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2009年06月30日

見事に喜びに変えてしまいます

久しぶりの涙笑い

涙が出るほど可笑しくてたまらないことを「涙笑い」といいます。
若い頃にはそんな頃もあったような気がします。

さぞかし、若い女の子なら「箸が転げても可笑しい」という表現をしますがそれの極め付けでしょうか。
笑いすぎて、顔の表情はくしゃくしゃ、涙でぐしょぐしょです。

笑うことは心身の健康に素晴らしい効能があるようですから、日常的に笑っていたいものですが、そういうわけにもいきません。

でも、そういう中でも私自身は友人や先輩たちから「いつも笑っているね、素晴らしいね」とは良く言われます。
内心穏やかでないことも結構多いのですが。

笑いの考察を拾ってきました。

笑顔の表現・・・笑顔、爆笑、大爆笑、苦笑、失笑、冷笑、照れ笑い、微笑、愛想笑い、空笑、嘲笑、憫笑、哄笑、・・・・・

笑顔の種類・・・含み笑い 薄ら笑い せせら笑い 作り笑い 苦笑い 思い出し笑い 独り笑い 高笑い 馬鹿笑い 追従笑い 貰い笑い 誘い笑い

昨日は久しぶりに涙笑いを経験しました。
家内と創業時の話をしていたのです。

私自身はあるコンピューターメーカーからの起業でしたので今の仕事の経験は全くありませんでした。

仕事の中身も良くは知りませんでしたし、
技術的なことも全く無知、
営業もどうして良いのか分かりません、

顧客もありません、
仕入れを何処からしたらいいのかさえ知りません、
当然、経営など全く経験なし、

銀行との付き合い全くなし、
当然、業界の人も全く知りません、
人を使うなど、したこともありませんし、

増してや労務管理など、



「そんなことでよくも商売が出来たね」、
「あんなことがあった、こんなこともあったね・・・・・」

二人で思い起こしながら、涙笑いになってしまいました。
創業時 過酷な経験、想像を絶する経験をしたのですが、時はそれを見事に喜びに変えてしまいますし、涙を流して笑うほどに滑稽化してしまいます。

「終わり良ければ全て良し」ではありませんが、言わば今日のこの結果を招くために過去の全ては存在していたような気がしないでもありません。

涙は全てを洗い流してくれる作用と良き思い出として倍加する作用を併せ持っているものです。


『気持ちが萎え、ときには涙することもあった。
だが、涙を恥じることはない。
この涙は、苦しむ勇気をもっていることの証だからだ。フランクル』  


Posted by mister_kei0918 at 17:05Comments(0)

2009年06月29日

今は自殺者が3万人を越える

最後は運を天に任せる想い

何処まで努力すれば、明るい兆しは見えるのか。
いつまで頭を悩ませば運は開けるのか。

どれにも分かりませんし、結果として運が開けるのか、好転するのかさえ想像できません。

中には過去の経験値に当てはめて、
大よそ、想定の範囲内に収まり方向性がつかめるものもありますが。

苦しんだり、悩んだりいよいよの所まで努力を重ねるのは大事なことですし、それを避けては物事の好転もありませんし、開けるはずの運さえも取り逃がしたりも致します。

私自身が究極のところまで追い込まれたことがありませんので、想像で語るのですが人は極限になると生とか命とか、或いは家族とか財産とか、しがらみとか・・・・・

そういう俗的なものから遊離?するのではないでしょうか。

そこまで至る前に人は「運を天に任せる想い」が働かないといけないと思うのです。
今は自殺者が3万人を越える状況になっております。

私も友人の数名を自殺で失いました。
至って悲しいことです。

様々な形があるでしょうから私ごときが憶測をすべきことではありませんが、失った友人たちの最後の姿からはそんなことを思い起こします。

人は悩むことから逃避してしまうと、結局は悩みの中に埋没をしてしまいますし、結局は如何ほどの解決にもなっていないことに気づくものです。

いよいよ人間として弱い方向へ弱い方向へ引きずられてしまいます。

人の心はそれぞれに耐えられる悩みの強弱はあるものですが、「最後は運を天に任せる想い」に至ることが大切なようです。

他人の悩みを見ていて「まだ頑張れる、まだ頑張れる」と他人は思いがちですが、その判断はあくまでも個人のものでしょうし、燃え尽きる前に天に任せる位の器量が大切なようです。

