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2008年05月31日

明日は早朝から久住登山

明日は早朝から久住登山

毎年、6月の第一日曜日は久住の山開きですので、ここ数年毎年登ってます。

普段は土、日曜日位しか運動らしい事はしませんが、時々思いついたように山登りを敢行します。

体力のある方でもありませんので、帰りは必ず温泉で疲れを取って帰ってくるのが常です。

朝は多分4時ごろの出発。

到着が7時ごろ、それから登り始め久住さんの頂上には10時頃でしょうかね。
丁度、山開きの神事が行われているようですのでタイミングが合うと嬉しいのですが。

出来ればみやまきりしまが咲いていると嬉しいですね。

数年前の平治岳登山の折にこの世のものとも思えないような満開のみやまきりしまを見たことがありますが、今でも脳裏から離れる事はありません。

平治岳まで登れると最高ですが、多分体力が持たないし無理でしょう。

所で久住町は市町村合併で竹田市になってますね。

明日は昇れるところまで行こうと話してます。途中で引き返す事になるのかもしれませんが無理は禁物。

月曜日が追っかけ来ますので体力は温存しておきませんとね。
  


Posted by mister_kei0918 at 18:55Comments(0)

2008年05月31日

「子供は親の心なんか見透かしてます」

「子供は親の心なんか見透かしてます」

嫌な世の中になってきたような気がしませんか。
物騒な、恐ろしい世の中が来そうな気がしませんか。

政治もそうですし、経済は尚更です。
環境も恐ろしい事になりそうです。
台風や地震に代表される自然災害も想像を超える被害をもたらしています。

どんな世の中になっても、せめて親子の関係だけは崩れたり、信頼を失ったりはして欲しくないものです。神代の昔からそうであった筈なんです。

それが根底にあったから、様々な世の中の激動や変動はありながらもここまで来たのではないでしょうか。

不景気でもどんなに貧乏のどん底でも。

子どもにとっては親子の関係が一番なんです。
戦後のように食べるものが無くても子どもは親を信じて、親は子供の為に身を挺して頑張ったのです。

親が高等教育を受けてなくても、高学歴、高収入でなくても立派に子どもは育ちました。
それはやはり、一番は子どもの対する親の態度ではなかったでしょうか。

今の貧乏は昔のそれの足元にも及ばないのです。
それでも親子の愛情は深まる事はあっても、現在のような憎しみあい、殺しあうような事態は極めて少なかったのです。

やはり「物が栄えて、心が滅びて」しまったのでしょうか。

物欲に走る親の姿はどんなに小さな子どもでも、感じ取ってしまうものであり心に染み込んでしまいます。

子どもには聞こえていない、理解できていないなんてとんでもない事です。

親の言う事、する事なんか子どもは全て理解できている、むしろDNAに埋め込まれているとでも言っても過言ではないでしょう。
「三つ子の魂百まで」とも言います。

その証拠に「子どもの言動は親に良く似ています」「親の言うようにはしません。親がしたようにはするのです」「さすが、親子、声まで似てきます」。

そうです。小さいと思っていても親より感性は優れているし、研ぎ澄まされているのです。
「子供は親の心なんか見透かしてます」
  


Posted by mister_kei0918 at 14:16Comments(0)

2008年05月30日

虜(とりこ)になってしまう

虜(とりこ)になってしまう

興味をそそられる余り、気持ちや感覚が捕らわれてしまう様を言うのでしょうね。
或いは一種の癖のようになってしまう事もそうかもしれません。

趣味でもそうですが、物まねでもそうですね。

或いは芸能人への憧れが虜になってしまう途端に、服装や形が似通ってくるだけでなく、しぐさや言葉使い、過ぎると心のあり方も似てきたりするものです。

良く親子であるとか社員同士でも、声まで似てきたとか、後姿が似ているとかも言われて見たり、場合によっては判断基準までそっくりになることもあるようです。

ましてや尊敬している間柄であれば尚更、その傾向は顕著になるように思います。

不満ばかりをぶちまける方、人の悪口ばかりの会話に終始する人、
人の事をあげへつらう事に堪能な人、人の揚げ足ばかりを取る人、
人の心に土足で入ることに罪悪感の無い人、
人のものも自分のものも区別のつかない人・・・・・

明るい、屈託の無い笑顔の耐えない人、
人の幸せを優先できる人、
人の良いところ見つけの上手の人、
言葉を探しながら発する事のできる人・・・・・

何だか、繰り返すうちに自分になってしまいますよね。

そんなことはありませんか?
知らず知らずのうちに、変わっている自分に気づいたり。

とすると、
人間的に尊敬できる友達やせんぱい、上司、導いてくれる先生、人間としての歩むべき道を指し示してくれる人に恵まれる事は、意識しないでも感化されているものです。

考えてみると、子どもでもそうです。

「子どもは親の言う通りにはしないけど、する通りにはする」、四六時中側にいて寝起きを共にする親からは色んな事、とんでもない事を子どもは学び取っているものです。

私もそうでしたし、私の子どもたちもそうでしょう。
反省仕切りです。

出来れば自分自身が人の虜にもなってみたいものです。いい意味での。
  


Posted by mister_kei0918 at 13:19Comments(0)

2008年05月29日

こんな時にこそ

こんな時にこそ

中小企業の経営者、とりわけ零細のオーナーにとっては未曾有の不況の時代、不安な時代を迎えているといっても過言ではないでしょう。

会社を守るために必死に精を出して、中には社員の2倍も3倍も働いて、資金繰りに悩む抜いて、自分の給料も時にはもらえない、自分の体のことなどかまっている場合ではない社長もいるものです。

19年度の自殺者の数も3万人を遥かに越えてしまいました。

年齢的には35~60歳位が半数を締めてますが、やはり社会的、経済的に重圧のかかる年代こそ、多くの悩みを持ち、抑圧を受けているのでしょうね。
残念ですが私の知人の経営者も数人、自殺に追いやられた方がおられました。

