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2008年08月31日

褒められると嬉しいものです

福岡は一番

日本中の何処の市町村にもそれぞれの特長があって、そこに住んでいる人、故郷としている人にとってはやはり一番であって欲しいものです。

私は生まれ故郷が奄美大島ですからやはり、日本一であって欲しいと思っています。

多くの開発がなされていませんので残っている自然はこれからも大切にして欲しいと思っていますし一番だと思っています。

世界自然遺産への登録も進んでいると聞いています。
それと素朴な人柄でしょうか。後ひとつ言わせて貰うと、奄美の島唄は日本一ではないでしょうか。

民謡の日本一にも何回もなっていますし、雰囲気は独特のものがあります。

今の私の居住は福岡市ですが既に人生の70%を過ごしました。
子供三人も福岡生まれ。

お墓まで福岡に持ってきましたので、もう福岡人といっても間違いではないでしょう。

自分の居住地が世界一と評価されると自慢もしたくなるというものです。

もう2ヶ月ほど前になるでしょうか。
新聞に以下のような記事が掲載されました。

世界の暮らしやすい都市
『英情報誌・MONOCLEは24日までに「世界で最も暮らしやすい都市」として上位25都市を発表、日本からは東京が3位、福岡が17位、京都が20位に入った』

世界の25都市の中に3都市が入ることも素晴しいことです。

そこで、テーマ別のランキングで「ショッピング」では福岡市が世界一になっているんです。

その理由は
『顧客のセンスのレベルが高く、食文化の質も高い。山や海に近く自然が豊か』ということになっています。

何かこそばゆい感じもしないではありませんが、その評価が海の向こうの評価ですから身びいきがあったり思惑があったりではないでしょうから素直に受け取っても良さそうです。

だいぶ以前になりますが、
香港で行われた東南アジアで最も住みやすい都市としてナンバーワンに選ばれたこともありますからほぼ正しいのでしょう。

住んでいる私どもとしては余り実感はありませんが、
褒められると嬉しいものです。
  


Posted by mister_kei0918 at 16:47Comments(0)

2008年08月30日

嘉穂劇場の周りを眺めながら

白蓮さんの歌に会えて

昨日は午後から、業界の役員会出席の為に飯塚市へ出かけてました。
曇り空でしたが雨に降られることも無く。

会議の始まりが夕刻の5時でしたが30分ほど前に到着しましたので、かの有名な嘉穂劇場の周りを眺めながら近くの商店街を散策。
人通りが少ないのと、シャッターが降りているお店が多いですね。
開いているお店も活気が無くて雰囲気も寂しげで。
空き家も多く、今時の商店街の活性化の難しさや経済の偏りを感じてしまいます。

すぐ近くに遠賀川が流れてましたので河川敷まで降りてみることにしました。
至る所が草ぼうぼうで雑草の逞しさを感じます。

出来たばかりでしょうか。石碑が見えましたので近寄ってみると柳原白蓮さんの歌が刻まれてます。
その生き方が衝撃的で印象深い方でしたので常日頃から学びたいと思っていた方です。
勝手に写し取ってきました。

『師の君の
来ますむかふと
八木山の
峠の若葉
きみどりのして    白蓮』

大事な恩師が九州に来られるというので八木山を越えて博多駅へ出迎えに行くときの歌のようです。
きつい上り下りのある八木山ですが、恩師に会えるうれしさを光に映えて美しい若葉に重ねて表現をされています。

いつかまた、機会を見つけて白蓮さんのことを調べてみたいものです。
特に女性の方々にとっては興味をそそる白蓮さんです。
  


Posted by mister_kei0918 at 10:17Comments(0)

2008年08月30日

心底惚れて、結婚しようと思っていた相手に

子供は親が思った様にはならないが言った様にはなる

もう成人になった人、或いは個が確立できた年齢とでも言いましょうか。
そういう人はなかなか、言ったようにはならないし動かないものです。

却って反発の招くのがせいぜいです。よっぽどの餌があるか、説得力があるか、人間的に尊敬されていれば別ですが。

私のように大人でも気の弱い人、受け入れやすい人、迎合しやすい人は或いは言ったようになる人も入るような気がします。或いはそんな人もすぐ動揺し動く人なのかも知れません。

子供、特に小学校高学年まで位か、もしくは中学前半くらいまでの子供の頃の事を考えて見ます。

所謂、第2の反抗期(成長期)の前でしょうか。

言葉はよくないですが「おだてれば豚でも木に登る」とか、「豚でも踊る」。
子供は親が思ったようにはなかなか育たないものです。

「以心伝心」とはいいますがこれは成長した、相手の思いや心意気が読める年代になってからのことで子供が物言わない親の心など積極的に読めるわけがありません。

ですから、やはり言葉にすることが大事なようです。
つまり、体を使ったコミュニケーションでしょうか。

私のように小さい頃、親と一緒に生活していない者にとっては貴重な体験をひとつ逃してしまっているようなものです。

子供に対する親の愛情や思い入れは、それだけでは伝わるものでもないし言葉にすることによってより深みを増して永続的に子供の心に残っていくものです。

余り、しつっこいのは却って逆効果ですし、上滑りな言葉は子供といえどもそんな親の心など読んでしまいます。

恋人同士でもそんなことが言えますよね。
多くの方が経験されていると思われます。

心底惚れて、結婚しようと思っていた相手に一言が出ないために他の人と結婚されてみたり、鳶が油揚げをさらっていくように他の人に持っていかれた人もいるでしょう。

伝わらなくて諦めきれる思いなら良いですが、必ず伝わって欲しいならやはり言葉に頼ったほうが良さそうです。

文字やメールの方法もありますが。
事の真実や熱烈な思いは虚構にならなくて表情の見える言葉に優るものは無いでしょう。
  


Posted by mister_kei0918 at 08:48Comments(1)

2008年08月29日

楽しみになってきました、地方の時代が

情報と競争心のお陰?

