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2009年02月28日

企業の社会的責任

企業の社会的責任

社会に責任を持たなくてはいけないのは個人だけではなく、むしろ社会的に影響の大きさから判断すれば企業の果たすべき役割の大きさは比較にならないようにも思われます。

個人の果たす責任は昔から叫ばれています。

小さい頃は「世の中のお役に立てる人間に成長しなくてはいけません」と
親や先生から教えても頂きました。

また、自由の裏には責任が存在しているとは耳にタコが出来るほど言われてもおります。

自己主張や自己の保身ばかりでは決して上手な世渡りとはいえませんし、社会が許してはくれません。

今時のように、道徳や人間としての理念が薄れた世の中は、結局法的に厳しくしたり、制裁を加える方向で動いて行かざるを得ませんが、本来はもっと人間らしい世の中のあり方があるやも知れませんが。

或いはそれが人間らしいとも言えなくはありませんね。

私どもが社会に出た時には、企業の社会的責任などという言葉さえ見当たりませんでしたし、教えても貰えませんでした。

考えてみると法人も人の字がつくわけですから当然、責任は存在するのですが。

社会にとって有為な商品やサービス、情報を作り出したり提供するのが企業です。

ですが、最近はやたらと法令順守(コンプライアンス)や企業の社会貢献、社会的責任の声が次第に大きくなってきました。

昨日の新聞の朝刊でも私どもの業界の大阪の会社が大きく報じられていました。
郵便法と法人税法違反の疑いが深まり、2名を逮捕の方針という記事が。

結局、夕方の報道では逮捕のニュースが駆け巡っています。

障害者団体の定期刊行物向けの郵便料金割引制度「心身障害者用低料第三種郵便物」を悪用し、かつ脱税をしたというもの。

120円のDMが8円で発送できたというのですから、受注の際の競争にもなりません。

競争が激しさを増し、ましてや経済の混迷が加速化する中、どの企業も仕事が欲しい、売上や利益の確保、受注の拡大をあの手この手で懸命に努力を重ねているわけですが、つまり同じ土俵、同じ条件での見積が出来ないとなると勝負にもなりません。

業績が悪くなろうとも、企業としての社会的責任を無視するか、阻害するような行動に出るようではそれは既に経営ではなくなっていると言っても過言ではないでしょう。

だって、経営の経は「縦糸」つまり心の問題だと捉えていますから。

我々の業界で時々問題となるのが、青少年育成条例の違反や法外な金利で一時問題となった金融の印刷物。

経営は難しいものです。

社員に受け入れられ、お客様に信用され、
法令を遵守し、税金をしっかり払い、

社会的な責任を全うし、社会貢献や環境に配慮し、
受け入れられる有為な商品やサービス、情報を提供し、

適正な価格を決め、適正な利益を確保しなくてはいけません。

そこがまた、経営の妙味でしょうかね。
  


Posted by mister_kei0918 at 09:58Comments(0)

2009年02月27日

自身の最大の敵は自分の中にある

自身の最大の敵は自分の中にある

どこかで聞いたような言葉です。

あの日本を代表する画家・岡本太郎先生の言葉です。

『外見的なことばかりで鏡を見ないで、自分と対決するために鏡を見る。これが本当の鏡の見方だ。(岡本太郎)』

出来ればいつでも自分自身は高く評価しておきたいものです。
時々、その思いも覆ったり、自信喪失になったりも致します。

怠け癖や責任逃れ。
或いは頑張っている振りをする。

私などはいつもこんなことに終始しながらの日常のような気が致します。

原因や敗因、失敗などの繰り返しは、全て自分の精でありながら他への責任転嫁。

内なる自分と向かい合うことなく、いつも目をそらせているように思います。

人の精にすること、お金や自然や時間の精にすることは結局は自分に降りかかってきますし、自分の器そのものを小さいものへ誘導していることと何等変わらないように感じます。

出来れば、責任は自分が負う、泥をかぶるくらいの勇気を持って世の中を歩んだほうがスムースに全うできるものです。

自分を歪めたり、卑屈にしたり、極めて寂しい状況に追い込むのは自分です。
長い人生ですが、自分は損をしているかなと思うくらいが丁度良さそうですよ。

「敵は本能寺にあり」ではありませんが、
自分の中に潜む敵との戦いこそ、人間としての最大の難関でもありますが、逆に乗り越え甲斐のある強敵です。

手強いですよね。

もう一度、
『外見的なことばかりで鏡を見ないで、自分と対決するために鏡を見る。これが本当の鏡の見方だ。(岡本太郎)』
  


Posted by mister_kei0918 at 08:56Comments(0)