それは諦めてしまう、匙を投げることとは大よそ異なることです。


『どんな困難な状況にあっても、解決策は必ずある。
救いのない運命というものはない。
災難に合わせて、どこか一方の扉を開けて、救いの道を残している。
セルバンテス』


『すべての不運や、つまらぬ物事に対して、上機嫌にふるまうことである。
上機嫌の波はあなたの周囲にひろがり、あらゆる物事を、あなた自身をも、軽やかにするだろう。
アラン「幸福論」』


『強い人間は自分の運命を嘆かない。ショーペンハウエル』  


Posted by mister_kei0918 at 18:19Comments(0)

2009年06月28日

他の視線など邪魔なだけ

世界一愛されているという実感

つい先日、3人目の孫が生まれました。

嬉しいですね。有り難いですね。
命の続きを感じます。

彼らがすくすく育ってくれるのでれば、私に出来ることはして上げたい気分です。
祖父祖母の気持ちってそんなものかもしれません。

両親は大変ですよね。

私も妻と二人で(というか子育てのほとんどは彼女がしたのですが)していた子育て時代はそれはそれは必死でした。

丁度、子育てとともに事業に取り組みましたので当時は夜も昼もない時期が平行して続いたものです。

妻にも申し訳なかったし、子どもたちに対しても十分な愛情を注ぐことも出来ず申し訳なかったと大いに反省しております。

有り難いものです。

そういう中でも子どもたちはすくすくと健康に育ってくれました。
彼らは私に取っては人生の同伴者と思うほど素晴らしく育ってくれました。

自分の事を振り返ってみると、それはそれで素晴らしい人生なんです。
いろんなことはありましたよ。
人の経験しないことや、人生を捨てたくなったことも。

それは一般の人々がそうであるように
両親に恵まれて、
経済的にも中くらいで、
独りでも兄弟がいて
体も健康で、


であればあと少しは増しな人生だったとは思います。

今と違った人間に出来上がっていたでしょうし、あと少しはまっすぐな心持ちだったかもしれません。

孫たちには是非是非そうあって欲しいものです。
「“誰かに世界一愛されている”という実感」の中ですくすくと育つ環境であってほしいものです。


恋人たちの様子でもそうですよね。

お互いに世界一愛し合っている二人の眼差しは他の視線など邪魔なだけで、幸福の絶頂に浸りきっているものです。

長いこと連れ添った老夫婦の姿にも時々そんな姿を見受けることがあります。

こんな言葉を拾ってきました。(本人に失礼かな)


『子供たちがのびやかにすくすく育つために必要なのは、
理路整然としたルールや整備された環境ではなく、
実は“誰かに世界一愛されている”という実感なのではなかろうか。』  


Posted by mister_kei0918 at 16:04Comments(0)