良く東京へ出かけます。

私自身も東京田町のコンピューターメーカーでソフト開発に係わっていましたし、その後九州の支社に勤務しましたのでそのことを考える機会が多かったものです。

どうして人材の質の差が東京と地方であるのか?
別に差別的に考えているわけでもなく、純粋に。

だって地方には東京にはない人間性や心の豊かさ、自然の素晴しさがあるから丁度バランスは取れていると思うのです。

政治や経済の中心に成るということはそういうことでしょう。
日本の人口の10分の1は東京周辺に住んでもいますし。

先日の北京オリンピックの開会式の挨拶でしたか、「中国は世界の人口の5分の1」という言葉が飛び出してきました。

だから素晴しい人間が多いということでもないし理想的な社会が存在するわけでもありません。

問題は、人としてどれだけ豊かの心を持って生活しているかが問われるべきではないでしょうか。

数の論理や多数決がどんなに悲惨な状況を作り出しているかを今の社会が如実に示してくれています。

東京の話しに戻ります。

やはり、情報の量と競争心の存在ではないでしょうか。
確かに最高の教育を受けた人、トップクラスの学府が存在するのも事実ですが。

今の日本では情報の大半が東京から発信されています。
情報もそうですが出版だって多分90%以上が東京発だと思います。

政治も経済も、社会の動き、生活情報も全て東京。

であれば東京の人々が情報を最初にしかも大量に、深く知ることになってしまいます。

また、「生き馬の目を抜く」といいます。
歩くことさえ、競争です。競争が日常のスタンスにもなっているものです。

競争に耐え抜くために教育のシステムも出来上がりますし、第一取り組む姿勢が異なります。吸収の度合いが違うでしょう。

地方の私などはのんびり構えてますが。

と言う事は個人の自己への投資だって地方の差ではありません。

世界を相手にする大企業も全て東京、その下請けだって殆どがそうでしょう。
のんびり構えていては置いてきぼり所の話しではなくなるのです。

九州支社にいたときには本社から出張で来る同僚たちの情報量の多さに舌を巻いたものです。

ですが、情報格差はネット社会が始まり幾らか縮まっててきました。

時間的なハンディの少なくなってきましたし、地方が引けを取らない時代はもうすぐです。

後は競争心をどう育てていくかでしょう。

政治的な権限や予算が地方に委譲されることで、一極集中が緩和されることに繋がれば。

そうなると親元を離れて淋しい思いをしなくても済むでしょうし、生涯地元を愛しながら過ごせる時代が来るのかもしれません。

楽しみになってきました、地方の時代が。
  


Posted by mister_kei0918 at 10:12Comments(0)

2008年08月27日

心身のバランスが崩れたのではないかと

意識不明の東京日帰り

もう10年は過ぎたようにも思います。
1月の21日でした。今でも鮮明に記憶しています。

普段から健康で、病院での健康診断さえ行ったことのない私でした。

健康診断もさることながら、病院へ治療や診断の為に行ったことさえありません。
こんなことは自慢にもなることではありませんから、おくびにも出せないのですが。

全国の青年経営者の全国大会。2500人を福岡へ集める行事を開催しました。
私が責任者でその準備に約2年間の歳月を要したのです。

本部が東京ですから、月に1,2回は報告と打ち合わせの為に状況。
いつも日帰りでした。

本番を11月に終え、全ての報告資料をまとめ会計を整理し、本部への報告へ出かけたのが翌年1月21日でした。

首尾よく、問題点も全く無く安堵の面持ちで福岡への最終便へ飛び乗ったのです。

飛行機の座席に座ったときから、なんとなく気分の優れない思いはしていました。

そのままでは隣の方々に迷惑をお掛けしては申し訳ないと、最後尾まで歩いて右手を壁についたまでは覚えてますがその後気を失ってしまいました。

スチュワーデスの方と最後尾に座っておられたであろう女性の叫ぶ声がします。「お客さん、お客さん」。

それに気がついて意識を取り戻したのでした。

十分なお礼も尽くさないで飛行機を降りた自分が今でも恥ずかしい思いでいっぱいです。

その事を家族に話したのはそれから5年ほど後でした。

その後、病院へも行っておりませんので何が原因だったかは定かではありませんが、多分極度の緊張感と安堵感が交錯する中で心身のバランスが崩れたのではないかと勝手に診断をしたりしてます。

明日も一番機で東京へ飛びます。

よもやそんなことはありませんが、人は張り詰めた緊張がふと途切れたときが一番気をつけないといけないようです。
  


Posted by mister_kei0918 at 22:55Comments(0)

2008年08月26日

誘惑だってしきりです

人は願ったようになる?