2009年02月25日

「セカンドプロポーズ」

「セカンドプロポーズ」

私どもの世代にとっては思い出深いビリー・バンバンです。

白いブランコ、また君に恋してる、千年の約束、れんげ草・・・などなど。

男性のデュオとして40周年を迎えたようです。
長い年月です。

一言で40年といいますが、早い人では孫のいる人だっているくらいですから。

孔子の言葉によれば「40にして惑わず」、自分の行き方や方向性に確信を持って望める40歳ということのようです。

そうです、私の40歳は大きな曲がり角だったようにも思います。
起業して10数年を経過したところでした。

ある程度、軌道にも乗ってこれから成熟した人間として歩み始めた頃。

そのビリー・バンバンのお二人が今度、40周年を記念してアルバム「セカンドプロポーズ」を出されました。

過去の様々な曲も収録されているようです。

そこで、「セカンドプロポーズ」に思いを馳せています。

夫婦の中でも、或いは夫婦でなくても良いかもしれませんが長い年月、共に生活を営んでいる人にとっての二度目のプロポーズの機会があると良いですね。

若い恋人たちにはバレンタインやマシュマロデーがありますが、熟年の大人に取って改めてのプロポーズの機会があれば、改めて新鮮な気持ちで出発が出来そうです。

いずれにしても照れくさいものですが。

11月22日はいい夫婦の日だと勝手に決まられています。

例えば40年目の結婚記念日には「セカンドプロポーズ」の日だとか。
それだったら、「これからも宜しくな」程度のことは言えそうです。

そのためには健康でそれまで生き抜かなくてはいけませんが。

でも、「セカンドプロポーズ」をいう為に40年頑張ってみるのも良いかも知れませんね。
  


Posted by mister_kei0918 at 18:33Comments(0)

2009年02月24日

運命に翻弄される日々?

運命に翻弄される日々?

私どもは日常的に「運命に翻弄された、運に見放された、運に突き放された、運のつき」等とつぶやきます。

運命:命を運ぶと書いています。命は授かりもの、自分に与えられた命(体と心)を運ぶ責任を負っているのが人間ではないでしょうか。

先人の言葉を並べてみてもそれが理解できます。
実は運命は自分が作っていることを!!

幸運の女神の前髪を掴む努力なしでは、幸運は廻って来ないようです。


『運命がレモンをくれたら、それでレモネードを作る努力をしよう。Dカーネギー』

『運命は、どこかよそからやってくるものではなく、
自分の心の中で成長するものである。ヘルマンヘッセ』

『運命は、われわれに幸福も不幸も与えない。
ただその素材と種子を提供するだけだ。
それを、われわれよりも強いわれわれの心が好きなように変えたり、用いたりする。
われわれの心がそれを幸福にも不幸にもする唯一の原因であり、支配者なのである。モンテーニュ』

『運命の中に偶然はない。
人間はある運命に出会う以前に、自分がそれを作っているのだ。ウィルソン』

『運不運よりも、運不運とのつき合い方、
それが当人の生き方を変えるのではないか。三國一朗(俳優)』


『偶然がまだ運命と同一に思われるのは、青春時代の始めだけである。
後になれば、生の本当の道は内面によって規定されていたのだ、
ということを知るようになる。ツヴァイク』


『心が変われば態度が変わる。態度が変われば習慣が変わる。
習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる。蓮沼文三』


『偶然とは、努力した人に 運命が与えてくれる橋です』

『平らな道でも、つまずくことはある。
人間の運命も、そうしたものである。チェーホフ』

『すべては原因、結果の法則によります。
運命論者のいう運不運は、あなたの思考や行動と無縁ではありません。マーフィー』

『人間は自己の運命を創造するのであって、これを迎えるものではない。ヴィルマン』

『忍耐は運命を左右する。キャンベル』

『人間というものは、自分の運命は自分で作っていけるものだということをなかなか悟らないものである。ベルグソン』

『一人の人間には、その運命と人生を決するような時が生涯一度や二度は必ずあるものであり、それを乗り切った瞬間、彼の未来は全面的に変わるものだ。マーフィー』

『不幸からよきものを生み出そうとし、又生み出しえる者は賢い人である。
与えられたる運命をもっともよく生かすということは人間にとって大事なことである。武者小路実篤』

『人の運命は九割は自分の不明による罪だ。司馬遼太郎(竜馬がゆく)』

『人は、運命を避けようとしてとった道で、しばしば運命と出会う。ラフォンテーヌ』

『運命は我々の行為の半分を支配し、あとの半分を我々自身にゆだねている。マキャベリ』

『運命は、志のあるものを導き、志のなきものを引きずっていく。セネカ』

『運命は、どこかよそからやってくるものではなく、
自分の心の中で成長するものである。ヘッセ(クラインとワーグナー)』
  


Posted by mister_kei0918 at 11:34Comments(0)

2009年02月23日

人財、人在、人罪の話し

人財、人在、人罪の話し

どなたの本だったかは忘れてしまいました。
人材には3種類あるといいます。人財、人在、人罪。

そこまでは覚えてますが、これ以下は私の勝手な推測です。

人財:企業にとってなくてはならない人材。
   仕事のリーダー的存在というところでしょうか。
   企業の売上の大半を獲得する人々。
   技術面で要となる存在。

人在:なくてはならない存在ではないけど、必要とされる人材。
   現在のように経済が厳しくなってくると、
   若しかするとリストラ対象になるやも知れない人々。
   企業の礎となる人々と表現しても良いのでは。
   あるいは将来の窓際族などはそうでしょうか。
   存在そのものが大事?