ここに来て、大企業にとっても利益を失う現状が眼前に突然に飛び出してきましたが中小零細企業にとっては今に始まった事ではありません。

アメリカからのサブプライムローン問題など、全くの唐突で、日本経済が幾らか明るくなるかなと思っていた矢先の事でした。

原油高を始めとして、混沌としてきました。

グローバルという一見かっこいい言葉で象徴された今の世界情勢は、若しかすると一触即発、とんでもない方向に行きそうな気がするのは私だけではないでしょう。

でも、かといって起業は生き物。

手をこまねいて、指を咥えて、情勢が変わるまで待っているわけにも行きません。
考えようによってはこんな時代だからこそ、切開ける状況もあるわけで、頑張り甲斐もあるというものです。

知恵の限りを尽くして、社員の創造力や行動力をフルに生かして一丸となって今を切り抜けようとする態度こそ、あるべき姿のようにも思われます。

景気のいいときに業績が良くてもそれは当たり前。

足元の見えない、先の読めない時代こそ力の見せ所でしょう。

成功の喜びも一入ではないでしょうか。
  


Posted by mister_kei0918 at 13:01Comments(0)

2008年05月28日

人の2倍頑張っても人並みになれない

人の2倍頑張っても人並みになれない

もうこの年になって悔やんでも詮無い事です。

今までもそうですが、どうも人と同じように努力をしても同じレベルに到達しないというか、人の足元付近でもたついているのが常でした。

同じ時間、同じ場所、同じ教科書、同じような費用を掛けて、同じ先生から学んでもどうも今ひとつ見劣りがしてしまう。スキルが上がらないのです。

極論をすれば人の2倍努力をしてもそれでも人並みになれない。
今はもう、諦めの境地です。

だって、悔しがっても仕方ありませんし、どうなるものでもありませんから。
ならば、人の2倍努力するしか方法は無いんです。

時間は無駄かもしれませんが、それで人並みになれれば結構ですよね。
だから私は人並み以上に努力します。
人と足並みそろえて歩くためには仕方ありませんものね。

家族も社員も居ますから、あそこのお父さん、あの会社の社長は「ちょっとね」等と言われたくはありませんし、そうだと家族にも社員にも申し訳ありませんし、ちゃんとした家庭や会社の経営ができなくてはそれこそお客様に申し訳が立たなくなります。

「少し足りないけど、その分努力をしている人だね」くらいに評価していただけば私にしては上出来でしょう。

人が一回で済ませる勉強会は2度、
人が1回出席で済ませる会議は2度、
1回お会いして構築できない人間関係は2度・3度。

歩みが遅い分、長い時間を掛けて「これでもかこれでもか」。
こつこつの日々です。

歩みが遅い分、人に見えないものが見えてたりして。

今日も人の2倍頑張って、人並みにならないとね。
  


Posted by mister_kei0918 at 07:28Comments(0)

2008年05月27日

総会ラッシュ

総会ラッシュ

昨日、福岡市博多区の著名なホテルに行ってみました。
会議室は全て総会。

3月末の年度末を終え、殆どの団体が規約上、2ヶ月以内若しくは3ヶ月以内の総会開催が義務づけられていますから当然といえば当然ですが、それにしても集中しています。

総会でも、馴れ合いでシャンシャンで終わる総会もあれば、むしろ懇親に重点が置かれていて、議事もそこそこで気持ちは既に飲み食いに走っているもの、或いは質問が多くて裁くのに四苦八苦、または紛糾が常態化していて、揉めないと総会を開催したような気分になれない団体。

私は5月から、6月に掛けて出席する総会が今年は25から30箇所くらいでしょうか。
多い日は3箇所を走り回ったり、掛け持ちをして見たり。

参加する人の中にも居眠り三昧の人もいるかと思えば、何処か不備なところや突っ込むところはないかと目をギラギラさせている人。中には強面がいないでもありません。

諸団体においては通過しなくてはいけない年に一回の通過門ですから自然と力も入るというものです。

今の時期は旅行者の少ない時期ですからホテルや貸し会議室においては貴重な時期でもありますし、大方が昼間と夜と両方、効率よく回転するので旨みのある仕事かもしれません。
そんなに準備も必要ではありませんしね。

私にとっても今の時期の年中行事になっていますから、年度初めのハードルでもあり、気持ちを高めるチャンスでもあります。

回数が多いし、挨拶もしっかりしないといけませんから健康的にも気分的にも充実しますし。
  


Posted by mister_kei0918 at 11:38Comments(0)

2008年05月26日

「貯徳旦那と天命」どう思う?

「貯徳旦那と天命や 如何」・・・・・2回目のその9

ある著名な先生から頂いたお題に対する私の思いです。2回目の参加です。
私の個人的な思いですので夫々の方で違って当たり前。皆さんもご自分に問うてみては如何でしょうか。

貯徳旦那、
福岡・博多では、男が「旦那衆」と呼ばれ、女性が「ごりょんさん」と呼ばれるには地域や社会でそれなりに努力を重ね、知名度や品性や人間性がある程度、認知をされた人であることが条件です。

多くの人々に揉まれ、社会的な貢献度も高く、人間的に尊敬され、何事にもリーダー的であることが望まれます。

それは長い時間と、衆目の一致するところでないと「旦那衆」、「ごりょんさん」にはなりえないものです。

幾ら自分で徳を貯めても自己満足でもいけませんし、自画自賛でもいけません。

蓄えた徳はやはり人々や社会の為に役に立って始めて徳といえるのではないでしょうか。
それと徳は短期間の精進でも身につくものでもないように思われます。

長い時間とそれなりの葛藤や苦悶が伴い、血と成り肉となって体の一部となっていることが大事なように思います。

それがそれとなく滲み出るような人間になれればあり難いものです。

貯徳問答講の様にこれでもかこれでもかと、繰り返し自分に問いかけることが必要に思います。

天命、
どうも、天命というと生まれてきたときから私自身に課せられた役目、役割かと認識をしておりましたが、貯徳を重ねるうちに自分自身の考えが動いてきたような気がします。