そんな単純な事はありませんよね。
願った事が叶うなら、朝から晩までただ願っていれば言い訳ですから。

或いは神社や仏閣廻りを趣味としている人や朝夕、鳥居の前を通りかかるたびに願を掛けている人が世の中で一番願いが叶う人になるかもしれません。


でも、比較的願いが叶う人はいるようにも思えます。

良くお願いをする人、真剣になって、或いはお念仏のようにお願いを唱えている人。

そんな人の中には比較的、自分の願いが叶っていると信じている人、或いは現実のものとして叶っている人はいても不思議ではないように思われます。

「念ずれば通ず」とは昔から言われたことです。

私も、「これがそうなんだ」とか、「若しかすると願いが通じたのかも」等と思うことも一度や2度ではありません。

「以心伝心」と言うこともあります。時には不思議な事を経験したりもしますよね。

若しかすると今の私は、それこそ昔、私自身が望んでいたり願っていた姿ではなかったかと思うこともしばしばです。

振り返ってみると、願いを実現する手立ては

日頃が一生懸命であること、
努力や精進が伴うこと、
それが周りも望む姿であること、
楽しくて、正しくて曇りのないこと、
願いが叶うことが自己の向上に繋がっていること、
自分を含めて周りをも豊かに幸せにできること、
時には勇気を持って決断が出来ること・・・・・

勝手に書いていますが実はそんなに難しいことではなさそうです。

こんな思いを繰り返し、繰り返し唱えているうちに習慣化し、無理なく自己実現へ向けて走り始めるようにも思えます。

時々は邪まな気持ちが横切ったり、邪魔をしたり、交錯したりもするものです。
また、誘惑だってしきりです。

でも、人としての芯だけは失ってはいけません。
揺らいでも元の自分にすばやく戻ることが大事なようです。
  


Posted by mister_kei0918 at 13:04Comments(0)

2008年08月26日

バリアフリーな社会であって欲しいものです

物議のオリンピック

過去のオリンピックは純粋にスポーツの祭典と信じてみてきたつもりだったのが、今年の北京オリンピックだけは特別でした。

政治とスポーツは別だといいながら見えるのは政治主導、一党独裁の姿が裸になってしまいました。

反体制の人々は数多く拘束されているし、民族的な活動や暴動も多発しているようです。

聞くところによるとチベットでは140人もの人々がオリンピックの期間中に殺されているようだとも聞きます。

認めるはずの国民のデモも結局は一件も認めることはありませんでした。

報道の自由も保証するはずの約束は反故にされ、あちこちで記者が拘束されたり、暴行を受けたり。

誤魔化し、まやかしのアトラクション、会場近くの貧しい人々の強制退去、酷いところは周囲を壁で囲ったり目につかないようにしてみたり。

競技の極めて偏った応援の仕方やブーイング。

自国の英雄的な選手が競技を棄権した途端に会場から大量に帰ってしまう観客。

どうも、見聞きするだけでも従来のオリンピックとは異質な感じを受けたのは私だけではないでしょう。

これからの矛先は経済の動向と人権や民族解放への動きがどうなるのか。

民主的な社会が果たしてどこまで進むのか。

報道の自由がどこまで許されて、発言や表現の自由がどんな方向に進むのか。

環境や自然への配慮がどこまでなされるのか。

スポーツの尊さや大切さは言を待ちません。
それは誰しも異論の無いところでしょう。

オリンピックの後はパラリンピック。

国民や外国人にとってもよりバリアフリーな社会であって欲しいものです。

中国の皆さんがより自由で民主的な社会が世の中の流れであることを気づいてくれるとうれしいのですが。

もしそうだとしたら、若しかすると今まで以上の素晴しい成果を挙げたオリンピックとして賞賛されると思います。
  


Posted by mister_kei0918 at 07:51Comments(0)

2008年08月25日

何事も切望せず、何事も学ばない者は、生きる資格がない

学べども先に進まず

人は人としての資質を高めようと努めたり、知恵や知識を蓄え、深めようと努力をするものです。

最近、出来るだけ時間を作ってそのようなセミナーへ出たり、講演を聴いたりするのですが、どうも進歩の兆しが無いようにも思えてきました。

或いは、受け入れる私の頭が飽和状態なのでしょうか。
または馬耳東風で素通りをしているのか。
或いは、私自身の聴講の態度が内容を無視しているのか。

はたまた、聞いている内容がほぼ同じことの繰り返しで、目新しいものへの遭遇が無いために進歩が確認できないのでしょうか。

本当は教えていただいたことが血と成り、肉となれば素晴しいことですが、租借しきれないで消化不良になったり頭の中で廻っているばかりで、実践が伴わなかったりすると却って困ったことにもなってしまいます。

適当に教えていただいて、少しづつ実践が伴って、幾らかでも昇華や消化が出来ると素晴しいのですが。

インプットとアウトプットのバランスが取れない状態は困ったものです。

「頭でっかち」もそうです、世の中で使えないもののひとつにも数えられてしまいます。

私などは頭でっかちにもなりきれないし、機転の利くほうでもないし、有用な知恵知識を持ち合わせているわけでもなく、所謂「箸にも棒にもかからない」の口のようです。
最も困る存在かも知れません。


