてやることが出来ない事情もあるものです。

やはり説明が必要なんでしょうね。
頭ごなしに「ダメ!!」と言われても子供にしてみれば勝手な親のエゴや無視した態度と思われても困ります。

ちゃんと説明をすれば、理解の早い子、親の立場を理解しようと思う子は納得してくれますし、子どもにとっても一つに人生経験ですから大いに役に立つものです。

一般的には自分ができなかった事は子どもには経験をさせたいものですが。

ところが、何と言う理由がある訳でもないのに子供がしたいことをさせてあげたくない感情があったりも致します。

親自身もその訳はしっかり分かっていないのです。

私も子育て時代にそんな事を経験しました。

今思うと、子どもの言うとおりさせておけば良かったんです。
ところがそのときは当然のように「ダメ!!」の一言。

以前にもブログに書いたことがありますが、多分私だけの経験ではないでしょう。
皆さんも思い当たる事があるのではないでしょうか。

今だからこんな事を語れますが、
当時の子どもが若し理解力があったとしたら「この親は何なんだ」と訝られたかもしれませんね。

或いは子どもから三行半を突きつけられたかも。

こんな事もその一つです。

私が小学の6年生の頃(5年生?)、町内に剣道を教えてくれる先生がいて近くの子どもたちは殆ど竹刀を買ってもらって稽古に励んでました。

私の家は大変な貧乏所帯で(父はいませんでしたので)母は入院、生活保護を受ける状態で私一人でご飯を炊いて(ちゃんと食事など作れてはいません)それに醤油をかけて食べるような事でした。

当然、竹刀は買えるわけがありません。

離れて住んでいた祖父がたまたま、私の様子を見に来て気づいてくれました。
そこで私に物置に置き去りにされていた竹刀を与えてくれたのです。

ところが、数十年も置き去りにされていた竹刀が使えるわけはありません。
虫に食われているし、黒くすす汚れているし。当然途中で挫折をしてしまいました。

結局は剣道の練習に入らない方が良かったのです。
笑いものになってしまいました。

次男が小学校5年生でしたか?「お父さん、学校の剣道部に入りたい」。
強く懇願を致しました。

頑として聞き入れない私に家内が言いました。
「お父さん、子どもがあんなに熱心にしたいという事をどうしてさせないの」。

聞き入れない私自身も理由が分からないのです。
どうしても部活で剣道をする事を許さない私が。

結局は最近、そのことに気づかされたのです。
こんな事は子育て時代に知ることが大事なんですが、親のいない状態での生活は知る術が無かったのかもしれませんね。

次男だけではなく、子どもたちには申し訳ないことをしたものだと後悔してますが、彼らが偉かったんですね、親の足らない部分は自ら補ってくれました。
  


Posted by mister_kei0918 at 15:28Comments(0)

2008年04月23日

「今日の悲しみは明日の花咲くため」

「今日の悲しみは明日の花咲くため」

人生は確かに苦難の連続のようにも思えます。

多分、生涯を振り返っても苦労の大小はあっても
「一度も苦労なんてした事はない」、
「悲しい涙など流した事はない」、
「人との関係で悩んだ事は無い」、
「自分の心との葛藤などどんなものか知らない」等ということはあり得ないでしょうし、