2009年06月27日

「口ほどにもない奴」

身の程、身の丈をわきまえる

自分の身の程や身の丈を常に見極めようとしたり、意識をして行動する人は案外、
心の動揺が少なく、
自身の葛藤の度合いも弱く、
他人との諍いも少ないように思えます。

自身の現実の姿を過大評価しすぎたり、或いは卑下にも近いほど過小評価をする人、或いはしがちな人といったほうが良いでしょう。

中には自身を見極める力や能力のない人もいるのかもしれません。

いずれにしても自分自身を正しく評価できないが為に、自身が苦しんでみたり、自分で墓穴を掘ったり、他人との関係がうまく調和できなかったりするものです。

私はどちらかといえば、自分を極めて低く評価してしまうタイプ。
オーバーな言い方をすれば卑下、卑屈。

実は本来の思いは逆で人に正しく大きく評価して欲しい要求は強いものがあるものです。

が日常の態度としては、
出来るだけ人前には出ない、
先頭に立とうとしない、
議論も控えめ、
すぐ譲ってしまう、


消極的な人の鏡、悪い意味での鏡みたいなものですね。

余り、表に出たがる人も困り物ですが。
「口ほどにもない奴」などがそうでしょうか。

それも自分の身の程や身の丈を知って対処するならいいのですが、困るのは自分の能力を知らずして人の上に立ったり、仕事を引き受けられると困ったことになるものです。

余分なことをし過ぎるが為に関係をこじらせたり、逆に期待ほどの結果が出せずにトラブルの原因になったりして。

出来れば自分の身の程、身の丈をそこそこわきまえていて、控えめであるくらいが丁度良いかもしれませんね。  


Posted by mister_kei0918 at 18:20Comments(0)

2009年06月26日

「慌てる乞食は糞を掴む」の如く

理不尽な事は許せない、でも。

世の中、腑に落ちないこと、
納得できないこと、
許せないこと、
どう考えても理不尽なことがあるものです。

ほとんどのことはそうではないのですが。

でも、それに対して目くじらを立てていいことと、知らぬぞんぜぬを貫かなくてはいけないこと、無視を決めねばいけないこと、色んな事象が想像されます。

人の命に関わること、
人間の尊厳に関わること、

社会に迷惑の及ぶこと、
周りに損失を与えてしまうこと



などなどの時には勇気を振り絞って対抗したり、目くじらを立てたり、抗議をしたりしなくてはいけませんよね。

少々の犠牲が伴っても。

それ以外のとき、自分だけに被害が及んだり、或いは余分な詮索でそのように感じるときにはどうも辛抱したほうが今後の展開はうまくいくような気がします。

自分が正しいと思っても。

「物言わぬは腹膨るる技」とは昔から言いますが、時と場所、相手、事の成り行きや展開が読めないときにはむしろ冷静に自分を抑える方向に努力したほうが懸命なようです。

珠にはそれで悔しい思いも交錯したりはしますが、自分の身を一歩引いて、判断を早まらないこと。

今までも様々な事象にぶつかってきましたが、「急いては事を仕損じる」「慌てる乞食は糞を掴む」の言葉の通りであり、一呼吸置くくらいの心のゆとりこそ、人を勝利に導いてくれるものです。  


Posted by mister_kei0918 at 21:05Comments(0)