『常に何かを聞き、常に何かを考え、常に何かを学ぶ。
これが人生の真の生き方である。
何事も切望せず、何事も学ばない者は、生きる資格がない。
Aヘルプス』
  


Posted by mister_kei0918 at 12:47Comments(0)

2008年08月23日

ここまで辿り着いた人生を棒に振らないためにも

「身の丈、身の程を知る、分をわきまえる、自分を過大評価しない」

若い頃、挑戦的に物事に取り組む男を捕まえて、良く「身の程を知らない奴」とか言われたりもします。

でも若い頃は大いにそうであって欲しいものです。
可能性を秘めているわけですし、吸収の度合いだって違います。

また、成長も想像の域を超えることもよくあるものです。「あいつがそこまでやれたか」、「あの男にそこまでやれる能力が備わっていたのか」等と褒めたたえる事もしばしばです。

自分の身の丈を知る、身の程を知るのもやはり多くの経験がそうさせるようです。

何事も無難で、挑戦することを知らず、危険なことは他人任せで、躊躇することが大好きで、他人の動向にばかり神経を使い果たし、人の指図を受けることを殊のほか好む人・・・。

実は私も身の程を知らない、そんな一人ですが、
まだ、前に一歩でも進もうとする思いが勝っているのかと思ったり、幾らかエネルギーの残存があるのかと安堵をしたりもしています。

ですが、人間はあるところまできたら(人によって、それぞれに年齢は異なるでしょうが)やはり身の程をわきまえないと、とんでもない結果を引き起こし人生を棒に振ったり、社会に迷惑を掛けたり、家族を路頭に迷わせたりもするものです。

若い頃のそんな結末はまだ救いがあったり、
自力更生が可能だったり、手助けをしてくれる向きもあるのですがある程度歳を重ねての事は、事態の収拾が難しかったり、傷が深く取り返しのつかないことに発展するものです。

また、そんな人に限って自分を過大評価する人が多かったり、慢心の余り人の言葉を聞き入れなかったりもするものです。

経営者の中にも良くそんな姿を見ることがあります。

もうここいらで「身の丈を知る、分をわきまえる、身の程を知る、自分を過大評価しない」事に心を砕く必要がありそうです。

よもよも、ここまで辿り着いた人生を棒に振らないためにも、そうありたいものです。
人生、余り早くから守りに入りすぎるのも問題ですが。


『寒さにふるえた者ほど太陽の暖かさを感じる。
人生の悩みをくぐった者ほど生命の尊さを知る。
ホイットマン(アメリカの詩人)』
  


Posted by mister_kei0918 at 17:16Comments(0)

2008年08月22日

今日の悲しみや、苦しみに一喜一憂しないで

勝機は何処かに潜んでいる

昨日は北京オリンピックで日本のシフトボールチームが金メダルに輝きました。

上田投手の気迫は素晴しいものですし、前日から400球を越える投球を投げてもまだ勝負に対する執念は途切れることは無かったようです。

彼女は福岡の九州女子高校の出身で、私の長女と同じ学年でしたのでとりわけ気になっているアスリートの一人でした。

サッカーの「なでしこジャパン」も素晴しい成績でした。
負けはしましたが世界王者のドイツ女子を相手にして堂々の戦いぶりです。

日本の女子はどうしてこんなに素晴しいのでしょうか。
世界中の男性が出来るなら日本女性と結婚したいと願う理由が分かるような気もします。

昨日の女子ソフト決勝戦を見ていて、最初から押されぎみの試合展開でしたから勝つのは難しいと思ったのは私だけではないでしょう。

中盤になって上田さんの落ち着きが出てきましたし本来の投球になっていきましたので少しづつ、もしかするとと思い始めたものです。

男子400メーターリレーで世界記録を持つアメリカがバトンタッチに失敗し、失格となりました。

話しは飛びますが昔、20%に満たない市場占有率のアサヒビールが当時50%を越し寡占状態にあるキリンビールを抜いてしまいました。

何処かに勝機は潜んでいるものです。
勝利の女神は何処かで微笑みかけているようです。

それは誰にも分かりませんし、教えてもくれません。神のみぞ知る、或いは神様もご存じないかも。

ですが、血の滲むような、極限的な努力が伴っていたことを私どもは教訓としなくてはいけないようです。

たとえメダルには届かなくても無駄な努力など無いものです。
人並み以上の努力と信じることでしょうか、「自分と周りにいる人々と、勝利を」

幸福の女神の前髪は、掴もうと努力した人だけが握り締めることが出来るようです。

今日の悲しみや、苦しみに一喜一憂しないで明るい明日を思い描いて、地道な努力を重ねることに価値がありそうです。

だって明日は「明るい日」と書きます。
  


Posted by mister_kei0918 at 12:40Comments(0)

2008年08月22日

会社も長続きはしないかもしれません

聞こえない振り、見ない振りも時には大事

年をとると耳は遠くなるし、目も老眼化し、聞こえたはずの音も聞こえなかったり、見えていたはずの目も殊のほか力を失い、情けなくもなるものです。

でも、考えてみると全てが聞こえて、全てが見えても困りものです。
時には聞こえても聞こえていない振り、聞いていない振り。
見えていても見えていない振り、見ない振りが大事なときがあります。