人罪:いなくても大勢に影響のない人材。
   業績が悪化するといち早くリストラの対象として声が掛かる人。
   重要な役につくこともなく、時には足手まといになってみたり、
   時には責任の伴わない端の仕事を任されるがいなくても
   いくらでも代わりのある人材。


企業の売上の8割は2割の人々が稼ぎ、あと8割の者で2割を売り上げるとはよく言われることです。

余り考えたくはありませんが、やはり人の能力にはそれなりの差が存在するということなんでしょうね。

人は平等だとか、それぞれの力にはそんなに差はないと思いたいのですが。

人間としての尊厳だとか、命の尊さは比べるものでもありませんし、差があってはいけません。

でも、能力、とりわけ仕事をこなす力、能率よく、効率よく、巧みに消化できる力は残念ながら力の差が歴然とあることを認めざるを得ません。

悲しいかな、私自身が人罪の部類に属する人間だから良く理解できます。
時には人の足を引っ張ったり、後をついて行けずに迷惑を掛けるほうですから。

企業は人なりといいます。

結局は勤める社員の力の大小によって、成長したり、萎んでみたりもするものです。

経営者の力を否定するものではありませんが、出来ることは限られますし、環境の整備や社員教育や幾らお金を掛けても基本的な資質は殆ど変わるものではないようにさえ思えます。

人罪を人在へ、人在を人財へ。

少しでも引き上げる努力とそれぞれの力を惜しまず発揮できる職場つくりに邁進するのが管理者、経営者の手腕のようにも思えます。

経営者も追い抜かれないように努力を惜しんではいけません。
経営は心の営みのようにも思えます。
  


Posted by mister_kei0918 at 23:59Comments(0)

2009年02月22日

優しさってどういうこと

優しさってどういうこと

人は人に優しくありたいものです。
それは人間によって、一番心地よいはずだから。

理想を言えば、無償の愛の具現化が優しさという行動、態度になれば最上の事なんでしょうがね。

母親が幼い子供に注ぐ優しさはその典型でしょうか。
最近はそれさえ、見せ掛けだったり、極めて一時的なものであったり、時々悲しい現実を見せ付けられる時もしばしばです。

悲しいことですが。

でも、時にはその優しさは打算であったり、裏返しの心であったり、またそれが袖の下であったりもするものです。

優しさのつくりの憂は「気にかける、心配する、悩み思い煩う、うれえる・・・」。

どうも心の深いところから湧き出る態度や行動が本来の優しさということのようです。

そんな純な気持ちで人に優しくできるといいのですが、つい見せかけであったりわざとらしかったり、しっくり行かない優しさが多いようにも思います。

私だけでしょうか。


『君は自分を称賛する者、自分に優しくしてくれる者、
自分に味方する者だけから教訓を得ているのではないか。
自分を拒む者、自分と敵対する者、自分と議論する者から、
大きな教訓を得たことはないか。ホイットマン』


『自分自身に対する誠実さと他人に対する優しさ、
すべてはこの二つに包括される。孔子』


『自分の欠点を直視し認めることです。
ただし欠点にふりまわされてはいけません。
忍耐力、優しさ、人を見抜く目を欠点から学びましょう。ヘレンケラー』


『人は悲しみが 多いほど 人には優しく 出来るのだから。武田鉄也』


『優しい言葉一つで冬中暖かい。ことわざ』
  


Posted by mister_kei0918 at 17:32Comments(0)

2009年02月22日

人の元気にする言葉

人の元気にする言葉

世の中、人を元気にする人がいると思えば、人を不愉快、不機嫌、元気を消失させる人がいるものです。

その人の持っている雰囲気もありますよね。

どうも会っているだけで、寂しくなるというか、こちらまで元気を失いそうな人。
つい引き込まれそうで、困ってしまいます。

大半の人はそうではないのですが、極めて一部の人です。

言葉まで棘があって、口を開くとグサッと心に突き刺さるような言葉を吐きます。

多分、本人に悪気はないのでしょうが。

周りに人は集まりませんし、寄り付きもしなくなってしまいます。

話しの調子を合わせるためにこちらまで、危険極まりない状態や会話に引きずられてしまうものです。

同じ言葉を使うなら、折角ですから相手が元気になる言葉を使ってあげたいものです。
前向きで明るくて、心から溶け込めそうな。

病人が益々、病気の深みにはまっていくような、
健康な人まで、元気を失うような会話や言葉は避けたいものです。

いきなりあった途端に
「顔色が悪いね!!」
「元気がないね!!」
「会社が上手くいってないの?」
「病気じゃないの?」



元気のない本人はますます落ち込んでしまいます。
同じ言葉を使うのでも、時と場所をわきまえて使うべきですよね。

或いは言葉が口をついて出る前に、もう一度飲み込んで自分に言われたらどのように聞こえるかを確認することが大切なように思います。


『こころは言葉によってコロコロ変わる。
人生にとって最も大切なことはこころのもち方よりも
言葉の使い方です。山崎房一「心がやすらぐ魔法のことば」(PHP文庫)より』


『言葉は銀。沈黙は金。ヘブライ「タルムード」5世紀』


『言葉を明るく、笑顔を明るく、態度を明るく、
そうすれば人脈が広がり、いろんなことを教えてくれる人が君の前にあらわれるだろう。山谷えり子(ジャーナリスト)』
  


Posted by mister_kei0918 at 16:37Comments(0)