2009年06月26日

横槍や物事を成就させまいとする行為

くじけない、いじけない、くさらない

長い人生は何処までくじけないで頑張れるかの勝負のようにも思えます。
人生至る所で挫折を味わったり、悔しい思いを経験したりするものです。

人は誰でも、目標を立てたり、目的に向かって努力することを誓うものです。
誓う相手は自分であったり、他人であったり、或いは神様や仏様であったり。

立てた目標目的を実践・努力する前から諦めたり、忘れたりする人もいますがそれはもう言語道断でしょう。

少なくともせめて一歩くらいは踏み出してみたいものです。
人はその一歩で深いものを獲得したり、かすかな経験として意義深いものとして役に立ったりも致します。

人はくじけない決意を固めることで、物事に動じてはいけないとか、人の言動に勝手に左右されないとか、自滅をすることにある種の恐れを覚えたりするものです。

出来れば物事は最後まで全うできることが大事ではありますが、諸事万端、全てがうまくいくもので間ありません。

でもくじけない想い。それを体にしみこんだものとしてもち続けられるか、大事なポイントのようです。

私などの性格はすぐにいじける癖があって困ります。

本来はもっと広大な心や懐を持ち合わせているといいのですが。
しゅんとなった気持ちを立て直すことが出来なくて物事への態度がつい消極的にもなってしまいます。

ついでに、そうなると心まで腐ってしまいます。
一度、腐った心は容易には回復はしませんし、ついには奈落の底です。

立ち戻るには余程のエネルギーを要してしまうか、そのままになってしまうか。

物事全てに「くじけない、いじけない、くさらない」のような対処は私のような凡人には不可能なことですが、でも時にはそんな心がまえでぶつかることも大切なようです。

それと加えるとしたら「屈服しない」という対抗的な心も。
横槍や物事を成就させまいとする行為や災いは至る所に出現するものです。

それを跳ね除ける勇気、努力が重なれば鬼に金棒かもしれませんね。
  


Posted by mister_kei0918 at 13:10Comments(0)

2009年06月24日

浮気心の人もいて

もっと知りたいと思うこと

日頃から研究課題を持って、研究に勤しむ人は何処まで行っても執着地点は見つからないはずです。

他人からみると、もうそこまで知っているのだからそれ以上は追及しなくても良いのでは思いたくなることでも本人にしてみると、まだまだ果てしない道のりの入り口でしかないものです。

講じると身なりや身の回りのことまで頓着がなくなるものです。

大学の教授などが、没頭しすぎて時間を忘れ、食事を忘れ、寝る時間を惜しむ人がいますが、何となく判るような気がします。

恋愛でもそうですよね。
熱烈な恋愛を経験した人に限ってそうだったことを思い起こすものです。

彼女のことを確かに知り尽くしている筈なのに、爪の垢ほどにしか知らないとジレンマに襲われたりするものです。

不思議なもので、人は興味を持つものに対しては貪欲なほど深みにはまったり致します。
ですが、他動的な影響や時間や金銭の働きかけで、挫折の憂き目を見てしまいます。

その影響を排除してまでも、根気良く、地道に、真剣に打ち込めるかどうか。
そこが天下分け目のような気がするのです。

元来、浮気心の人もいて、同じところに止まることを生来許さない心持の人がいるのも事実ですが。
所が世の中で大成している人の大方は、一つのことに集中的に真摯に脇目を振らずに努力を重ねた人には叶わないようです。


『深く探求すればするほど、知らなくてはならないことが見つかる。
人間の命が続く限り、常にそうだろうとわたしは思う。
アインシュタイン』  


Posted by mister_kei0918 at 22:11Comments(0)

2009年06月23日

物臭な男どもにとっては気にはなることですから

『一無、二少、三多』

一瞬、何事かと思ってしまいます。
意味不明ですよね。

最後まで読んでいただけば大いにお役に立てるかも。
私自身もメタボリック手前状態でしたので、その手の記事には眼を見開いてしまいます。

今では、約8キロの減量に成功しましたので一段落はついていますが、どうも卑しい性格は直りそうにはありません。

食べ物は満腹食べたい、
運動は出来ればしたくない、
食べた後は横になっていたい、
テレビは見放題、
家事のほとんどは家内頼み、
風呂はカラスの行水、


まるでぐうたら亭主の見本のようです。

それでいて、病弱にはなりたくありませんし薬のお世話にもなりたくないものです。
また、不健康で周りから嫌われたくもなく、身勝手な満足を求めているようです。

そんなときにこんな記事に接しました。
多分私に似たような中年おじさんが多いと思われますので、ご参考に!!

と言いながら先ほどの話ではありませんが、物臭な男どもにとっては気にはなることですから一読はしますがどうせまた元の木阿弥になることは知れています。

でも記載しますね。


『日本人の健康習慣には、「一無(無煙)、二少(少食・少酒)、三多(多動・多休・多接)」が最適-。

東京慈恵会医科大総合健診・予防医学センターの和田高士教授が7年間、人間ドックを受けた約9500人を追跡調査したところ、日本生活習慣病予防協会理事長、池田義雄氏の提唱する健康習慣が、従来の健康習慣と比べてメタボリックシンドローム(内臓脂肪症候群)の発症をより効果的に減らすことが分かった。

調査結果は5月、日本内科学会の英文誌「INTERNAL MEDICINE」にも掲載された。(大串英明)(産経新聞)』  


Posted by mister_kei0918 at 18:34Comments(0)

2009年06月22日

生き馬の目を抜くとまで言われる企業間競争

人との差別化?