子育てもそうです。
何でも係わってくる親など、子供にとっては鬱陶しくて溜まりませんし、今どきの言葉で言えば「うざい」でしょうか。

そばからそっと見ておいて大事なときにだけ、注意をしたり指導をしたりするのがより、素晴しい子供つくりの秘訣のようです。放任も困り者ですが。

或いは子供は自分に不安を感じたり、どうにもならないときには自ずから助け舟を要求してきます。

会社でもそうです。
何でもかんでも先輩が、係わってきたり、口を挟んでいると後輩や新入社員は決して育たないものです。

自分で考えさせる、研究をさせることがいち早く成長させる早道のようです。

経営者も考えねばいけないところのようです。
口うるさい経営者、こんなに嫌なものはありません。

社員に仕事を任せきれない社長、信頼を寄せない社長の会社は業績も好くなることはそうは無いでしょうし、社員が育つのも難しいもの。長く勤めたいとは思わないでしょうし、会社も長続きはしないかもしれません。

面倒見の良すぎる人の部下は最も能力の向上が遅く、成長が遅れること必死です。
また、人間関係を損ねることにもなりかねません。

「見ざる、言わざる、聞かざる」は無視に繋がりますので極端で困りものですが。

何でも間でも関与せずに、時には「聞こえない振り、見ない振りも時には大事」なようですね。

良く言われる過干渉、過剰な関与はいい結果には余りならないようです。

今日から気をつけていきます。
  


Posted by mister_kei0918 at 08:01Comments(0)

2008年08月20日

ネット上の罵声は悲しくもなります

「お父さんにありがとう」、「家族にありがとう」

北京オリンピックも終盤を迎えました。

中国が歴史的な数のメダルを獲得しそうで、一人勝ちと言っても過言ではないようです。

競技を見始めたころは日本の選手がメダルを取ること、勝つことのみを期待しながら見てましたが今になってみるとメダルを上回る物を得た思いで一杯です。

決して負けても気にならないわけではありませんが、勝負に優るものを発見したといったほうが正しいでしょうか。

今度のオリンピックほど、国威発揚や国民の気持ちの誘導、存在の誇示を際立って感じたオリンピックはありませんでした。

報道の自由もかなり当初の約束とは異なったようですし、式典の誤魔化しや競技会場での極めて身贔屓な応援、自国のマスコミへの規制・・・・・今までに無いオリンピックでした。

メダルの数が大いに越したことはありませんが、アスリートが最善の努力をし、力を出し切った結果であれば大いに賞賛をしてあげたいものです。

中国のハードルの選手、国民的英雄・劉翔選手の競技欠場に対する容赦のないネット上の罵声は悲しくもなります。

今は政府が躍起になって国民をなだめているようですが。
許してあげることも大事ではないでしょうか。

金メダルひとつ取れなくても、いいではないですか。

ここまで来た彼を賞賛する態度のほうがむしろ中国の国民の懐の深さを感じるものです。中国は昔から「母なる国」とも言われたものです。

今度のオリンピックで見つけたもの、際立ったものといったほうが正しいかも。

日本選手の方々がインタビューを受けたときに「迷惑を掛けた家族にお礼が言いたい」「支えてくれた家族に・・・」「心配を掛けた家族に・・・」の言葉が多かったものです。

中でも今まで感じることの無かったことがあります。

家族への感謝の言葉が多かったのも特徴的ですが、
特に「父に感謝を言いたい」「父のお陰で・・・」などなど、父親に対する言葉が多かったことを感じたのは私だけではないでしょう。

レスリングの松永選手、フェンシングの太田選手・・・
甲子園福岡県代表の飯塚高校の辛島投手などもそうです。

つい、ないがしろにされていた父親、或いは存在が薄かった父親がこのオリンピックによって復権をしたようにも思いますが皆さんはどうでしたか?

父親である私にとってもその意味ではうれしいオリンピックでした。

父親の地位が向上したような、見直して頂いた様な。
  


Posted by mister_kei0918 at 13:54Comments(1)

2008年08月19日

悲喜こもごもの現実ではあっても

夢を叶えるには力が要る

幼い頃は良く夢を見たようにも思います。

怖い夢であったり、追いかけられてみたり、落ちてみたり。

酷い時には火事の夢を見て、火を消しているつもりが寝小便(おねしょ)だったりして、布団や衣類をおしっこまみれにして母からいつも叱られていたものです。

恥ずかしい話しですが小学校の6年生の頃までおねしょで叱られていたようにも思います。
外の干された布団や寝巻きを恥ずかしい思いで眺めたものです。

幾多の夢の中で果たして実現したものはどれ程なのでしょうか。
布団の中で見る夢ではなくて、自分の将来に希望を託すために思い描く夢。

中には実現不可能であろうと思われた夢も、振り返ってみると案外、実現できていると確認できるものです。

夢は出来るだけ見たほうが良さそうです。

悲喜こもごもの現実ではあっても、未来の展開は予測もつかないものです。だから自分が描いていた夢より大きく、より深く実現する夢が存在します。

実現には直接的でなくても努力が必要なようです、力や勢いが必要なようです。

実現するに必要な前向きな努力と、人を信じ、他人の夢の実現に力を惜しまずに尽力する。


『小さな夢はみるべきではない。
なぜなら、それは人の心を動かすことができないからだ。
ゲーテ』

『トップになるには何が必要か。
集中力、鍛錬、そしてひとつの夢。
フローレンスグリフィスジョイナー』

『人間にとって成功とはいったい何だろう。
結局のところ、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、
努力したかどうか、ではないだろうか。岡本太郎』