人はただ体の成長過程であっても、それだけでも葛藤を繰り返し、何処と無く泉のように苦難や悩みは湧き出るものです。

片方では人には希望であるとか夢であるとかを想像、連想させる力をも与えられてます。

また、立ち向かう勇気を奮い立たせる力が備わっており、喜びや感動の心も持ち合わせてます。

そう考えると、
人生は上手くバランスが取れるように出来ているのかもしれませんね。

或いは、一人の人生でバランスが取れているのか、人間が寄り合ったところでバランスが取れるようになっているのかも。

私は余り幸せな人生は歩んでいないけど、片方では私の分まで幸せな人がいたりして。

ですが、
私も歩んだ人生は長くもなりましたし、決して平坦ではない人生を歩んできたつもりですが何故かしらどうもバランスが取れているようにも感じ取れます。

また、人生ってそんなもんだと認識していないと悲嘆に暮れる日々ばかりで、つまらない希望の無い人生になってしまいます。

そうだとすると人間をやっているのが嫌になりますよね。

どうも、人には幸せを引き付ける秘訣がありそうです。
それを早く学んで実践する人ほど、早く幸せを掴みそうです。

誰の言葉か知りませんが、こんな言葉が見つかりました。

『朝顔は朝の光を受けて開く…のではありません。
24時間光を当てた蕾はついに開かなかったからです。
意外にも、夜の冷たさと闇の深さが開花に不可欠だったのです。
人間も、暗く悲しいことがあっても、それによって人生の色彩を作っているのかもしれません。
今日の悲しみは明日の花咲くためです。』
  


Posted by mister_kei0918 at 17:48Comments(0)

2008年04月22日

「不安定を求めなさい」

「不安定を求めなさい」

ぬるま湯につかり続ける事がどんなによくないかは、現在の社会情勢や家族関係を見れば一目です。

企業でもそうです。

構造的、或いは根底から変化をきたす時代です。
遅れを取らないために、倒産の憂き目に会わないように必至に企業努力を殆どの企業が頑張っています。

そんな時代に、昔からのものづくり、販売方法を継続していては継続的な経営は成り立たなくなってきました。

充分な商品力や営業の力、ブランド力が備わっていれば旧態のあり方でもいいのですが世の中そんなに甘くはありません。

それは大企業とて同じ。
大企業とて、老舗のお店とて安閑としておられる時代は終わりました。
世界的な大企業でも必死の変化を続けている様子が学び取れます。

ましてや資本力、人材スキル、営業力で遥かに劣る中小零細は何おかいわんや、死に物狂いの努力の裏づけがないと存続もままならない時代となりました。

私の好きな女子卓球選手がいます。

福原選手や福岡選手も大好きですが、特に女子卓球日本チャンピオン平野早矢香23歳はその姿勢といい努力といい、勝負強さといい素晴らしいものを持っておられます。

先日テレビに出てましたが最近は特に卓球以外の分野で活躍されている方々のアドバイスを積極的に戴いているという事でした。

私共の業界でもそうです。業際を越えた全く違う業界の方々や年齢、性別の異なる方々と接した方が役に立つ情報も入ってくるものです。

その中で麻雀のあの雀鬼会会長、桜井正一さん(20年間無敗記録の保持者)の言葉は平野さんの胸にも響いたようです。

常に「不安定を求めなさい」。

安定や、恵まれた環境、地位などなど拭い去って常に不安定を求めて努力を怠らないようにとの事でしょう。

人間、胡坐をかき始めると安定を求め変化を嫌います。

自ら、叱咤しながら鼓舞しながら常に一流を追い求める人こそ栄冠を掴むのかもしれません。

今日はどんな変化を求めましょうか、
どんな挑戦を試みましょうか。
  


Posted by mister_kei0918 at 10:19Comments(0)

2008年04月21日

ツバメの季節

ツバメの季節

今年もツバメの季節になりました。

最近、見かけるようになったツバメはまだ細身。今から栄養を取って丈夫な子どもを出産するのでしょうね。

ウグイスのさえずりも街中で聞く事が出来ます。

私共の身近で子育てをしてくれますし、その場所も大概が軒先ですから身近なツバメです。

大人の世界では、とりわけ男の世界ですが若い男と中年の女性が歩いてたりすると「若いツバメを連れて」等と揶揄されたものです。

ツバメを見る頃になると、春の真っ盛りだねとか、もう梅雨が近づいてくるねなどとも言われます

季節の移り変わりは、そんな動植物や雲や空の天体が間違いなく教えてくれます。

とりわけ、懸命に何度も何度も、雛の為に餌を運ぶ雌ツバメの姿には心打たれるものです。

だからこそ、人々は今年の巣も崩したり壊したりする事無く、大切に来年の為に取っておいたりも致します。

通じるはずはありませんが、そこが人間の優しさなのかもしれませんね。

通うはずの無いツバメに心や思いやりを伝えようとするかのように。

そうですね、伝わらない事は百も承知ですが、人間の感情としてそうせずにはおられないのでしょうか。

ツバメは益鳥でもありますし、特に九州の私どもにとっては新幹線の名前でもお馴染みです

季節の到来を確実に伝えてくれるツバメは子育てが終わるとまた南へ下っていきますが、来年にも顔を見せて欲しいものです。
  


Posted by mister_kei0918 at 14:27Comments(0)