今は当然のように使われています。
或いは当たり前のように口をついて出るようになってしまいました。

何か、この言葉の響きに何となく違和感が生じるのは私だけではないでしょう。

所謂、他の人との差別、他社との差別、他団体との差別・・・・・

経済用語の一つとして出てきた言葉でしょうが、つまるところ差別化することが公然化する、当たり前になることは本来は怖いことです。

差別があって当然とし、或いは意識的に差別化を図ろうとする考え。
生き馬の目を抜くとまで言われる企業間競争、
安閑としていられない時代、他社への配慮などする余裕の無い社会情勢や経済情勢になってきました。

人のことまでいちいち構っていられない状況です。
或いは他の企業のことまで、気にする精神的なゆとりも失いつつある時代です。

場合によっては他の企業を蹴落としてまで、生き抜かねば難しい時代でもあります。
品質やサービス、資本、人的な能力・・・・・など、他社との差別化を計らないことには存続の難しい時代、生き延びることさえ出来ない時代になりました。

それがひいては人との差別化へと写っていくとすれば恐ろしいことです。

表面上は経営の差別化、事業の差別化とは言いながら、結局は個人の差別化、能力の差別化へ添加していくことを恐れるものです。

本来の差別化は自分との差別化であって良い筈なんです。
或いはその企業自体での差別化。

昨日までの自分と今日の自分。
昨日までの自社と今日の自社。

どのように成長したのか、していないのか。
他と比べての差別化ではなくて、自分の過去と比較しての差別化。

それは楽しみでもあり、意義深いことです。  


Posted by mister_kei0918 at 23:21Comments(0)

2009年06月22日

恋をせぬ昔がかえって恋しかろ

心の奥底を揺さぶるようなこと

夏目漱石さんの「草枕」を久しぶりに思い出しました。

『智(ち)に働けば角(かど)が立つ。
情(じょう)に棹(さお)させば流される。
意地を通(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ。
とかくに人の世は住みにくい。』

嫌な世の中になってきたような気がしないでもありません。
難しい時代が到来したようにも思えます。
自由といいながら実は窮屈で縛りが多すぎて、少しも自由ではないような思いもします。

上手に世渡りが出来る人にとっては、極めて楽な、笑いの止まらない21世紀のようです。
ある人は「人の心は金で買える」と豪語し、多くの主婦やサラリーマンなどの個人投資家に大変な損害を及ぼし、結局は捕まる結果を招いてしまいました。

以前は、笑うときには腹を抱えて笑い転げたりもしたものです。
苦しいときには、しっかり苦しんでお先真っ暗状態にどっぷり漬かったものです。

今は、適当に苦しみや悲しみから抜け出る手立てを覚えてしまい、お茶を濁す方法まで万人が覚えてしまいました。

また、横からそれをマスコミがサポートまで丁寧にしてくれます。
これでもか、これでもかと。

はらわたの煮えくり返るような経験も最近はすることは無くなりました。
地団駄踏むような悔しい思いもいつ経験したでしょうか。

辛いときには辛抱をすることを知っていました。
今は辛いことに正面から立ち向かうことなく、他のことに上手に方向転換することが素晴らしいことであり、賢いこととされます。

でも、心の奥底を揺さぶられるような経験は、長い人生の中でいつしか真価を発揮するものです。
人を心底から愛する心や、相手の立場を理解する心、命の尊厳や大切さ、人の幸せを望み、慈しむことの重要さ。