天命は生まれ育ちの中で、私自身が会得したもの、体得したもの、例えば知識や経験の中から社会的に有用なもの、或いは人間が歩む上での重要なものが天命ではないのかと思うようになってきました。

ですから、天命を授かるにはそれなりの努力や体験、精進が必要ではないのでしょうか。
そのことが実は私なりの天命を作っていくということに繋がっているように思われます。

出来れば、
時間をかけて、努力をして、苦しんで作り上げる私の貯徳がそのうち天命ともなって家族や社員、地域へ還元が出来れば素晴らしい人生になりそうです。

一長一短には徳も中々蓄えることも出来ませんが、地道な努力は全てがそうであるように私自身にも変化が出てくることを期待したいものです。

一つの雨粒が長い時間をかければ石にも穴を開けるように、私の心に風通しのいい無垢な心が育って欲しいものです。
  


Posted by mister_kei0918 at 07:32Comments(0)

2008年05月25日

「自由と貯徳と平和」どう思う?

「自由と貯徳と平和 如何」・・・・・2回目のその3

ある著名な先生から頂いたお題に対する私の思いです。2回目の参加です。
私の個人的な思いですので夫々の方で違って当たり前。皆さんもご自分に問うてみては如何でしょうか。

自由について
この世の中が殺伐とした状態であることは世界中の全ての人間が感じている事であるには間違いはなさそうです。

自由が結局は不自由極まりない世の中にしてしまいっています。

相手の立場や考え、人権を尊重した上での自由であるはずですが、まずは自分の自由を確保した上での相手の自由の保障や確保になってしまいました。

まずは自国の利益、優位性を確保が何物にも優先してしまう国際社会。

行動の自由、言論の自由がまかり通る余り、他人への配慮が欠ける、或いは陥れる思いが勝ってしまう社会。

如何にも多数決が自由を保障し、全体利益に叶うと信じる余り、本当にあるべき社会の姿までいびつなものにしてしまいました。

マスコミの勝手で、誘導的な、利己防衛的な報道によっても不思議な社会へ移動しつつある事を真剣に考えなくてはいけない時代となっています。それもこれも言論の自由という御旗の元で。

本来は相手の自由を保障してあげた上での自由であって、その裏にある結果責任を充分に果たす約束が無くてはいけません。

貯徳について
過去、数回に亘って私なりのつたない思いを綴った貯徳。

日々の生活の中で、如何に上手に徳を積み重ねる事が出来るのか、思いを修練できるのか、それが私の生涯の目的になってきました。

自分で積み上げた徳は我がために昇華するのではなく、少しでも社会や家族、社員、ひいてはお客様の為に成りえるのか。それが命題となってきました。

それには無垢な心、欲得の少ない心、常に精進を重ねようとする心が必要かと思われます。

蓄えた徳は与える事によってのみ、その量はますます増えるものであり、与える事を忘れた徳は宝の持ち腐れであり、場合によっては自分自身が満たされない人生に陥ってしまうかもしれません。

平和について
平和とは心穏やかで笑顔が耐えず、人の幸せを希い、充実感に満たされた姿であろうと思われます。

今は物足りた分だけ、本来の人間の心を失った時代となってしまいました。

或いは人間社会は大小はあれ、有史以前から落ち着くことの無い、波風の収まりを知らないものなのかもしれません。

或いは真の平和などは代物で、社会全体、世界全体、他人との関係、ひいては私の心の中でも葛藤は堪えず、落ち着くことは知らず。

でも、時々は平和というのかもしれませんが、心穏やかな安らいだ時期が必要なものです。

それには、心のそこから真に平和を希う、そのためにお互いが徳を高め蓄えあう、そんな時代が訪れて欲しいものです。

さすれば自由が保障される社会が実現するのかも。
  


Posted by mister_kei0918 at 12:28Comments(0)

2008年05月24日

「因果と輪廻の天法」どう思う?

「因果と輪廻の天法や 如何」・・・・・2回目のその7

ある著名な先生から頂いたお題に対する私の思いです。2回目の参加です。
私の個人的な思いですので夫々の方で違って当たり前。皆さんもご自分に問うてみては如何でしょうか。


とりわけ、私共の言動、或いは過ごし方、関係のあり方とでも言うのでしょうか。

それには拠り所として、「いい事を続けていればそれなりにいい事が自分へも巡ってくる」とか、「悪い事をしたら悪い巡り会わせや報いがある」と信じたものです。

因果とは
物事や精神的は働きには全て原因とその結果が存在すると言われます。

当然、人の為になる言動や幸せをもたらした行いにはそのお返しとしての結果、自分へも幸せが巡ってくると信じたものです。

逆に悪い言動、人を不幸に陥れる行動はそのうち自分事態が奈落の底や地獄を味わうと諭されてきました。まさしく因果応報です。

人生を重ねるとそうでもない側面に遭遇する事も少なくはありませんが、大よそ世の中はその様に出来ているようにも理解できます。

或いは人間は比較的に打算が働きますから100%そうだとなると、全ての人間が善良になってしまいますし、人間社会の面白みや悩み苦しみも殆どなくなってしまい、逆に無味乾燥な人間臭さもなくなってしまい、それこそ因果などという言葉さえも存在しないのかもしれません。

輪廻とは
人間の体はいつかは屍となり、土に戻り朽ち果てるものとなりますが、それもいつしか体を変えて戻ってくると信じられます。

同じように自然界も狂うことなく、めぐり来るものです。

輪廻転生と言われる様に、前世の事はこの世に、この世の事は後の世に、命や形を変えても巡っていくと言われます。

そのこと故に、次なる世の自分の姿までをも思い描き、精進を重ね、悟りを開くまでは無くても努力を重ねるもののようです。

天法とは
人間は長い歴史の中で、因果応報を考え、輪廻転生を胸のうちに出来るだけ穏やかに健やかに、安らかに生きたいと願ったのでしょう。

その人間の本来としての道、歩み方、心構えとでも言うのでしょうか。

それが天法なのではないかと思いますが如何でしょうか。
人は常に嘆き苦しみ、葛藤を繰り返し、欲に取り付かれ、人を妬み、物の虜になるように出来ているように思います。

人間本来の姿はこうなんだと、常に繰り返す魂が何処から与えられるとも無く夫々の人間に備わっているのではないでしょうか。

天法を貫こうとする魂と、それを妨げる魂とのぶつかりあいが常に交錯し、様々な悩み苦しみを作り出しております。

人の歩みは常に誘惑と欲の歴史であって、天法との狭間にあってもがき苦しむものです。

でも、それが人としての存在であり由縁なのではないでしょうか。

欲と誘惑から開放された人間社会は果たしてどうなんでしょうか。
  


Posted by mister_kei0918 at 09:04Comments(0)

2008年05月23日

「智徳と元氣」どう思う?