2009年02月21日

天才は実は凡才

天才は実は凡才

こんなことを言うと、世に言う天才の方々は
「失礼な!!俺はもともと非凡な秀でた才能を持っているんだ」とお叱りを請うような気もします。

が、私の周りのそれこそ著名な方々、秀でた方々はそれなりに地道な努力を重ねておられるようです。

天才は誰しも最初から天才であるはずはないんだと私は思うのです。

日本から一度に4人の方がノーベル賞を獲得されるという快挙がありました。
失礼ですがどう拝見しても、かけ離れた方々という思いはありません。

やはり、人並みはずれた研究の成果でしょうし、環境に恵まれ、良き師に巡り会い、人と人との深い関係の中で地道な積み上げをされた方々に思えます。

最近では韓国やアメリカでも天才と証せられる子供が出現してますが、やはり人並みはずれた努力をしているようです。

森鴎外さんが19歳で東大を卒業され、軍医として、作家として素晴しい業績を残しておられますが、家柄や津和野という土地柄に恵まれたこともありますが典型的な天才ではないでしょうか。

やはりその陰には弛まぬ努力が大いに潜んでいるようです。

天才とはあたかも天から与えられた如く、地道に弛まず努力をする能力を備わった方のように思えます。

それは私にも、全ての人にも与えられているのですがそれを開花させる引き金や周りの環境、良き師との運命的な出会い、たまたま複合的な条件が重なり合って天才という花を開花させているように思います。

若しかすると、皆さんのお子さんだって条件を満たすことが出来れば古来稀なる天才の誕生となるかもしれません。

或いはまた、知らず知らずのうちに条件が整って本人も知らないうちに天才化していることもあるやも知れないものです。

でも、折角生まれた天才でもそれが自慢の種であったり、うぬぼれが表面化したら、人間として尊敬できなければ、それこそ天才と呼ばないかもしれませんね。

それは悪才、悪知恵の塊、悪徳、悪漢、ひいては悪魔と呼ばれるかも。

天才とは天命に背かずに、人間としての最大限の努力を積み重ねた人。
そうあって欲しいものです。

考えてみると、身近にも天才は存在するものです。


『天才とは努力する凡才のことである。
アインシュタイン』
  


Posted by mister_kei0918 at 11:39Comments(0)

2009年02月19日

汚れ仕事を嫌がるな。若い時ほど!!

汚れ仕事を嫌がるな。若い時ほど!!

とかく若い頃には綺麗な、スマートな仕事を選んでしまいますし、憧れてしまいます。

そんなスマートな仕事、憧れているような仕事の中にも、汚れ部分、つまり人の嫌がるところは存在するものです。

人によっては、同じ部分であっても汚れ部分と思う人、或いはそうでないと判断する人もいるものです。

そうでないと判断する人は、どちらかというとそんな人の嫌がる部分を率先して携わった人のようです。

仕事はきついところ、人が嫌がる部分、汚れ仕事にこそ大事なエキスが潜んでいたりするものです。

楽な部分や誰でもやりたがる仕事は誰でも経験するし出来るわけですから、得るものは一緒でしょう。

ならば、人のしない部分に手をつけてみるのも人生の差別化には持って来いのようです。

無理が祟るといけませんので、出来れば若い頃こそ心がけていると人生に大いにプラスするものがあるようです。

歳を重ねてからは、知力体力ともに減退してますから無理は禁物。

多分、想像ですが若い頃に努力をした人の殆どは、ある程度の年齢に達すると比較的楽に人生を送っている人が多いようにも思われます。

努力をしなかった人に比較すると。

汚れ仕事の経験は、

仕事上の知識、幅広い能力を養うのに好都合、
人の心や思惑を理解したり、垣間見るのにいい機会、

仕事の能率や生産性を探るのにいい材料を提供してくれる、
人としての幅を広げることが出来る、

それが力仕事であれば体力向上に役に立つ、
一つ挑戦する毎に、ハードルの高い次の汚れ仕事も楽になる、

前の汚れ仕事は、次は汚れ仕事ではなくなっていく



夫婦の間でもそうですよね、相手に任すだけではなく辛いことこそ率先して実行する。

親子でも、父親が汚れ仕事でも嫌わずに率先する姿は子供の胸を打ちます。

恋人間でも、綺麗ごとだけでは済まない事を恋愛時代から学んでいると、二人の生涯がきっと尊敬の眼差しに囲まれた家庭を作るようにも思えます。

若い頃は本来の仕事の周りに散在する汚れ仕事でも
厭わず、
出来れば選ばず、
汗を流すことが良さそうです。


『汚れるのが厭ならば、生きることをやめなくてはならない。
生きているのに汚れていないつもりならば、それは鈍感である。
吉行淳之介』
  


Posted by mister_kei0918 at 16:44Comments(0)

2009年02月18日

貧乏性はすぐ所有したがる

貧乏性はすぐ所有したがる

車もそうですし、何でも所有することが心の安寧に繋がっているからいけないのですよね。

家族、特に子供に対してはそう思ってしまいます。

自分の所有物ではなくて、社会に送り出すまでの預かりもの。

自分のものと思っているとつい、幼い子供の心に土足で踏み入るような態度をしてみたり、
辛らつな言葉を吐いてみたり、
自分の気分次第で子供を叩いてみたり、

不愉快な思いをさせてみたり、
親の子離れが出来ていなかったりするものです。


企業もそうです。

創業時は命を投げ打つ覚悟で頑張るわけですから、所有物でも良いでしょうがある程度、業績も安定し社員も増え、お客さんも固定化してくるとやはり会社に対する経営者の感覚も変わっていかないといけないようです。