2008年04月20日

結婚したら止めたい事

結婚したら止めたい事

18日は結婚記念日でした。

かなりの年月を経過しましたが、家内や子供、皆さんのお陰で素晴らしい人生を送らせて頂いていると感謝してます。

特に家内にはそうです。
私の人となりや存在までも変えてくれたといっても過言ではないでしょう。

つまり結婚を境にして今の私という人間が新たに誕生したという事でしょうか。

そのことは改めて書くとして、
ある方のSNSを拝見してましたらgooランキングの中に「結婚したら止めようと思うこと」の存在を知りました。

内容的には若い方々のランキングのようですので私の結婚した当時とは幾らか時代背景が異なりますが以下のような事でした。

結婚したら止めようと思うこと(gooランキング)
1、合コン
その頃の私は仕事に没頭してました。

2、異性との食事や遊び
そんなゆとりは無かったのですが、起業してからは逆に増えました。
異性といっても経営者仲間とかですよ。

3、朝帰り
結婚当初はありませんでしたが、
起業してからは友人たちとしばしばだったものです。
でも、自分には厳しい方ですから仕事に影響を及ぼす事へ決してしませんでした。

4、衝動買い
むしろ熟慮する方でした。買うなら思い切って高いものを。

5、借金
結婚してからは大いに借金しました。25歳で1軒屋を作りましたから。

6、親からの仕送り
むしろ逆でしょう。

7、月2回の飲み会
結婚前は余り飲みに行く事はありませんでしたがむしろ結婚後に増えました。

8、ギャンブル
興味が全くありませんので、今でも全くしません。

9、キャバクラ/クラブ通い
むしろ結婚後に大いに増えました。起業したからですよ、遊びではなくて。
私らの場合はスナック、料亭、クラブですが。

10、夜更かし
良くします。むしろ結婚後に。

11、車の改造
結婚前は時間がありましたので改造ではなくて整備はしてました。
その頃は丁寧に点検をしないと故障が多い時代でもありましたから。

12、仕事
多分、女性の方のお答えでしょうか。
29歳で起業しましたのでむしろ「仕事の鬼」みたいなものでしょうか。
仕事外のこともそれ以上に増えてますが。

13、ゴルフなど月1万以上掛かる遊び
自分だけの遊びは嫌いですので、時間が空けば必ず家内や家族が一緒です。

14、タバコ
20歳の頃、少し吸ってましたがお遊び程度。結婚前から止めてました。

15、ブランド製品の購入
全くその趣味はありません。特に自分の為には。

私の結婚時代には殆ど当てはまっていませんが、今はそうなんでしょうね。
  


Posted by mister_kei0918 at 13:46Comments(0)

2008年04月20日

ウォーキングとえびね展2箇所、そして日展

ウォーキングとえびね展2箇所、そして日展

今日は朝から走り回ってきました。

6時に起床。
いつもの大濠公園2周のウォーキングで40分、しっかり汗を流してきました。
先日の問題のチューリップは一部切り取られた状態のままで痛々しい姿をしてましたが殆どのプランターが植え替えられてましたので多分、皆さんは気づくことは無いのかもしれません。

桜の終わった今は八重桜がとても綺麗に咲き誇ってます。

そのあと、7時過ぎに会社着。
PCを起動してメールの整理、最近はその削除に時間を要して困っています。
日本全体で見たら大変な損失だと思いますがどうにかならないものでしょうか。