「智徳と元氣 如何」・・・・・2回目のその6

ある著名な先生から頂いたお題に対する私の思いです。2回目の参加です。
私の個人的な思いですので夫々の方で違って当たり前。皆さんもご自分に問うてみては如何でしょうか。


知恵にもいろんな知恵があるものです。
私の様な浅知恵もありますし、世を惑わす悪知恵。

日常的な生活を営むためにはどうしても様々な知恵を要求されるものです。
また、人は聞いたり真似たり、感じたりしながら多くの知恵を蓄積していきます。

蓄えた知恵はそれだけでは何にもなりませんが創意工夫や改善、先人の知恵を重ねる事のよって英知とも叡智ともなって、社会を改善し周りの人々へも大きな影響を及ぼして生きます。

知恵の知は矢+口で矢をそえて神意を知ることとありました。
智恵の智は知に日を加えて、広める意味があるようです。
徳の彳は進む、行くの意味、つくりは真っ直ぐな心という意味を持つようです。

智徳
本来的に持っているものもあるでしょうし、後天的に学問や歴史、先人や親に学ぶ事もありましょうし、自らの精進によっても備えうるものでしょう。

そのことがより高い人間性や品格、風格にも現れましょうし、自ずから言動にも反映されるもののように思います。

言葉の本来の意味のように世の中で歓迎されかつ、渇望されるような知恵であればいいのですが、オーム心理教のようなとんでもないものに遭遇する事によってとんでもない知恵に本人も翻弄され、世の中に不安を与え、人の命までもないがしろにしたりもするものです。

知恵の習得の選択がとんでもない状況をも生み出してしまいます。
備わった知恵を有効に世の中や人々の為に役立てるための知恵も必要かもしれませんね。

元氣
「気は心」とも言われます。
心と体が一帯となって健康な状態が元氣。それは自分だけでなく周りをも取り込んで、より健やかな家庭や社会の創造に有用なものです。

私のように「から元気」という事もありますが、いずれにしても気力充実して元気がみなぎっている人生はそれだけでも有難いものです。

智徳と元氣
人間の心のあり方としての智徳と、それをより活性化し充実させようと作用する元氣が、両輪相まって存在する事が元来、人にとって素晴らしいものです。

しかし、上手くいかないのが人生。さまざまな曲折や影響の中で葛藤や苦難を乗り越えながらの人生です。

しかし、智徳と元氣が常に心の真ん中に座っている限り、ぶれながらの人生であっても左右にふれながら、人生を全うできるものでしょう。

或いはそれが人間としてのうま味であったり妙味であったりもするのかもしれません。

そこに楽しみを見出す工夫が出来れば有り難いものです。
  


Posted by mister_kei0918 at 09:53Comments(0)

2008年05月22日

「信念と言葉」どう思う?

「信念と言葉 如何」・・・・・2回目のその5

ある著名な先生から頂いたお題に対する私の思いです。2回目の参加です。
私の個人的な思いですので夫々の方で違って当たり前。皆さんもご自分に問うてみては如何でしょうか。


信念とは
最近、経営者のセミナーなどでクレド「信条」をはっきり明示しなさいとか、思想信条を妨げないとか、信条という言葉をよく耳にします。

信条を辞書で引きましたら「かたく信じる事柄」。
良い悪い、善悪の程はさておいて、信じる事柄、道筋。
信念は「正しいとかたく信じている自分の考え」。

正しいとかたく信じているだけでは駄目で、人の道から外れていたり、社会的に認知されない事を正しいと信じてもらっても困ります。

ですから心が伴っていないといけませんよね。

信念を持ち続ける事は、尊敬もしますし継続の大切さを学びます。
信念は変わることも大事だと思います。
当然、子ども時代の信念と大人になってからの信念は当然変わりますし、良き師に出会うことによっても今まで持っていた信念が崩れ去って新しい信念が登場することもあります。

言葉とは
以前の問答講のときにも書きましたが、言葉は心のあり方によっても随分と異なるものです。
言葉は言の葉とも言います。

言の字は口に刃が刺さった象形とも聞きます。恐ろしいのは凶器を使った暴力だけではありません。

一言によって人の命を奪ったり、死に追いやったり、奈落の底に突き落としたりも致します。

逆に言葉によって、人を慶びの絶頂に持ち上げる事も出来ますし、幸福を感じさせることだってできます。

或いは良く「腹にもないこと」とも言います。心にもないことをさも思っているようにも人間は表現したりも致します。

信念と言葉
信念だけでもいけませんし、言葉だけが先走りしても人の関係は上手く行きませんし、持続もしません。

正しいと裏づけされた心の発露が口をついて出る言葉であって欲しいものです。
一言添える前に「まず口に飲み込んでから」とは良く言われます。

つい口をついて出る言葉の中には、気づかず棘(とげ)が刺さっていたりも致します。

一呼吸おいてから、発する言葉には重みが出たり、暖かさが加わったりもするものです。

信念とそれに裏打ちされた言葉が、飛び交う社会であればどんなにか心安らぎ、物欲に頼らない豊かな社会になるような気も致します。
  


Posted by mister_kei0918 at 11:06Comments(0)

2008年05月21日

「わくわくと天命」どう思う?