人は終生、修行の身とはよく言われます。
行き着くところは見えませんが、心の奥底を揺さぶられるような経験が結局は私自身を人に導いてくれるような気がします。

自分だけが不幸せに包まれているような想いが交錯するときには、乗り越えた暁の満足感や幸福感に満たされた自分の姿を描いてみることが大切なようです。

夏目漱石さんはまたこんなことも書いておられます。

『世に住むこと二十年にして、住むに甲斐(かい)ある世と知った。
二十五年にして明暗は表裏(ひょうり)のごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。

三十の今日(こんにち)はこう思うている。
――喜びの深きとき憂(うれい)いよいよ深く、楽(たのし)みの大いなるほど苦しみも大きい。

これを切り放そうとすると身が持てぬ。
片(かた)づけようとすれば世が立たぬ。

金は大事だ、大事なものが殖(ふ)えれば寝(ね)る間(ま)も心配だろう。

恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。』  


Posted by mister_kei0918 at 19:14Comments(0)

2009年06月21日

女の最後の恋だけである

いつも恋してる

恋するといえば相手は人ということになりがちです。

また、若いものの特権と思えそうですが「老いらくの恋」ということもありますし、人を思う心はそんなに年齢によって減少するものでもなさそうです。

或いは年齢を重ねると、恋というような情熱的、盲目的なものではなくて万物や周囲に対するよりソフトでより人間的な想いや愛とでも言いましょうか。

決して情熱的な想い、盲目的かつ切ない恋が途絶えたわけでもなく、燃え上がるものが無いわけでもありませんが。

人はいつまでも没頭できるもの、趣味であったり、仕事であったり、人であったり。
そんなものが存在すると生き生きとした姿や訴えるものがあるものです。

恋する対象を失わない人生。
又は恋する相手を求めて止まない歩み方。

同じ人生を歩むなら、より多くの方々と心の交わりや想いの交錯する人生でありたいものです。

明日が活力ある日々であるには、常に恋に心ときめいているか、それによっても人の輝きが異なるようです。


『男の初恋を満足させられるのは、女の最後の恋だけである。バルザック』


『恋をしているということは素晴らしいー。
あなたはたくさんのほめ言葉をもらえるし、
自分をたいした男だと思いはじめる。フィッツジェラルド』


『恋という狂気こそは、まさにこよなき幸いのために神々から授けられる。プラトン』


『恋をして恋を失ったほうが、一度も恋をしなかったよりましである。テニソン(イギリスの詩人)』  


Posted by mister_kei0918 at 21:37Comments(0)

2009年06月20日

年齢的には50歳は超えているような

釣り禁止の鯉を公然と?

今朝も6時頃から福岡市中央区の大濠公園のウォーキングへ出掛けてきました。

先日のNHKテレビを見ていましたら、スロージョギングが最も有効だと福岡大学の先生の実証を交えて報告をしていましたので、それ以来、出来ればそうしたいのですがどうしても過去早歩きの習慣をつけてきた私にしてみたら、ついウォーキングになってしまいます。

マスコミの影響は偉大です。
その放送以来、どうもスロージョギングの人が多いようにも思えます。

或いは私の意識がそっちに向いているからそう見えるのかも。

良くあります。
自分の身内に子供が出来るとお腹の大きい女性がなんと多いのかと思ってしまう、目についてしまうのと同じ。

でも、今朝は残念な姿を見てしまいました。
一人の男性が写真を撮っています。何かと思って被写体の男性を見たら、50センチ位の鯉を一匹ぶら下げています。

明らかに釣り禁止の場所です。

ウォーキングやジョギングをしている人々が立ち止まったり、振り返ったりしてますが全く気にする様子は見えません。

年齢的には50歳は超えているような気がします。

子供は一人も見ていませんでしたから良かったのですが、悲しい話です。
また、それをとがめだてできなかった私を含めた男たちも不甲斐無くてみっとも無い話です。

写真を撮った後、水に戻してあげるでもなく多分、食用にでもするつもりでしょう。
人が見てても公然と出来る人間性を疑ってしまいます。  


Posted by mister_kei0918 at 12:23Comments(0)