会社は当然、社員、株主、お客様、社会のものへと変化すべきでしょう。

そうなることが際限なく弛まず成長してゆく大きな力にもなるようです。

経営者のものであるうちは、業績や収益性が頭うちになってみたり、公私混同や永続性を失ったりあまり良いことはなさそうです。

社員の造反を生み出す原因になったりもします。

私などは貧乏性ですから、自己所有にいつまでも拘るほうです。

ですから、いつも自分との葛藤の連続となってしまいます。

また、公と私の狭間にあって揺れ動く思惑に翻弄されてしまいます。

自分のものと思えば、つい我侭も出てしまいますし、感情的にもなってしまうものです。

「賢者は共有し、愚者は占有する」

余り、独占欲が強すぎたり、執着心に取り付かれるとロクな事はないようです。

恋愛でもそうですよね。
むしろ、恐ろしくて逃げ出したり、気味が悪かったり、高じると恋愛感情まで吹き飛んでしまいます。

お互いが共に所有するものと見方を変えてしまえば、気持ちも楽になりますし、物事の冷静な判断も働くような気が致します。
  


Posted by mister_kei0918 at 23:07Comments(0)

2009年02月18日

つい太っ腹になるととんでもないことに

つい太っ腹になるととんでもないことに

太っ腹というと、つい自分の腹回りに神経が走ってしまいます。
若い頃はそうでもなかったのですが、特に40歳を越えた頃から少しづつサイズが大きくなってきました。

決して楽をしているとか、苦労をしていないとかではありませんが。

運動をしないこと(時々山登りはしてましたが)や、
外食特にパーティ食などが多いこと、
ビールが好きなこと、
幾らか精神的な落ち着きが出てきたこと、
人の視線を気にしなくなったこと、
少し、緊張感が持続的ないとか、少なくなった?



一時、メタボ状態に成りつつありましたが、ここ8ヶ月くらいで10キロちかい減量をしました。
久しぶりに会う友人からは、「痩せたね、ダイエット?」等と聞かれてしまいます。

中には「もうこれ以上痩せたら駄目!!」などと叱られてみたりも。

実はその話しではなくて、政府の緊急経済対策のことだったのです。

折角、上手く借りたのはいいのですが、つい太っ腹になって、気持ちまで大きくなり贅沢三昧をする知人がいるからです。

辛抱していた博多の中洲参りまで始める始末。

人はつい緊張感が無くなると他人のお金も自分の懐も区別がつかなくなるものです。

人の金であればこそ、大事に使わないと結局はおかしいことになってしまいますし自分の信用を損ない、或いはそのことによって挫折の憂き目を味わうことになるかもしれません。

お金は不思議なもので、人を誘惑に誘い込む魔力を秘めています。
使い方を誤ると奈落の底にだって引きずり降ろしてしまいます。


『金がないから何も出来ないという人間は、
金があっても何も出来ない人間である。小林一三』


『金を失うのは小さく、名誉を失うのは大きい、
しかし勇気を失うのはすべてを失う事。チャーチル』


『金は良い召使いでもあるが、
悪い主人でもある。ベンジャミンフランクリン(アメリカの政治家)』
  


Posted by mister_kei0918 at 10:02Comments(0)

2009年02月16日

苦しい時は神頼み!!

苦しい時は神頼み!!

世情が荒々しくなったり、身の回りに波風が立ち始たり、身の置き場がなくなりそうだと人は誰しも、助け船を求めてしまいます。

今のように経済の混迷が激しく、行く末が案じられると尚更のこと、「神様、どうにかしてください」と懇願したくもなるものです。

今までの景気の動きとは明らかに違うような気がします。

専門家でもありませんし、過去の景気の動向をつぶさに見たわけでもありませんし、それほどの年齢でもありませんが。

こんなに急激に襲ってくる経済の急降下は初めてではないでしょうか。
100年に一度の危機だと叫ばれます。

一昨年の7,8月ごろにアメリカのサブプライムローン問題が表面化し、金融の世界が慌ただしく動き始めたのは気づいていましたが、実感として日本で感じ始めたのは昨年の10月頃でしょう。

今朝の経済ニュースなどを見ているとどうもイギリスがポンド安や株安、企業の危機的状況が混迷を深めているようです。

イギリスもアメリカと同様、金融に随分と傾注してましたから大変なことになることの想像は容易に出来ます。

リーマンブラザースの破綻が現実問題として眼前に現れた時に初めて、その大変さに驚いたものです。
それを境に日本国内でも急激な動きが表面化してきました。

日本政府が緊急経済対策として2兆円の融資枠を設けて、募集してますが、大いに利用すべきだと私は考えます。

当然、やせ我慢はいけません。当然お世話になるべきでしょう。
また、若干のゆとりがあっても融資を受けておいてはどうでしょうか。

普段、雇用を守り、社会貢献に勤しみ、
税金もしっかりと払い、コンプライアンスをしっかり守り、
社会に有用な製品や商品、サービスを提供し続けたのですから。

人によっては金利を払うのがもったいないとか、返さないといけないお金など借りたくない向きのあるかも知れません。

でも、今後経済はますます混迷を深めるのは誰が判断しても分かっています。
であれば少しの金利くらいは払うことにして、備えておくことの方が賢い経営ではないでしょうか。