世の中って、このようにして段々と窮屈の方向へ進んでいくんですよね。
結局は自分たちで自分たちの首を絞める方向に進んでいます。

自宅へ舞い戻って、朝食を済ませひと時、ニュース番組を見て、また出発。

今度は福岡市中央区の警固神社で今日まで開催のえびねの展示会へ。
花の香りで充満してました。

次は福岡市博多区の櫛田神社で開催されていて今日までの、同じえびね展。
えびねの可憐な花にはいつも感心してます。

次はこれも今日まで。
福岡市中央区へ舞い戻って、福岡市美術館へ。
第39回日展。

日本画、洋画、彫刻、工芸美術、書の多分、日本を代表する展示会ではないでしょうか。
つい、引き込まれてしまいます。
作者の方の魂と汗、努力の結晶ですから圧倒される感じでした。
表現力や感性の豊かさを見せ付けられると自分の能力の無さに悲しくもなりますが。

朝から慌しい時間に追いかけられてますが、
午後からは地域の商店街の総会と交流会が待っています。

明日からの事も考えて少しはセイブしておかないといけませんね。
  


Posted by mister_kei0918 at 13:03Comments(0)

2008年04月18日

自分ができる事、人はそれ以上に出来る

自分ができる事、人はそれ以上に出来る

私などは自意識過剰ですから、自分ができない事は人も出来ないと思いがちですし、
自分には出来ても、或いは人には出来ないのではと思いがちなものです。

人に物事を頼む事が下手な人、任せることの出来ない人の中には、案外そんな人がいるものです。

零細企業で中々人の育たないところは良くそんな姿をむるものです。

本当は任せておけば、社員もスキルが上がって次第に能率も上がっていきますし、生産性も向上したりしますし、経営者も経営やトップセールスに精が出せて業績も上がるものです。

それが出来ないために社長一人が飛び回り、額に汗して、夜遅くまで頑張っていたりします。

社員はというと、手持ち無沙汰だったり、毎日定時で切り上げたりしてます。

家庭でもそうですよね。

実は親ができない事でも子どもは吸収力や創造力、想像力がありますから実は出来たりするものです。

つい子どもに箍(たが)をはめてしまって、「これは駄目、あれも駄目、多分無理、怪我をする、可愛そう・・・」。

成長しようとする折角の機会を親がなくしているようなものです。

あらゆる機会を与えてみたら、結局は親より素晴らしい成長をして見たり、実績を上げたりもします。

或いは自分が経験していない事、若しくは経験していても不可能だった事や実現できなかった事は子どもにもさせないという深層心理が働いているようにも思えます。

企業も家庭も、一番に成長を妨げているのはどうも責任者のように思えてなりません。

任せられるところは任せる、期待をする。結局は信頼関係の構築に繋がること請け合いです。

それがお互いに成長する大切なポイントのようです。

その一番、顕著な失敗例は私なんですが。
  


Posted by mister_kei0918 at 16:55Comments(0)

2008年04月17日

大濠公園の切り取られたチューリップ

大濠公園の切り取られたチューリップ

いつも土曜日と日曜日の朝、6時半頃から2周、4キロのウォーキングをしてますが、先日12日の時に不思議なチューリップの咲き方だなと不信に思っていたんです。

大濠公園の周りに30箇所ほどの花壇(3m×1.5m位でしょうか)があります。

昨年の夏はひまわりプロジェクトと称して民間のボランティアの方々が種まきから水遣りまで一生懸命になって育てておられました。

今年のチューリップシーズンに咲き揃った花を観賞してもらおうとこれも確か昨年の11月頃から手入れをされてました。

中には家族、団体、個人、様々な方々が参加をしておられます。

12日に見たのは不思議な光景でした。

周りのチューリップは見事に咲き揃っているのに数段のところだけ見事の花のかけらも無いのです。

覗いてみれば刃物で切り取ったのか、もぎ取ったのかは一目だったのですが、私は何らかの理由で花が咲かなかったと解釈をしていました。


だって、先日でかけた直方のチューリップ祭りでの花の中には明らかにその一帯は花が咲かなくて、しかもお詫びの立て札まで立っていましたから、花壇一つが花をつけないこともあるものだと信じていたのです。

数日後の新聞で、そのチューリップは誰かにか、切り取られたものであったとの事。

世には変な人間がいるものです。
花を見て感動のかけらも無い奴が存在するのです。

若しかすると先日、通り魔的な殺人事件が福岡で発生し、犯人が捕まりましたがその男の弁によれば、最近別の場所での殺傷事件の直後、刃物を持ってうろついていたとの事ですのですので、あるいはその男がチューリップを切り取ったのではないかとの憶測が飛んだりしてます。