『ひとりで見る夢は夢でしかない。
しかし誰かと見る夢は現実だ。オノヨーコ』

『夢なんて見るモンじゃない語るモンじゃない叶えるものだから。
小室哲哉「Chase The Chance」(歌安室奈美恵)より』

『夢見る力のない者は、生きる力もない。トラー』

『私は何も発明していない。
私の夢が発明したのだ。トーマスエジソン』
  


Posted by mister_kei0918 at 21:23Comments(0)

2008年08月18日

江戸幕府が倒れ、明治維新が

浮世絵と良寛和尚

昨日は福岡市美術館で7月12日から8月31日まで開催されている「ボストン美術館・浮世絵名品展」を家内と二人で観てきました。

始まる前から、見ておかないと損をするとの思いでおりましたので拝観をして、ホッとしております。

明治の初期にアメリカから数名の著名な絵の収集家が来日し、結果的には5万点もの浮世絵が流出をしたようです。

この浮世絵によってヨーロッパの名だたる絵描きの人々が大いに刺激を受けたようです。

浮世絵の初期から幕末までですから1700年中期から1850年位の作品の数々。
鈴木晴信、喜多川歌麿、東洲斉写楽、葛飾北斎、歌川広重・・・。

私は浮世絵の全盛は元禄時代、つまり1700年前後と理解していたのですが半世紀ぐらい違っていました。

理由は浮世絵というと華やかな表舞台を描いたのを目にすることが多いものですから、そのように誤解をしていました。

展示場の外に出たところに浮世絵の絵ハガキや掛け軸を販売してましたが、浮世絵の春画が売られていたのにはビックリしました。

時代を気にしてましたら、良寛和尚が1758年から1831年ですので丁度、浮世絵全盛の時代と重なっていることに驚いたところです。

極めて庶民的、流浪の良寛和尚と浮世絵。

その取り合わせになんとなく時代背景を感じております。
その数十年後には江戸幕府が倒れ、明治維新が待ち受けていたのですから。


良寛和尚さんの戒語
1、 こと多き(言葉の多い事)
2、 口のはやき
3、 話のながき
4、 手柄ばなし
5、 講釈のながき
6、 物言いのはてしなき
7、 人の物言い切らぬうちに物言う
8、 人の話の邪魔をする
9、 さしたる事もなきことをこまごまという
10、 物知り顔に言う
11、 好んで唐言葉を使う
12、 都言葉を覚えて、したり顔に言う
13、 よく知らぬことを憚(はばか)りなく言う
14、 若者の無駄話
15、 見る事聞く事一つひとつ言う
16、 推し量りのことをまことにしていう
17、 さしで口
18、 よく心得ぬことを人に教える
19、 悪しきと知りながら言い通す
  


Posted by mister_kei0918 at 17:35Comments(0)

2008年08月17日

自問を繰り返しながら歩む道もまた楽しいものです

他人(ひと)の言葉なら素直に聞けるのに

人は不思議なものです。

若い頃は親の言葉など、空言にしか聞こえなくて、無視するか或いは反発をしたりもするものです。

「分かっていることを何度もくどい」とか、「いつまでも子供扱いにするな」とか。
自分が親になってみると実は大事な事を教えてくれたことに気づくのですが。

ところが他人の言うことには幾らか耳を傾けたりもします。
相槌を打ったり、頷いたりもするものです。

会社でもそうです。
部下や社員の言うことには余り耳を傾けないものです。聞いている様でも実は気持ちは他に飛んでいたり、馬耳東風だったりもします。

実は大事なことなんですがね。

そこには損得勘定や利益をもたらすのか、或いはプライドや競争心や我侭が渦を巻いているようですし、感情をあらわに出来る相手かどうかを自然と感応的に見極める力を備え持っているようです。