全くそんなことを頭の片隅にも置いておく必要性すらない企業や経営者は別ですが。

「備えあれば憂いなし」。

そのことがまた全力投球して経営に勤しむ事が出来る経営者としての配慮であり知恵なのかもしれません。

「苦しい時の神頼み」であっても良いし、急場の資金繰りの足しでなくても来るべく成長の為の備えや研究、教育の為に資金の確保という考えでも良さそうです。
  


Posted by mister_kei0918 at 14:46Comments(0)

2009年02月15日

歳の精なのか、ついに自然に溶け込む術を覚えたか

歳の精なのか、ついに自然に溶け込む術を覚えたか

最近、季節の変動に敏感になってきた自分を感じます。
どうも、年齢の精なのかと思ったりもします。

今日は大宰府へ出かけました。
国立九州博物館と太宰府天満宮。

目的は梅の花、というより梅の香りを求めてというのが正直なところ。

国立九州博物館の後方の駐車場の入り口のある梅園と、
太宰府天満宮本殿後方の梅林、久しぶりに最も奥にあるお石茶屋や遂道まで見てきました。

風下に立った時のかすかな梅の香りは何とも言えません。
「もう春はそこですよ」と囁いてくれているようです。

一昨日には春一番も吹いたし、黄砂は飛び交うし。

何度となく、梅の観賞には出かけてますが最近は鑑賞だけでは飽き足らなくなってきたようです。

歳の精もありますが、多分精神的な落ち着きや少しばかりのゆとりがそうさせているのでしょうか。

人はこんなことを重ねながら、ついには自然の中に戻っていくのかと思いを先に馳せたりもしているものです。

悲しくのあり、楽しくもあり、少しの期待もあり。


『一所懸命に働いているものには、決して歳をとるということはない。
私は、自分の葬式の日をもって、人生からの引退の日とする。エジソン』


『歳月は、元来、長久なものであるが、気ぜわしい者が、自らせきたてて短くする。
天地は、元来、広大なものであるが、心根の卑しい者が、自ら狭くする。
四季は、元来、のどかなものであるが、あくせくする者が、自ら煩わしいものとしている。菜根譚』
  


Posted by mister_kei0918 at 22:25Comments(0)

2009年02月15日

福岡の女性はやはり綺麗だった?

福岡の女性はやはり綺麗だった?

私の以前のブログにも書いたことがあります。
「福岡は美人が多い」と。

私が福岡に住んでいるからそれこそ大変な身贔屓をしていると叱られそうですが、それはどうも私だけの一方的な思い込みではないことは自信を持って言えることでした。

特に昼の天神界隈、夜の中洲に出てみると実証できること間違いなしです。

この度、14日の西日本新聞の1面記事を見て、改めて強ち私の身贔屓ではないことが実証されて嬉しく思っております。

福岡の女性のファッションについても良く語られます。
東京のファッションも翌日には福岡で流行っていると。

「福岡の女性はキレイ?」の記事。

財団法人福岡アジア都市研究所が総務省の「家計調査年報2005~2007」のデータを研究した結果がその証明をしてくれたようです。

すっかり納得してしまいました。

1世帯当たりの「美」を追求する為の支出。
化粧品  1位
女性服  1位
女性シューズ・ソックス  1位
女性下着 1位
花    1位
頷けます。

また、女性10万人当たりの美容室の店舗数も突出、
ネイルサロンやエステティックサロンの数も同様のようです。

私が、持っていた勝手な持論「福岡は美人が多い」が的中したことと、しっかりした裏づけがデータとして裏づけされたことに安堵し、まんざらでもないなと自負したりしております。

福岡の女性たちを美に誘い込む本当の原因を探りたくもなるのは私だけではないかも知れませんね。
特に男心としては。

穿った言い方をする向きには「そのデータが美人が多いという証左にはならないだろう」と囁く声が聞こえるような気がしないでも有りませんが。

若しかすると、福岡の男性がそうさせているのかも知れませんしね。

それと相まって、心優しい女性が多いことで日本一になってくれると男としては益々住みやすい福岡になるのですが。

余り贅沢を望むのは贅沢というものかも。
  


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2009年02月15日

春一番と宮崎行き

春一番と宮崎行き

13日は久々の宮崎行きでした。
昔若い頃から、高千穂の峰だとか、えびの高原だとか、白紫池でのスケートだとか、懐かしい思い出の宮崎ですが、本当に久々です。

子供たちが小さい頃は青島や日南方面へもたびたび足を運び、宇土神社やサボテン公園も懐かしい場所です。

新しい知事が誕生し、大いに宮崎を売り出しては頂いてますが、どうも足だけは向かってくれませんでした。

13日の夕刻から宮崎観光ホテルで九州地区の業界の役員会議と懇親会が開催されました。

午前中の福岡市はまさしく突風の吹き荒れる朝でした。
平年からするとだいぶ早い春一番の到来です。

幟は激しくはためいて、鉢植えの花木は横倒し。
ただでさえ埃の舞う季節に加わって、中国の黄砂まで飛んでいます。

宮崎へ向かう高速道路の風の強さが気になりますが、時間は比較的ゆっくりありますから急ぐことはありません。

懇親会が終わったら、夜の宮崎に繰り出すようになっていますから大いに楽しみです。

私の部屋はツインベット。
一人で使うにはもったいないですが仕方ありません。どうせなら妻と一緒だと良かったのにと思わないでもありません。

カーテンを開けた真正面、足元といっても良いくらいに大淀川が目の前です。
対岸はマンションが数棟で見渡しは十分ですし、気持ちが安らぎます。

朝までカーテンを開けたままで寝入ってしまいました。
寒さで目が覚めたのが午前4時半。

14日の会議で話す内容を頭の仲に纏めて、また寝入ってしまいました。
  


Posted by mister_kei0918 at 11:03Comments(0)