世の中、物騒になりました。すれ違う人にも殺気や危険を感じたりもするものです。
  


Posted by mister_kei0918 at 15:43Comments(0)

2008年04月16日

人生で必要なもの

人生で必要なもの

こんな言葉を見つけました。

『人生で必要なものは、愛と勇気といくらかのお金。チャップリン』

必要不可欠なものなのかもしれませんね。

愛・・・人を愛する事を忘れては空しい人生になってしまいます。
人を愛さなくても生きていける人は確実にいます。

生きてはいけますが人としての生き方を忘れた人、或いは人として生きる事を捨てた人かもしれません。でもそんな人でも愛するという感情を拭い捨てることは出来ないのではないでしょうか。

例えば、人を愛することはなくても相手がお金であったり、物であったり、極論をすれば人が決して愛する事のない事を愛しているかもしれません。

片や愛されることも大事な事。
憎まれっ子世にはばかるとも言いますがそんな憎まれっ子でも人からは愛されるものです。

放蕩な息子でも愛する親は存在するものです。

勇気・・・そうですね。
前に進むも勇気、後に戻るも勇気が必要です。

そこに知恵が加われば英知となってより大きな勇気となって力を発揮するものです。

そして、幾らかのお金・・・人は貧しくても衣食住が整えば、心豊かに過ごせるものです。

貧しくても日々の飢えをしのげるお金があれば何とかなるものです。

際立った例が戦後の日本でしょう。

そういう時はやはり女性、とりわけ母親の強さはピカ一です。

今、女性の強さが目立ったり、社会進出が激しくなりましたが私はこんな混沌とした先行き不透明な時代こそ、女性の力を借りるべきだと思っています。

また、有りすぎるお金は有効に使う能力が無い人が持つととんでもない事になってしまいます。

有効に正しくお金を使う事を知っている人が持てばこれに適う事はありません。

私のように、頓着が無くて綺麗な使い道を知らない人間、変わり身の早い人間に持たせるとロクな事はありません。

欲張りですから私にとって、あとこんなものもあればいいなと思いました。

当然、100%必要なものではありませんよ。
水、食べ物、空気、家、着るものは別として。
地位、名誉、頭の良さ、顔のよさ、できれば180㎝くらいの身長、個性・・・・・。

叶う事の無いことを羅列する事は自分自身が空しくなってしまいます。

そんな空しいことを考える事事態、人生には必要の無い事のようです。

そうです、
人生で必要なものは、愛と勇気といくらかのお金。
  


Posted by mister_kei0918 at 15:28Comments(0)

2008年04月15日

誰の為に生きるのか?

誰の為に生きるのか?

テレビコマーシャルでしたか、「あなたは何故、仕事をするの?」と問いかける場面がありました。
理由は千差万別、夫々に理由が存在しますので一概には言えませんが仕事は作業とは違う一面を持っていますよね。

これは私の考えですから反論をされたい方、全く違う考えの方、頷いて戴ける方もおられる事と思います。

私は仕事は大きく言えば、自身の人間性の高め合いの場であるように思います。
それはお金を稼ぐためであったり時間消化だったり、技術の習得だったりはしますが。

自分の過去を振り返ってみて、仕事がない人生だったとしたらどうだったんでしょうか。
経済的な部分とかは別にしてですよ。

多分、そんな私であったとしたら、
極めて怠惰な
緊張感のかけらもない、
競争心も存在しない、
人への配慮もない、
社会とのつながりやその大切ささえも理解できない、
物の大切さを理解できない、
人とのコミュニケーションもできない、
経済の仕組みや物流への関心も無い、


そんな人間になっていたかもしれません。

今となっては仕事の有難味を噛み締めてます。

では、私は誰の為に生きてきたのでしょうか。

こんな事を聞きました。
「20・30代は自分の為に、30・50代は家族の為に、60・70代は他人や社会の為に」

幼少期は誰の為でもなく確実に自分の為だったと思います。

私の誕生や存在が親や周りの方々の生きがいでもあったとするならば、その人たちの為でもあったのでしょうが。自分の意識としては。

第2の成長期(反抗期)の頃もまさしく自分の為であったように思われます。
自分が成長することや勉学に一生懸命で周りへの配慮など無いに等しかったように思います。迷惑や心配を掛けることのほうが随分と多かったものです。