考えてみると素直に聞くことだけが人生に有用に働くわけでもないようです。

時には反発をしたり、競争心をあらわにしてみたり、プライドを傷つけたり葛藤を繰り返しながら人は成長するようですから。

また、簡単に順応してしまうようなことでは人生は面白くもありませんよね。

人の言葉に反発を重ねたり、逆行をしてみたり、試行錯誤を経験したり、場合によっては抵抗を試みたりすることも大事です。

当然、人間関係を損ねたり、相手の人権や尊厳、身体に影響を及ぼすことは避けねばいけないことは当然です。

人の言葉や行動を「本当にそうなの?」
「それしか方法はないの?」
「真実なの?」
「人の歩む道は他にも違う道はあるのでは?」・・・・・

自問を繰り返しながら歩む道もまた楽しいものです。
決して、人との関わりや心や思いの共有を否定しなくても。
  


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2008年08月16日

女性の方のそそとした上品な出で立ちや・・・

残念でありながら、いい思い出が

昨日から、福岡県星野村への家族旅行となりました。
目的は当然、満天の星。

昨日は15日。

お盆の送り火の日ですから、当然朝からご先祖様をお墓へ送り届けました。
慣わしから言うと多分、夕方に掛けて送るのが当たり前ではないでしょうか。

ところが夕方から遠出が出来ませんので、申し訳ないのですが朝から送らせていただきました。

途中、昼食を済ませて星野村へ到着したのが2時半頃。

チェックインが4時ですのでその間を利用して星野焼の展示施設「古陶星野焼展示館」。

まず、展示館の建物に感じ入りました。設計は福岡の方のようです。

外見は屋根が星型、陶窯を模した煙突、建物の中心に吹き抜け、真ん中に池を配し、周囲に星野焼の展示。

吹き抜けの最上部はガラスや壁がついているわけでもなく、雨や雪がそのまま下の池に降り注ぐ構造。

池に小さな金魚2匹が睦まじく寄り添って泳ぐ姿も印象的でした。

何よりも説明をなさる女性の方のそそとした上品な出で立ちや、説明の爽やかさ、丁寧さ、心遣いに胸打たれたものです。

残念ながら夕刻から降り注ぐ雨の為に、
「星の文化館」での反射望遠鏡での観察は出来ずじまいでしたが、プラネタリュームでの丁寧な説明に頷いて宿泊先へ帰ってきました。

後は温泉地ですから、
ゆったり浸かって疲れを取って、オリンピック中継を見ながらいつの間にか寝付いてました。

星野村から福岡への帰りはとてつもない豪雨に遭遇し、高速道路を時速40キロでの走行です。
どうもニュースによると1時間当たり120ミリの雨だったとか。

期待するようにはなかなかいきませんが、でも片方では素晴しい思い出にぶつかったりも致します。

今日、午前中に見物した棚田百選の「広内の棚田」で昔の人々の生きることへの弛まない努力を噛み締め、立ち寄った浮羽町のぶどう園ではもぎ立ての美味しさに舌鼓を打ちました。
  


Posted by mister_kei0918 at 19:49Comments(0)

2008年08月15日

果たして歴史は何を教えてくれるのでしょうか

満天の星空の下で

何処かで聞いたような、見たようなタイトルになりました。

今日は、以前から出かけてみたいと思っていた福岡県星野村の「星の文化館」へ出かけます。
車で2時間くらいでしょうか。

星野村は数度は訪れてますが宿泊をするのは初めてですし、念願の星の観察も初めてです。

九州最大級の反射望遠鏡があるようですから。

先程、道のりを調べるのに星野村のホームページを開いてみました。

手作り感が一杯で良いですね。
多分日々、更新をされておられるのでしょう、そんな感じです。
人口が3400人くらい、お茶処ですよね、しかも高級茶の。

あの、女優の黒木瞳さんが育った黒木町の隣(黒木瞳さんの名前は八女市出身の五木寛之先生がつけられたとか)。静かな山間の村です。

私の頭の中には、石楠花と日本棚田百選に選ばれている凄い棚田を思い出します。

棚田は最も高いところに立って眺めるだけで涙が溢れるような思いに駆られるものです。

今日は終戦から63年目の記念日に当たります。
幾多の犠牲の上に、成り立った今の日本。戦争の経緯や是非は別として失った計り知れない人命をはじめとして、心を新たにしないといけませんね。

私も生まれは戦後ですが、直接的な犠牲を受けた一人ではありますが。

満天の星空がどんなに綺麗で素晴しく、いつまでもどこまでもそんな環境の中で暮らしていきたいものです。

四六時中、痛ましい事故や事件、とりわけ殺人事件の話しなど聞きたくないものです。
連日、グルジアの戦闘のニュースが耳に入ります。

人間の歴史はそんなために積み重ねてきたわけでもありませんし、知識知恵もそのために生み出したわけでもないでしょう。

人は経験ではなくて歴史から学べといいますが、果たして歴史は何を教えてくれるのでしょうか。

子供たちの将来が不安になります。

一触即発、どこで何が起きるか分からなくなってきました。

経済もどうだか分かりません。北京オリンピックに浮かれているのが怖くさえなります。

でも、今日は期待をしてます。
「満天の星空が見えますように」
  


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2008年08月14日

下手な演技でも今は撮影の旨さで誤魔化されたり

燻(いぶ)し銀でいい

オリンピックも中盤を向かえ、日本のキンメダルの数も増えてきました。

前回のアテネ大会のメダルの数が多かったものですから、つい過剰な期待をしてしまいます。

でも、オリンピックの参加国も史上最大になって、メダルの数は限られるとなれば当然、貰えるメダルは減ってくるのは当たり前です。

余程の強化をするとかすればそうでもないでしょうが。

また、主催国が人口が多かったり、スポーツをより振興している国であったり、オリンピックを国威発揚のチャンスと捉える国であったりすると当然メダル取りのための大会になったりもします。