「わくわくと天命 如何」・・・・・2回目のその4

ある著名な先生から頂いたお題に対する私の思いです。2回目の参加です。
私の個人的な思いですので夫々の方で違って当たり前。皆さんもご自分に問うてみては如何でしょうか。

2回目のお題を戴いてますが、前回と違って今日の自分がどのような答えを導き出していくのか楽しみです。

「わくわく」はこころ踊る様。
希望や夢、或いは現実的に起こる様々な事象に無垢に湧き上がるこころの様子でしょうか。

人はわだかまりや不安、不信に取り付かれていたり、人としての心を失っている状況ではわくわくはなかなか起こりませんし或いはわくわくとは言わないのかもしれません。

わくわくは「沸く沸く」であり「湧く湧く」でもあります。
「血湧き、肉踊る」という言葉がありますが、心のそこから自然と湧き上がってくる感情。

それこそ人間にしか経験し得ないものではないかとも思います。

心置きなく、感じる「わくわく」を数重ねる事によって人情の機微や侘び、寂びの純粋な感情が育っていくように思います。

「天命」
人には私だけに与えられた宿命が存在すると信じてます。

天命は天地創造主であるとか、神様とか仏様とかから与えられたものではなく、自分自身が作り上げていくものであるような気が致します。

前回とは大よそ違う事になってきましたが、まさしくこれが自分で作り出していく天命でしょうか。

人間としての道、あるべき姿はたぶん与えられたもので存在すると思いますが、私自身が世の中に果たすべき役割や使命は多分、私自身が作ってきたのではないかと振り返っています。

人間として動物として本来的に果たさねばならない宿命があって、私自身がその上に積み上げていくもの、それが天命と感じますが如何でしょうか。

「わくわくと天命」
自分が経験や修練や精進で作り上げた、或いはこれから構築しようとする天命が生むわくわく。

二つが重なり合ったときに人は純粋に気持ちの高ぶりや高まり、昂揚感、充実感を感じるように思います。

自分の天命を、自分なりに創造していく人間の道を究めながら、どれだけわくわくの機会に巡り合うのか。

それを思うと人生は素晴らしいし、生き生きとして楽しいものです。

1月の自分の答えと大幅に異なってしまいました。
まだ、私自身の天命を今になっても確立できていない証左でしょう。
  


Posted by mister_kei0918 at 10:34Comments(0)

2008年05月20日

「まごころと自我」どう思う?

「まごころと自我や 如何」・・・・・2回目のその3

ある著名な先生から頂いたお題に対する私の思いです。2回目の参加です。
私の個人的な思いですので夫々の方で違って当たり前。皆さんもご自分に問うてみては如何でしょうか。


まごころ―真心―
人間が「人間同士、或いは社会や自然と対峙したときに、健康的で優しくて、暖かくて、より発展的で、時には厳しいときもあるかもしれませんが、事のあるべき姿を追い求める心」でしょうか。

(昨年の12月27日に戴いた時と幾らか成長していると嬉しいのですが。)

言わば天意にも通じるのでしょうか。
人は心を通わすときに、自分の都合の良い様に、自分の優位に働くようにとつい言動するようになりがちなものです。

相手の立場や優位性、あるいは自分の立場や思惑を別として人として偏らない真実のあり方が貫けたらどんなにか素晴らしいとも思いがちですが、極めて困難な判断を求められそうです。

人の事を尊重する余りそっちに偏った判断や言動になってみたり、時には自分へ思惑的に優位に働かせようとする判断が出てしまったりもするものです。

ただ中庸を求めるのではなく、真の心のあり方に基づいた行動や発言、誘導が出来るといいのですが。

自我について
難しいところですが、
「自分を優先してしまう心、或いは自分自身を中心的な存在であると思う心、他人を蔑み、或いは排除する心、他と比較する心」とでも言うのでしょうか。

自我が存在しないと、人そのものでなくなってしまいますしバランスを失って自我が勝ち過ぎると利己的、自己中心的、我田引水的な人として見られるのかもしれません。

人間の自我の目覚めは3歳頃からと言われますが、結局は自分を意識することは自我を意識することに等しいようにも思われます。

人として備わっていなければ困る「まごころ」と自分の存在を強く求め優位性や他を排除し、中心的立場を守り抜こうとする自我があらゆる場面で葛藤を繰り返し、時には自分さえも見失ってしまい事さえ出てきます。

和平先生のお言葉のようにそれ同士が競い合いながら、調和を重ね繰り返しながら個としての人が出来上がっていくのでしょうね。

人は自分の中でも数々の自問や葛藤を重ね、人との関わりの中でも苦悩や挫折や争いを繰り返し、自然とも命を張った闘いが存在するものです。

まごころと自我、そして内在する煩悩との鬩ぎ合いの中でいかに自分の確立を高めていくのか、それが修行と称したり精進ということなのでしょう。

明日の自分が何処まで確立できるのか、それが人生の大きな楽しみでもあります。
  


Posted by mister_kei0918 at 07:41Comments(0)

2008年05月19日

「天意と生命」どう思う?

「天意と生命や 如何」・・・・・2回目のその2

ある著名な先生からのお題に対する私の思いです。2回目の参加です。
私の個人的な思いですので夫々の方で違って当たり前。皆さんもご自分に問うてみては如何でしょうか。


昨年の12月6日に同じお題を頂いたときの私とどれほどの成長の姿があるのかないのか。
或いは後退をしているのかもしれませんね。

自然界の全ての万物は人間も含めて、その存在は必要とされていたと思われます。
それは或いは宗教的な意味合いで神から与えられたものであったり、存在を許されたものであったり、若しかすると敵対する存在であるとする事も含めて。

ですからそこには自然界の意図であったり、或いは神の存在を肯定するのであれば神様の意図が働いているはずだと思われます。
我々が意識するという感覚や精神とは違って、必然的な流れとか偶然とかが重なり合って悠久の歴史の中で育まれてきたのでしょう。