2009年02月13日

礼節は夫婦から

礼節は夫婦から

人は新しいこと、大切な事を教えていただけます。

一昨日、ある方のお話を聞いてましたら、
「礼は夫婦を慎むに始まる」
という言葉を教えていただきました。

今までは、家族や比較的近い人と一つ屋根の下で生活をしていたのですが、結婚を機会にして全く氏や素性、考え方や価値観の異なる異性と生活を始めます。

つまり、「人は本当の礼節は夫婦の間で学びあい、確認し、覚える」とでも言うことでしょうかね。

恋愛時代はお互いの良い所しか見えませんし、
しかも殆どを美化してみたり、

本来は許してはいけないことも許してみたり、
見過ごしたり、
見ない振りをしてみたり、

見ていてもブラインドが掛かっていたり、
或いは冷静な判断を忘れていたり、



ところが結婚生活の始まった後から、相手が豹変したとか、
自分の事だけに終始して私や子供のことを構ってくれないとか、

一緒に遊びにも連れて行ってくれない、暴力が耐えない、
一方的な発言ばかりで耳を貸してくれない、

お金を自由に家計に使わせてくれない、
私の家族と付き合ってくれない、

ちゃんと仕事をしてくれない、
子供の面倒を見てくれない、

私を自分の私有物と思っている、


こんな話しをしてくれます。特に女性から。

夫婦だからこそ、礼節が必要なんですよね。
お互いを尊重しあう心、思いやり、存在の大きさや大切さ、
お互いから学ぶことの多さ・・・

相手の心に土足で踏み込むようなことは決して許されることではありません。

結局は子供にも影響が出てきます。
だって、子供は親を写す鏡ですから。

あなたはどうなの?と問われそうですが大いに反省しています。

昔からこんなことを言われました。
「衣食足りて礼節を知る」

「親しき仲にも礼儀あり」

「形から入って心に至る」


外国には
『礼儀正しさはひとを飾り、しかも金はかからない。イギリスのことわざ』

『礼儀は魅力もあれば利益もある。エウリピデス「ヒッポリュトス」』

『人はくだらないとして礼儀作法をおざなりにするが、善人か悪人かを礼儀作法で決められることがよくある。ラブリュイエール』

『どのような防御も礼を尽くすことには及ばない。エドワードルーカス(作家)』
  


Posted by mister_kei0918 at 07:51Comments(0)

2009年02月11日

季節は廻る、三寒四温の日々

季節は廻る、三寒四温の日々

昨夜は博多駅前のホテル日航でのある団体の総会、懇親会でした。

久しぶりに会う友人から「○○さん、少し痩せたね」。
嬉しい言葉です。

或いは「○○さん、ダイエットしたね。細身になったよ」と言って頂けるともっと嬉しかったのですが。

意識的に落とした体重が、そのような言葉を導き出したのかと思うともっと頑張ろうと気持ちが引き締まります。

それを言うと「もう、それ以上落とさないほうが良いよ」などとも言われてしまいます。

今朝も6時ごろから大濠公園のウォーキングを家内と二人でして来ました。
実はダイエットの一番の立役者はこのウォーキングです。
間食をしないとか、満腹食べないとか・・・いろいろありますが。

もう梅が満開です。

櫻の蕾も、銀杏の木も春を待ちわびているのが目に見えます。

梅林で有名な舞鶴公園・福岡城址までついでに足を伸ばしました。
妻の申し入れです。

多分、早朝のニュース番組に放送したのでしょうか。地元のテレビ局が取材を終えた後片付けを急いでました。
多分、全国に満開の梅を中継したと思われます。

あれだけの梅の数ですから、当然素晴しい梅の香りです。
花の状態からするとあと数日の花の命ではないでしょうか。

最近の気候を見ていると、昨日あれほど風や雨に悩まされていたのに今日は素晴しい天気に恵まれたり。

気温の変動も激しくなってきました。

まさしく三寒四温。
確実に季節は移り行くようです。

そのうち「啓蟄」という言葉が耳に届きそうです。
  


Posted by mister_kei0918 at 18:43Comments(0)