2009年06月18日

アスファルトに咲く花のように

今日の涙は明日へのエキス

歳を重ねると、ちょっとの事では涙を流すことはほとんど無くなってしまいました。
打たれ強くなったのか、神経が鈍くなったのか、頓着が無くなったのか。

私の場合は後者、
鈍くなっていることと頓着が無くなったこと。
決して打たれ強くはなっていないような気がします。

不思議なことにテレビなどを見ていると、いつの間にか涙を流していることはあります。
多分、感性は失っていない証拠でしょうし、穿った意地悪な言い方をすれば涙腺が緩んでしまったのか。

以前、先輩たちが「つい、涙を流している自分に気づくよね」等と話すのを聞いたことはありました。
私のそういう世代の仲間入りをしたということでしょう。

涙は心を洗い流す作用も持っているものです。
悲しいとき、苦しいときに悶々としているといつまでも心は晴れては来ないものです。

一度大粒の涙を流してみることで、人の心は落ち着きを取り戻し、幾らか晴れやかな気分へも転換が出来るもの。

女の子たちが感受性豊かな時期に、ついつい涙もろい姿を見ることがありますがだからいいんですよね。
100%吹っ切れることはありませんが、幾らか引きずりながらも爽やかになっていくものです。

家庭の主婦が、時に涙するのもそんな作用を体が知っているからでしょう。

とかく男性は女性の涙に弱いものです。
つい手を差し伸べたくなるのは私だけではないでしょう。

考えようによっては涙する機会をうまく利用することで、逆に強くなっているとも言えなくもありません。

つい、ほだされたりもしますが男心をくすぐる為の涙なのか、そうでないか位は見破れないといけないのかも。

男性もそうですが、涙を流すことを敢えて避けるのではなく、むしろ涙するときには涙する、人に見られたくなければトイレの中でも、車の中でも良いのではないでしょうか。

すっきりすること請け合いです。
涙が枯れる世代が近づく前に、涙腺を訓練しておくことも大事な事ように思います。


『気持ちが萎え、ときには涙することもあった、
だが、涙を恥じることはない。
この涙は、苦しむ勇気をもっていることの証だからだ。フランクル』


『涙の数だけ強くなれるよ
アスファルトに咲く花のように
見るものすべてにおびえないで明日はくるよ、君のために。
岡本真夜「TOMORROW」より』  


Posted by mister_kei0918 at 10:04Comments(0)

2009年06月17日

前世までも遡らなくても

人は何処かで繋がっている

「赤い糸で結ばれていた」とは良く結婚式で言われる言葉です。

世の中、不思議なものです。
全くの繋がりの無い他人だと思っていても、奇妙にどこかで結びついているものです。

前世までも遡らなくても。

でも、交わす言葉が極めて表面的、儀礼的ではいけませんよね。
心の結びつきや関係の繋がりを期待させるような、言葉の行き来が必要と思われます。

どこかで繋がっていくものです。
そのために、日頃から多くの人に会うことも大切ですし、色んな情報の詰まったポケットを持ち合わせていることも大事なようです。

繋がろうとする思い、繋がるために伝手(つて)を溜め込んでおくことや
今は繋がらなくても、次にお会いするときには何かしら繋がりを予感させ、髣髴とさせる余韻も大切と思われます。

嬉しいものです。
予想を超える繋がりを確認できたときには。

「人は何処かで繋がっている」。
常にそんなことを念頭において人との関係を求めることも大切でしょう。

繋がっていると思えば、増してや裏切るようなこと、失礼なこと、迷惑を掛けるような類の行為は慎まねばいけませんよね。

今は繋がっていることが確認できていなくても、そのうち間違いなく本当に?と疑いたくなるような繋がりが出てくるのですから。

そのように考えると、人と見まえる事が嬉しくなってしまいます。
明日が楽しくもなってしまいます。  


Posted by mister_kei0918 at 23:13Comments(0)