20代に入って前半で結婚やマイホームの建築、子どもの誕生。
目まぐるしく環境が動き始めました。その頃から自分の存在が自分のものではない、或いは自己犠牲ではありませんが人の為に生きる事の必要性と素晴らしさを感じ始めました。

30歳を向かえ、起業(29歳)をする事によって、自分の人としての器の小ささや知識、経験の無さに愕然とし多くの人々との関わりやつながりの大切さとそれを現実のものとするために、新たな行動が始まりました。

家族のお陰で社会とのつながりや教えてもらう事の多さに感動の日々だったものです。
企業経営を磐石のものにすべく、昼夜を違わず精を出したものです。

40代はある程度、社会や団体、組織などでも認知をされるようになり、様々な役職を戴きました。
これが又、新たな挑戦を生み自己研鑽、精進の機会となったことは否めません。人間として一番成長できた時代のように思います。

50代、ここまで来ると幾らか人間としての落ち着きや幾分かの達成感、やってきたという充実、家族に囲まれての幸福感、そんなものに満ち溢れてきたようにも思えます。

過去の人生が肯定できるようにもなりましたし、足跡のこと、これからの事が落ち着いて考えられるようにもなった気がします。

妻や母、子どもや孫を含めた家族、社員やお客様の為にも果たせる役割がまだ残っていそうでこれからの私の動きが彼らの幸不幸に重要な影響をもたらしそうです。

私のこれからは、当然私の為であっては駄目でしょう。

人に言わせると
「今まで汗水たらして、粉骨細心、脇目も振らずに頑張ってきたんだから、これからは自分の為に生きたら」とも言われます。

でも、最期は自分の為にあるような気は致しません。

家族の為であったり、会社の為であったり、社会、或いは今懸命に生きている方々の為に礎や先導役、時には諭す役割でもあるようにも思いますし、そしてお世話になった方々、とりわけ私をここまで導いて頂いた方々に幾許かのお返しをすることが私にとっての最良の生き方のようにも思われます。

生まれ落ちたときから、波乱万丈でした。

苦難の道は切り開く所が人よりも多く与えられたわけですから、それだけ幸せだったのかもしれませんね。
  


Posted by mister_kei0918 at 10:03Comments(0)

2008年04月14日

「自分は長所だらけ、他人は短所だらけ?」

「自分は長所だらけ、他人は短所だらけ?」

人は所詮、自分のこと、とりわけ人間としての資質や能力には極めて頓着がなくて、他人のそれには極めて敏感なものです。

人の粗(あら)探しをさせたら多分私の右に出る人はいないのではないでしょうか。

人の言動には非常に反応が早くて、目ざとくて。
自分の言動には鷹揚で、頓着がなくて、身の程知らずで。

そんな事を考えてみるとどうも知らないのは自分の短所であり、他人の長所のようです。

同じ言動でも自分は許せて、他人は許せない。

どうも人間は自意識過剰に出来ていて、自分の言動には寛容の心を備えていて、他人には厳しく無関心で、見下げる癖を備え持っているかにも見えます。

だからこそ、
宗教の力を借りたり、先人の教えを学んだり、家庭や学校での教育に頼ったりするのでしょうね。

山の中で一人で生活をするのであればそれでも充分でしょうが、人間が集団で生活する事の利便性を手に入れた時から、多分、必要とされてきた事かもしれません。

それでもそれでも、人間は完成品にはならないのです。

不思議な存在ですよね。

でも、日常的には人は夫々に長所を兼ね備えていて、自分はどちらかといえば人よりもは劣っているもんだと謙虚に認識していた方が良さそうです。

「自分は長所だらけ、他人は短所だらけ?」よりは
「他人は長所だらけ、自分は短所だらけ」くらいにしておいたほうが。

数日前、「人生はいい人見つけの旅」と書きましたが

あと一つ「人のいいとこ見つけ」が見つけた人とのつながりを継続させる秘訣のようです。


『他人の短所を見れば憂うつになり、
他人の長所を見れば人生が明るくなる。
デールカーネギー『人を動かす』(創元社)より』
  


Posted by mister_kei0918 at 14:10Comments(0)