2009年02月11日

あんなに正社員になることを勧めたのに

あんなに正社員になることを勧めたのに

数年前、当社にも派遣社員が来てくれてました。
人手が不足していたもので派遣会社にお願いをして、女性を派遣していただいたのです。

今、非正規雇用の方々の派遣打ち切りや契約破棄が続いています。
大変な社会問題へと発展をしております。

景気はこれ以上に深刻な状況のなることは私のような素人経営者だって想像ができます。

となると当然、非正規雇用の方々の問題ではなくなってくることは目に見えております。

もう、社員のリストラや希望退職の募集、新規採用のストップ・・・

設備投資の中止や削減、工場閉鎖・・・に留まらず破産や倒産も日常的に耳にするようにもなって来ました。

働いている方の中には戦々恐々と、或いは不安な日々を送っている人も多いのではないでしょうか。

実は彼女に正社員になることを勧めたのです。

その当時の話です。

「今は景気がいいから、特に派遣でもいいかもしれないが景気がおかしくなると当然派遣や契約社員から契約解除をするから、出来れば正社員になったらどう?」

「いつまでの派遣の状態でいると、厚生年金や健康保険、退職金の問題など将来困った問題に派生するかもしれないよ」

「とぎれとぎれの勤務では仕事上で得られる貴重な人間関係も作れないでしょう。長い人生なんだから仕事で培う人間関係も素晴しいものだよ」

「正社員になって、もっと君の能力を発揮してもらえないか」

何回か、そんな話しをしたことがありました。
でも、聞き入れてはくれませんでした。

その後、どうなったかは推測の域ではありませんが、幸せであって欲しいものです。

考えようによっては私の話に乗って正社員になって幸せだったかどうかはわかりませんよね。

それは彼女自身の判断にゆだねるわけだから。
また、彼女自身の人生ですから。

もし、彼女に不測の事態が生じていたとしたら、せめてもの雨宿りくらいにはなったのかも。
  


Posted by mister_kei0918 at 16:50Comments(0)

2009年02月09日

引き金は既に引かれていた

実は蓋を開けてみたら、誰でも想像できたこと?

一昨年の夏のアメリカ発のサブプライムローン問題は、対岸の火事と踏んでいたのです。

まさか、太平洋を越えて日本まで影響するとは誰も思わなかったことです。

日を追う毎に、火の手は大きさを増し、火の粉どころではなくなってしまいました。

ヨーロッパの金融や経済も破綻に近い状態、
東アジアの高度成長を誇ってきた国々も減速を始め、失業者は溢れ始め、企業は破綻、株は暴落・・・

日本とて、昨年の10月から飛んでもない事態を迎えています。

大手企業が様々なリストラ策や設備投資の中断、工場閉鎖、給与の削減・・・取れる方策の限りを尽くして喘いでいると言っても過言ではないでしょう。

端を発したのはアメリカ発のサブプライムローン問題ですが、いずれ早かれ遅かれこの様な事態は世界経済の根底に潜んでいたのは間違いがありません。

汗を流して働くことを否定し、金が金を産むシステム自体が限界を向かえ、破綻を迎えるべくして迎えたということでしょうか。

不思議な金融システムが横行していたのです。

何か、可笑しいとは思っていたのです。

破綻したローンは結局払えない所得層に住宅を持たせようとするシステム。
引き金は既に引かれていたようにも思えます。

サブプライムローンを考えた人々、関わった人々、或いは斡旋した人間、購入した人々、ローン会社、銀行・・・

凡そ、破綻もあることを頭の片隅には過ぎっていたのではないでしょうか。

破綻してみたら、「あ、やっぱり」、「そうなるような気がしていた」などということが今頃囁かれているのではないでしょうか。

案外、私どもの身近にもそんな事態はかなり存在するような気がします。

そうなる事が予想されているにも関わらず、問題視しなかったり、備えを怠った為に飛んでもない事態に陥ってしまうこと。

口に出して言わないけど「若しかするとそうなるのではないか」と訝ったこと。  


Posted by mister_kei0918 at 22:29Comments(0)

2009年02月09日

実は蓋を開けてみたら、誰でも想像できたこと?

実は蓋を開けてみたら、誰でも想像できたこと?

一昨年の夏のアメリカ発のサブプライムローン問題は、対岸の火事と踏んでいたのです。

まさか、太平洋を越えて日本まで影響するとは誰も思わなかったことです。

日を追う毎に、火の手は大きさを増し、火の粉どころではなくなってしまいました。

ヨーロッパの金融や経済も破綻に近い状態、
東アジアの高度成長を誇ってきた国々も減速を始め、失業者は溢れ始め、企業は破綻、株は暴落・・・

日本とて、昨年の10月から飛んでもない事態を迎えています。

大手企業が様々なリストラ策や設備投資の中断、工場閉鎖、給与の削減・・・取れる方策の限りを尽くして喘いでいると言っても過言ではないでしょう。

端を発したのはアメリカ発のサブプライムローン問題ですが、いずれ早かれ遅かれこの様な事態は世界経済の根底に潜んでいたのは間違いがありません。

汗を流して働くことを否定し、金が金を産むシステム自体が限界を向かえ、破綻を迎えるべくして迎えたということでしょうか。

不思議な金融システムが横行していたのです。

何か、可笑しいとは思っていたのです。

破綻したローンは結局払えない所得層に住宅を持たせようとするシステム。
引き金は既に引かれていたようにも思えます。

サブプライムローンを考えた人々、関わった人々、或いは斡旋した人間、購入した人々、ローン会社、銀行・・・

凡そ、破綻もあることを頭の片隅には過ぎっていたのではないでしょうか。

破綻してみたら、「あ、やっぱり」、「そうなるような気がしていた」などということが今頃囁かれているのではないでしょうか。

案外、私どもの身近にもそんな事態はかなり存在するような気がします。

そうなる事が予想されているにも関わらず、問題視しなかったり、備えを怠った為に飛んでもない事態に陥ってしまうこと。

口に出して言わないけど「若しかするとそうなるのではないか」と訝ったこと。
  


Posted by mister_kei0918 at 22:16Comments(0)