私ども人間には、一人一人に課せられたもの、或いは与えられたもの、望まれたものと言ってもいいかもしれませんがその様なものが所謂、天意なのでは。

大きくは人間としての道なのかもしれません。

そんな中には善意ばかりではなく悪意だってありますし、邪な考えもあるのでしょう。
だから、終生悩みは尽きませんし、葛藤にも悩まされ、不安な一生を送るものです。

様々な天意を与えられて、精進に精進を重ね、幾らか人間らしい道を切り開いていく。
人間に与えられた天意は極めて不安定で業という言葉に相応しいような気が致します。

大きな自然の摂理の中で、自分なりの生き方を模索する事の大切さと貴重さを体験できる事は大変に有難い事です。

その様な天意を汲み取って、その具現化の為の物としての存在であるのが生命でしょうか。

限りある命の中で与えられた天意を全うする為に、その苦難や時間のなさ、生病老死。

或いは天意、心と生命のバランス、人間同士の係わり合い、厳しい自然との対峙、どれをとっても一筋縄では行かないようです。

ですから束の間の幸せや喜びを大切にし分かち合い、人や自然、万物を大事にする心構えこそ、与えられた天意を大事にしより近い形で具現化し生命を全うする事に通じるようです。

天意とは何なのかを模索する事に大いに意味があることであって、単なる思い込みやつたない経験から安易に決められる事でもなさそうです。

或いは命途絶えるまで、天意を汲み取れないまま生命が消滅し昇天をすることだって充分にあるものです。

明日の自分が天意に叶うものであるのか、ないのか。
足元を常に見つめながら本来の人間としてのあり方に悩みたいものです。
  


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2008年05月18日

「貯徳とありがとう」どう思う? 

「貯徳とありがとうや 如何」・・・2回目参加のその1

ある著名な先生からのお題に対する私の思いです。2回目の参加です。
私の個人的な思いですので夫々の方で違って当たり前。皆さんもご自分に問うてみては如何でしょうか。


徳の心とは「ご先祖様を敬い、
感謝(お蔭様を感じ、それに答えようとする姿勢)
の心を忘れず、施しを胸とする」ことのように想像しますと
前回の第5回のときに書きましたが
今日のお題を頂いて大事な事を忘れていることに気づきました。

それは人として道を究めることでした。

その事が貯徳、所謂、徳の心や行動を
自分や自分の周りの施す事と同時に人間として生まれてきた以上、
人としての精進を繰り返し、道を究めようと努力する必要があるように思います。

「ありがとう」についてですが、

私どもが徳を高めるため、
或いは積むために行った施しに対するお返しが
「ありがとう」という極まった言葉であったり
行動であったりするのではないでしょうか。

ありがとうは滅多にないこと、
そんなことが有る筈もないような事に思いを馳せた表現でしょう。

「私の徳を高めるため、積むために施しをさせて頂きありがとう」
という事になりましょうか。

また、逆に私に与えて頂いた徳に対する返礼としての「ありがとう」もあります。

一般的に私どもが使う「ありがとう」はこの形でしょうか。

私などはつい、「ありがとう」というべきところを
癖のように「すみません」と言ってしまいます。

本来はちゃんと使い分けないといけないのでしょうね。

徳の積み方、貯え方が足りないのでしょうか、
もっと研究をして本来の「ありがとう」の使い方を学ばないといけないと反省を致しております。

徳を積む事とその発露としての感謝の心「ありがとう」が
素直に純粋に、訳隔てなく言葉になってほとばしる、
そんな自分でありたいと思ったりも致します。

まだまだ程遠い道のりですが。
  


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2008年05月17日

見えないものが見えてきた

見えないものが見えてきた

最近の私は時代の流れとは逆行のようです。

若い頃は遠視で子供達に見えないものまで私の目は捉えてましたし、それが自慢だったのですが「寄る年波には勝てない」のモデルみたいになってきました。

見えすぎたが為に40歳頃から首のコリを感じ、眼科に行ったところ「明日からでも眼鏡をかけなさい」と申し渡されてしまいました。

結局はそれから老眼へまっしぐら。今では眼鏡を掛けないと見えていたもの全てが見えなくなってしまいました。
実は眼鏡の事はオーバーに言えば私の人生を変えた側面があるのですがその話はいつかに譲りたいと思います。
「メガネが人生を変えた」、メガネ屋さんもびっくりするような話なんです。

今の時代は「見える化」、「オープンマインド」、「業務のディスクロージャー」「役所の情報開示」・・・の言葉が巷を飛び交うようになって来ました。

人間同士の付き合いでも「常に心を開いて付き合いなさい」、「胸襟を開いて」等と諭されたりもしたものです。

世の中、理屈では分かっているとか、全く見聞きした事が無いとか、及び知る範疇ではない、大よそ見当もつかない、知るチャンスが無かった等々で見えないものって数知れず存在するものです。

「知っていればもっと増しな人生を送れたのに」や「早く教えてくれていればこんなに苦労もすることも無かったのに」。いつもそんな事を感じたりも致します。

振り返ってみるとどうもそれの殆どは待っていたって教えてもらえるものでもなくお金で買えるものでもなく(一部、お金で変える素晴らしい情報も無いではありませんが)。

やはり、経験や人との関係の中で会得するもののようです。

私の様に今頃になってジタバタするのではなく、若い頃からその事に早く気づくか教えていただいて積極的、勇敢に行動する事が大事なようです。

誰しも、歳を重ねると「しまった、早く気付けばよかった」「もう、この歳で手遅れ」等と呟いているものです。殆どの方がそうなのではないでしょうか。

最近、中小企業の社長にお会いする事が多いのですが、
この方々の大半はやはり「色んなものを見よう」と果敢に努力をされた方々で、特に最近の若い経営者の中には私が今頃になって気づいている事を早くから実践をして自己投資に精を出したり、先輩の経営者との接触を試みたりする方がいるように思われます。