2008年04月14日

「自分は長所だらけ、他人は短所だらけ?」

「自分は長所だらけ、他人は短所だらけ?」

人は所詮、自分のこと、とりわけ人間としての資質や能力には極めて頓着がなくて、他人のそれには極めて敏感なものです。

人の粗(あら)探しをさせたら多分私の右に出る人はいないのではないでしょうか。

人の言動には非常に反応が早くて、目ざとくて。
自分の言動には鷹揚で、頓着がなくて、身の程知らずで。

そんな事を考えてみるとどうも知らないのは自分の短所であり、他人の長所のようです。

同じ言動でも自分は許せて、他人は許せない。

どうも人間は自意識過剰に出来ていて、自分の言動には寛容の心を備えていて、他人には厳しく無関心で、見下げる癖を備え持っているかにも見えます。

だからこそ、
宗教の力を借りたり、先人の教えを学んだり、家庭や学校での教育に頼ったりするのでしょうね。

山の中で一人で生活をするのであればそれでも充分でしょうが、人間が集団で生活する事の利便性を手に入れた時から、多分、必要とされてきた事かもしれません。

それでもそれでも、人間は完成品にはならないのです。

不思議な存在ですよね。

でも、日常的には人は夫々に長所を兼ね備えていて、自分はどちらかといえば人よりもは劣っているもんだと謙虚に認識していた方が良さそうです。

「自分は長所だらけ、他人は短所だらけ?」よりは
「他人は長所だらけ、自分は短所だらけ」くらいにしておいたほうが。

数日前、「人生はいい人見つけの旅」と書きましたが

あと一つ「人のいいとこ見つけ」が見つけた人とのつながりを継続させる秘訣のようです。


『他人の短所を見れば憂うつになり、
他人の長所を見れば人生が明るくなる。
デールカーネギー『人を動かす』(創元社)より』
  


Posted by mister_kei0918 at 14:10Comments(0)

2008年04月14日

「自分は長所だらけ、他人は短所だらけ?」

「自分は長所だらけ、他人は短所だらけ?」

人は所詮、自分のこと、とりわけ人間としての資質や能力には極めて頓着がなくて、他人のそれには極めて敏感なものです。

人の粗(あら)探しをさせたら多分私の右に出る人はいないのではないでしょうか。

人の言動には非常に反応が早くて、目ざとくて。
自分の言動には鷹揚で、頓着がなくて、身の程知らずで。

そんな事を考えてみるとどうも知らないのは自分の短所であり、他人の長所のようです。

同じ言動でも自分は許せて、他人は許せない。

どうも人間は自意識過剰に出来ていて、自分の言動には寛容の心を備えていて、他人には厳しく無関心で、見下げる癖を備え持っているかにも見えます。

だからこそ、
宗教の力を借りたり、先人の教えを学んだり、家庭や学校での教育に頼ったりするのでしょうね。

山の中で一人で生活をするのであればそれでも充分でしょうが、人間が集団で生活する事の利便性を手に入れた時から、多分、必要とされてきた事かもしれません。

それでもそれでも、人間は完成品にはならないのです。

不思議な存在ですよね。

でも、日常的には人は夫々に長所を兼ね備えていて、自分はどちらかといえば人よりもは劣っているもんだと謙虚に認識していた方が良さそうです。

「自分は長所だらけ、他人は短所だらけ?」よりは
「他人は長所だらけ、自分は短所だらけ」くらいにしておいたほうが。

数日前、「人生はいい人見つけの旅」と書きましたが

あと一つ「人のいいとこ見つけ」が見つけた人とのつながりを継続させる秘訣のようです。


『他人の短所を見れば憂うつになり、
他人の長所を見れば人生が明るくなる。
デールカーネギー『人を動かす』(創元社)より』
  


Posted by mister_kei0918 at 13:53Comments(0)