また、過剰な功労金や年金を与えたり、一生涯、高級官僚並みの生活を保証する国もあると聞きます。

そうなると命を掛けて練習もするでしょうし、試合に臨む気持ちのあり方も半端なものではないと想像されます。

メダルの光も金に越したことはありませんが、
それが為に人生の全てがばら色になるわけでもありません。

確かに素晴しい栄光であることは間違いはありません。
結局はその後の人間としての生き方がどうであるかが問題でしょう。

日本には昔から「燻(いぶ)し銀」という言葉があります。

銀でも言いし、二番手でもいい。
強烈な光は放たなくても、燻された銀の方が良しとされる言葉です。

企業でもそうです。目立つ社長がいても企業は成長するものでもありませんし、素晴しい頭脳明晰な社長が素晴しい経営者でもないものです。

当然、優秀なナンバーツーの存在こそが大事なのです。

家庭でもそうでしょう。
どんなに氏素性の良い、ハンサムな旦那がいてもそれを立派に支える奥様がいないと立派な家庭など出来るわけがありません。

むしろそんな旦那の家庭に限って崩壊が早かったりもするものです。

社会でもそうです。
凄いリーダーがいてもそれを支える人々が存在しないと長続きなどしないものです。

食べ物でも燻製にされた食べ物は、よくも人間の知恵はここまで働くものだと感心をさせられますし、香りも味も最高ですし、長期の保存にも最高です。

俳優さんの演技でもそうです。
ピカリと光っている素人俳優の下手な演技でも今は撮影の旨さで誤魔化されたり、顔のよさやスタイル、ルックスの良さで勘弁したりもするものです。

所が往年の演技派と呼ばれる俳優さんの演技は、まさしく燻(いぶ)し銀と言うにふさわしい演技を見せてくれます。

一時の光はもういいです。

見た目は地味で華やかさは決してありませんが、磨き上げたら鈍い光を放つ「燻(いぶ)し銀」で私は、満足です。
  


Posted by mister_kei0918 at 16:40Comments(0)

2008年08月13日

「心を洗う」とはそんなことなんでしょうね

時には両の手を合わせて

今日はお盆の入り。
既に新盆で済ませた方々もおられるようです。

月遅れのお盆です。

13日は迎え火を炊いたり、道案内の提灯を玄関先や門に下げた日ですが、今では殆ど見ることがなくなりました。

或いは地方では見られるのかもしれませんが。

昔からの慣わしでもありますし、宗教行事でもあります。
或いは夏のひとつの風物詩でもあったものです。

朝早くから、お墓へ行ってきました。

花を携えて、墓石を乾いた雑巾で軽く吹き上げて、
お線香に火をつけて、出来るだけ多くの煙が出るように人くくりの束に火をつけます。
「みんなの幸せと健康を守って頂き有難うございました。お迎えに参りました」

お仏壇には3日間、
お供えを差し上げ、お線香を切らさず、手を合わせる機会を出来るだけ多く作ります。

そして15日にはまた、お墓に送り届けることとなります。

私どもは目に前にいる生身の人間にのみ、
日頃は「有難う」や「お世話様になります」を言っておりますが、実は今は亡き、親族や友人知人、諸先輩方のお陰を頂いて今があることを時々思い起こさないといけませんよね。

お仏壇があって、
朝夕手を合わせる子供や家族はより多くの幸せに恵まれるとも言います。

また「お仏壇、ご先祖様に両手を合わせいる子は非行に走らない」などとも言われたものです。

そう言えば、
私などはお仏壇が無かったこともありますが、両手を合わせて心から「有難うございます、お世話様になりました」等ということは無かったものです。

「心を洗う」とはそんなことなんでしょうね。

ご先祖様を大事にする心を今日を機会に改めて強く持ちたいものです。
  


Posted by mister_kei0918 at 18:39Comments(0)

2008年08月12日

空しさだけが残らないように

お祭り騒ぎに終わっていいのでしょうか。

今、世界中はオリンピックに目を奪われている状態です。

或いはもしかすると、
65億人の中で本当にオリンピックに興味を持ってみている人は果たしてどれほどいるのでしょうか。

最近のグルジアとロシアの軍事衝突の情勢、宗教対立、民族紛争、人権の確立さえおぼつかない状況や戦時体制でそれどころではない人々も多いものです。

或いは明日の食べ物も満足に確保できずに、スポーツなど考えるゆとりさえない人々。

学校にも満足に行けず、ストリートチルドレンとして親の稼ぎを補っている子供たち。

体をも、売っている女の子がいるとも言います。

自然災害で住み家も失い、将来の生活の目途も立たない人々。

病に気力を失い、明日の希望さえ持ち得ない人々。

心無い人間に、人生の行き先を塞がれ途方に暮れている人々。

国のあり方の故に、個人の尊厳や人間としての権利まで奪われてしまっている人々。

身体や精神に病を抱えるが為に、
自由を奪われ、或いは人として生きる権利や平等までも奪われ束縛されている人々。

想像に難くないのはむしろそのような人々のほうが圧倒的に多いのではないでしょうか。

もしかすると、
オリンピックが開催されているなど知る由も無い人々もいることでしょう。

表の華やかさの影に
幾多の恵まれない子供や大人、老人が悲鳴を上げていることに目を瞑ってはいけないようです。

多くの人々が自分の望みや夢を完全に立たれ、
もしかすると夢を見ること、現在の状況を少しでも改善できない事への不満を持つことさえ忘れてしまっているかもしれません。

オリンピックは、
華やかなスポーツの祭典というだけではなく、世界中の恵まれない人々へ思いを至らせる機会でもあって欲しいものです。

負けることしか出来ない人々
(或いは負けていることさえ理解できていないかもしれません)、

一縷の幸せの光さえ(或いは光の存在さえ)見ることの出来ない人々がいることを。

空しさだけが残らないように。
  


Posted by mister_kei0918 at 16:50Comments(0)