「恋人の真の心なんて、熱冷め遣らない真っ最中にわかるわけない」等と言わないで結局は本心を明かさない、或いは下心にまみれた自分の心に原因はあるものです。

早くから見えないものを見ようと努める態度、行動。

それは又、歳を重ねたときに感じる見えないものは普通の人とは次元の違う、より深い真実を見つめようとする心眼を備えているかもしれません。
  


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2008年05月16日

経営とは?我的考察

経営とは?我的考察

では改まって、「経営は何なんだ」と問い直してみます。
邪な経営を書いてますと、気分まで暗くなってしまいます。

私自身の拙い経験であったり、未熟さが露呈する勝手な考えですので経験豊富な知識の豊富な方から見れば可笑しい事や間違った事を書いているのかもしれませんがお許しを。

学問として経営を学んだわけでもなく、
経営を誰からか指南してもらった事もなく、
経理に詳しい訳でもない人間が経営を語るなんておこがましい事ですが、
体を張って、命を懸けて経営に勤しんできた事だけは多分、頑張った人間の一人として発言が出来そうな気は致します。

或いは私の勝手な理屈を反面教師として、新しいご自分の経営に対する考えを纏められてもいいかもしれません。
私がその材料を提供していると思っていただけば。

経営の経・・・縦糸、人、歴史、心、想い、理念、社会的責任、つながり、商業道徳、企業倫理、道理、根幹、信念・・・・・地球の経度と思えばいいのかも。
事業を営む上での根幹。
それは心であったり、思い入れ、或いは経営理念、道徳、そんな所でしょうか。

縦糸があれば当然、横糸が存在しなくてはもの事は成り立ちません。それが経緯の緯でしょう。
緯・・・横糸 物、金、情報、技術、組織、設備、資産・・・・・地球の緯度と考えてみれば。

経営の営・・・営々として、長い努力、継続、計画、工夫、砦、営み・・・・・

やはり、家庭生活もそうであるように、心の問題が先行すべきなんですね。

私も起業した最初の頃は、身を粉にして、寝る時間も惜しんで、家族を犠牲にして働いたものです。
それは食べるものを確保するために当然、金儲けが優先する頃でした。

技術も無く販路もなく業界経験も無い、人のつながりも持たない人間が、そんなに簡単に食える状態になど、なる訳がありません。

様々な曲折を経る中で、金儲け主義的な経営では行き詰りが来ますしそんな思いでは業績も上がらない、広がりも出てこない、人間関係も長続きはしないものです。

経営は片方で商い(あきない)が原点。
言葉尻ではありませんがお客様にも飽きられない、社員にも呆れ返られない、自分でも飽きない努力が必要なようです。

その場限り、その場しのぎの経営はいずれ近いうちに破綻をきたすものです。

中には一度に儲かる仕事も無いではありませんが、余程足元を見つめながら経営に腐心しないと砂上の楼閣ではありませんが足元から崩れ去る事があるものです。

人は労せずして懐が豊かになると慢心になり、傲慢になり、謙虚さを失い、人の大切さやお金の貴重さを忘れ、地道に歩む事を忘れがちなものです。

経営を続ける事によって、それが貴重な人生経験となり、人間的に修練されていけば私にとってこれに勝るものは無い。

それを求めるならば安閑とした、波風の無い、或いは怠惰な経営では望めませんのであるときには波乱万丈、時には苦節、葛藤、片方では満足感や達成感、充実感、時には感謝をされたり、喜ばれたりが必要なようです。

金儲けよりも人儲けであったり、心儲けでありたいし、どんなに多くのお金に恵まれてもそれで社会的地位が確保されても空しいものです。


『道徳のない経済は犯罪である。経済のない道徳は陳腐である。
二宮金次郎』

『幸運も不運も、あなたを試されているのだと思え。
心を高めれば経営は伸びる。
心を高め、それを磨くには一生懸命精根尽くして働くことである。
京セラ名誉会長:稲盛和夫』
  


Posted by mister_kei0918 at 12:41Comments(0)

2008年05月15日

経営とは?、我的考察、邪な気持ち(2)

経営とは?、我的考察、邪な気持ち(2)

(昨日からの続きです)

キーボードを叩いているうちに空しい気持ちとなぜかしら涙が落ちてきました。

どうして、際限なくしかも澱みなくこんなことが書けるのでしょうか。
私の心の中にも経営はそんなものだとする思いが潜んでいるのかもしれません。

そんな会社は時間を要せずに倒産するのが落ちでしょう。

ここ数年の企業のトラブルや事件、経済界を揺るがす問題をどう捉えればいいのでしょうか。

物の豊かさだけを追い求める結果であり、数値目標や利益の追求にのみ走りすぎたり、コンプライアンスの認識の欠如、私もそうですが経営の本質を見失ってしまった、或いは無視した結果が今日の状況のようです。

経営はバラ色であるという時代は数十年前に崩れ去りましたし、難しいことの山積の中で日々奮闘しているというのが中小企業の真の姿ではないでしょうか。

経営者としても魅力も次第に薄まってきましたし、自信も持てない時代が続いています。

社員よりも労働時間が長くて心配の種は尽きず、眠れない日々が続いたり、中には給料も社員よりも低い社長もいるものです。

特に今日は社長も社員も区別がつかないような時代であり、グローバルというかっこいい言葉に踊らされて、安価な外国製品との過酷な競争やそこまでしなければいけないのかと思われるほどのサービス競争。

税金面や社会保険の負担増にしても、企業の唯でさえ細い首を益々縛るような状況になってしまいました。

価格競争やサービス競争の中で捻出しなくてはいけない社会負担。
つい、そうでなくても邪な気持ちが全ての経営者の腹の中をよぎる事もあるものです。

だから常に同じ経営者同士、或いは経営者としての資質を高めるための研修や講演会に参加して切磋琢磨したり経営の本質を学ぶ必要があるのかもしれません。

本の中に出てくる先人の苦労や知恵、勇気ある行動を学ぶ事も大事なようです。

日本は起業する人はアメリカなどよりは極端に低いとの事で、政府も起業のしやすい環境の整備に努めてはいますがそれでも増えては行かないようです。

1円起業や補助金、助成金、制度面の改正などされてはいますが、結局は起業したいとする人のマインドが上がらない事にはどうにもならないでしょう。

また、現在の経営者がバラ色の人生が歩めていて、経営者冥利に尽きるような環境にならなければ若い方々が起業しようとも思わないでしょうし、不安が付き纏い希望の持てない、報われない経営者など目指す若者はそうは現れては来ないと思われます。