2008年04月13日

「一方を聞いて沙汰するな」

「一方を聞いて沙汰するな」

人は得てして自分の都合の良い様に物事を伝えます、都合の良い様に聞き、都合の良い様に判断をします。

それは親子の関係であっても恋人、夫婦、友人の間でもそんなものです。

それとあと一つは人間の地位や格差が、上下関係によっても話し方や聞き方、判断の仕方が異なってきます。

また、欲得が絡んでもそうですよね。

目の前に大金を積まれたりすると判断に迷いが出たり、欲の皮が突っ張りもします。

下心や思惑も大いに判断の狂いを助長してしまいます。

ある意味、人間は良く言えば臨機応変、悪く言えばその場限りのご都合主義かもしれません。

でも日常的には、正しい判断と思われるような態度を貫きたいものです。

今日のNHK大河ドラマ「篤姫」にも出てましたが、物事の判断を下すときには片方だけの意見や都合で判断するのではなく、反対の立場にある人の考えや意見も聞いて判断をしなさいよとの実の母からの言葉でした。

自分により近い人、意見の合う人、自分を有利に導く人の意見に偏りがちですが、或いは反対の立場の人の話を聞いてみると或いは違った判断が出てくる、その方が正当な判断が出来る、間違いが少ないという事のようです。

私などもいつもそうですが、違う意見を持っている人や立場の異なる人、反対の考えを持っていそうな人には出気るだけ接点を持たないで比較的自分の都合のいい判断をしてしまいます。

それでは多くの方の信頼を勝ち得るのは難しいですよね。

万人の話や考え、意見を聞くのは出来ませんが、できれば異なる考え、意見を持っている方の話も充分に聞いて判断をすれば幾らか増しな形になりそうです。

それが異なった判断を下された人にとっても信頼を失うことなく、つながりを維持できる秘訣のようです。
  


Posted by mister_kei0918 at 21:39Comments(0)

2008年04月12日

新鮮な出会いから素晴らしい関係が始まる

新鮮な出会いから素晴らしい関係が始まる

一生の中で一番煩わしいのが人間関係。

煩わしい人間関係とお金の苦労がなければ、人生はどんなにか楽しいものである筈です。
でも、人間にはわざとそんな煩わしさを与えられました。
ちゃんとした理由があるんでしょうね。

そんな人間に生まれたのですから、そのことをちゃんと分かって生活するか、或いはそんな事を無視するか知らないか、拒否して暮らしていくかで同じ一生でも極端な差が出てくるようです。

折角なら、楽しく愉快に大勢の仲間に囲まれていく方が随分と違った人生になることは大よそ想像はつくものです。

だったら、私のように引っ込み思案、人見知りのきつい人間でも訓練によっては人に会うのが楽しくなったり、能動的に進んで人に会う機会を作ったりもできるものです。

それも出来たら、新鮮な出会いに心がけたいものです。

出会いにつまずくと何処までも尾を引いていきますし、わだかまりや疑念が付き纏いそれを払拭するのは並大抵の事ではありません。

また、新鮮な好印象での出会いは少々ではつまづきませんし、そういうことがあっても許せたり、勘弁したりの寛容の心も同時に生まれ育つものです。

人は助けたり、助けられたり。
教えたり、教えられたり。

子どもでもそうです。

親の自分が教えてるつもりですが、親にしてくれたのは子どもですし様々な親としての知恵や経験、子供を介在させた社会的な知恵経験も授けてくれるものです。

子どもにとっても生まれた瞬間から、初めて出会う両親と極めて新鮮で清らかな出会いが出来るか否か、彼の一生に大きな影響が始まるようです。

溢れ出る祝福の思いはひしと赤ん坊の胸のうちに刻まれるようです。

恋人同士の出会いもそんなところがありますよね。
付き合っていくには様々な障害や疑念、困惑も存在するものです。
出会い時のの心のあり方や印象によって乗り越えられたり、くすぶったり。

人生は、「人見つけのたび」と私はいつも信じてます。

他人から戴く喜びや知恵、支えは一生を過ごすに充分な力を与えてくれるものです。
  


Posted by mister_kei0918 at 10:07Comments(0)