国としては活力を取り戻すという意味合いや税収を増やしたい、或いは個人に眠っているお金を動かしたいとする思惑は充分理解できますが。

多くの起業した若者を知ってますが、皆さん苦労してますし数年で廃業したり撤退したり、倒産をしたりしてます。

苦労して立ち上げた企業がちゃんと自立が出来て、将来の展望が開けて、社長の苦労が見合う分でも報われる時代が早く来てほしいものです。

若者が競い合って、未来に向かって積極的に起業のできる社会が早く来てほしいものです。

私が29歳で起業して、
その素晴らしさを体験しましたので出来れば経営をもっと多くの若者が挑戦をしてもらいたいと思っています。

でも、生やさしくはない、苦労が伴う、リスクが充分にある、犠牲にしなければいけない事も来ず多くあるということも知った上で。
  


Posted by mister_kei0918 at 11:40Comments(0)

2008年05月14日

経営とは?我的考察、邪な気持ち(1)

経営とは?我的考察、邪な気持ち(1)

だいぶ以前に書いていたこのブログはどうしてもアップすることを躊躇してました。
自分の心を見透かされそうで。でも思い切ってアップをして見ます。

長い年月をかけて、そうですね、もう30年に近い経営になりました。
私としては心血を注いでいるつもりの事業経営ですが、振り返ると色んな思いが過ぎります。

経営とは本来、崇高な行いや思いである筈のものが時として横道に反れたりあるまじき行動や発言で物議を醸したり、方針の違いや噛み合わない理念で行き詰ったりするものです。

じゃ、「邪な(よこしま)気持ちで行う経営」って何なんだと考えてみる事にしました。


お客さんには出来るだけ高い価格を設定して、利益を思う存分に上げる。
利益は経営者が殆ど貰って会社や社員には還元しない。

劣悪な労働環境を強いる。
社員や仕入れ業者に対して口汚くいつも罵る。

自分に都合のいい社員のみ厚遇する。
品質は最低、自然や環境の事は考えない。

反社会的な商品を販売し、販売方法もいかがわしい方法を使う。
無駄と思える?経費は出来るだけ使わない。

自分への接待費はしっかり、しかも自己都合に使う。
公私混同をものの見事に実践する。

人を顎で使い、目で指図する。
全て自分の手柄にし、提案や要望はことごとく否定する。

顧客には低身低頭、ぺこぺこのゴマすり、似合わない造り笑顔。
仕入れや買い掛けは出来るだけ払わないか、支払いサイトを延ばす。

仕入れ業者には我侭や無理をさんざんに言う。
珠には仕入れ業者に袖の下から手を出す。

公租公課は出来るだけ払わないか、ごまかす。
給与やボーナスは出来るだけ少なく、しかも遅配を。

保険料や年金はなるべく納めない、加入しない。
会社の隣などへの配慮はしない。

環境の事などお構いなし。
社会秩序など余り考えない。

企業を通じての社会貢献など毛頭、考えない。
業界とのつながりなど無視、若しくは秩序を乱す。

利用できる人は思い切り利用する。
事業に繋がらない事や儲からせてくれない人には目もくれない。

コンプライアンスなんて気にしない。
黒字でも赤字決算にしてできれば税金を払わない。

業務上、知りえた情報を自己、自社の利益に利用する。



でも、世の中の動きを見ていると分かりますが、邪な心はすぐに見破られてしまいますし長続きするものでもありません。
そのしっぺ返しは必ずあるものです。因果応報という言葉もありますし。

明日は「経営とは?、我的考察、邪な気持ち(2)」を、
明後日は「経営とは?我的考察」をアップして見たいと思ってます。
  


Posted by mister_kei0918 at 17:23Comments(0)

2008年05月13日

大変なことになって来ました

大変なことになって来ました

先日のミャンマーの台風の被害が行方不明者も含めて30万人と言われたり、10万人に修正されたり。

軍事政権は物資は要るけど、人は要らない。

どうなっているのでしょうか。
このままだと被災者が困るだけではなく、国そのものの存続にも関わってくるのではないでしょうか。

感染症の発生でもあればとんでもない事になってしまいます。

人道的な支援をしようと人を派遣するのであって政権を揺るがそうとか、転覆を図るわけでもないのにどうしてそんなにも頑ななんでしょうか。

結局は、自分たちの身の保全が優先し、国民の生命や財産が二の次になっているということでしょう。

自国の有利な或いは嘘にまみれた情報で国民を欺き、体制を維持する事がそんなに大事な事なんでしょうか。

命の尊さを見失った民族がどんな結果になったかは歴史が証明してます。

昨日は中国です。
1万人を死者が越えたとか、6万人が連絡が取れないとか。

或いはオリンピックどころではないとか、せめて聖火リレーを中止したほうがいいとか、ネット上でも議論が沸騰しているようです。

国威発揚の為のオリンピックや政治がらみのスポーツであれば、これを機会に止めた方が賢いかもしれませんね。

チベット問題といい、ちゃんと国民にも過去の歴史を教えて今吹き出た人権問題がどうして存在するかをオープンにしたほうが今後の為でもあるように思います。

知らない情報に操られた国民はかわいそうなものです。

昨年からのサブプライム問題といい、ロシアの政治の動き、原油価格の高騰が揺さぶる世界情勢、環境の浮く末・・・・・

何か大変なことになってきました。

こんな事を思うには私一人の危惧ではなさそうです。
何か世界が動き始めたようにも感じ取れます。
  


Posted by mister_kei0918 at 15:16Comments(0)