2009年06月17日

出来れば関係を持ちたくないとも思ってしまいます

喜怒哀楽を現すことこそ、人の心を揺さぶる

際立って喜怒哀楽を現すことを嫌うのが日本人のようにも思えますが如何でしょうか。
大声で笑うのも余り良いこととは見てもらえないようです。

男であれば人前で涙など流すなといわれてしまいます。
そして、人知れず隠れて悲しみに暮れるものだと教わってきました。

人を叱ることは別にして、怒ることははしたないとか、相手を辱めてはいけないとか、配慮することを求められます。

嬉しいことや喜びも、体いっぱいで表現するのが本来の人間の姿のように思えますが、つい憚ってしまいます。

私も自分の喜びは最小限に表現し、人を怒ることは滅多にしませんし、悲しみが無いこともありませんが人にその姿を悟られないように表面を繕って、楽しみは出来れば自分や身内の範囲にとどめてしまいます。

本来はそうではなくて

自分の喜びは、明るく振舞って周りにも分け与え、
人の喜びは我が事のように一緒に喜んであげて、

叱るとき、怒るときはそれなりの時間や場所、相手や程度を考え、わきまえて。

悲しみや苦しみは自分の内にこもることなく、普段から気軽にそれとなく口に出来る友や家族関係を作っておき、

人の悲しみが汲み取れるような心配りを常日頃から心がけ、その解消に出来るだけの力を貸してあげる。

楽しみは自分のものだけにせずに、多くの人々にも分かち合い、楽しみの方法を他人からも会得できるような環境が出来上がっているといいものです。

喜怒哀楽は余り表面に出すものではないと教えられてきた私に取っては、生来の習慣になっていますから右から左へと変われるものではありませんが、

人の本来の姿や心のあり方や状況、精神の動きは表面に現われる喜怒哀楽の表情や言葉によって受け取れるものであり、人間関係の構築はそんなことのやり取りからより深まっていくもののようです。

人に不愉快さや迷惑を掛けるほどの喜怒哀楽の表現では、却って迷惑の何者でもありませんが。
いますよね、周りに大変な迷惑を掛けているにも関わらず、高笑いをしてみたり、大声の会話。

逆に無表情で鉄火面のような喜怒哀楽の無い人。
不気味ですし、怖いし、近寄りがたく、出来れば関係を持ちたくないとも思ってしまいます。  


Posted by mister_kei0918 at 12:10Comments(0)

2009年06月16日

打算や利己的、我田引水的、袖の下的な人間関係

危機ではなく飛躍のチャンスと思えば

ここ数日、株価の上昇が続きます。
日経平均株価が一万円を超えるなど昨年の10月以来ですから、8ヶ月ぶりでしょうか。

景況感も幾らか戻ってきているとはいいますが、実感としてはまだまだではないでしょうか。

消費者の感じる景気に対する判断、
企業経営者としての立場、
大企業、中小零細企業との違い、
業種の差、企業間の差、
輸出企業、そうでない企業との差、
大都市の企業と地方の企業との差



それぞれに感じることは異なるようです。

同業者でも忙しい思いをしているところ、そうでもないところ、仕事が無くて青息吐息のところ。

難しい時代への突入です。
元に戻ることは無いようにも思えます。

パラダイムシフトとか、構造的変化とか、価値観の変化、業態業際の変化・・・様々にいわれます。

中国では危機は危険と機会、つまりチャンスでもあるということに理解されているとの事です。

私どもの解釈では危機は危ない状態、後の無い状態、崖っぷちという解釈でしょうか。

考えてみたらそうですよね、
そんなときこそチャンスが潜んでいるものです。
次に備える人、研鑽を重ねる人、必死になって営業努力や宣伝に相勤める企業、研究に余念の無い社長、社員教育に殊の外、時間を割く企業・・・・・

差の出る要因はいくらも出てくるようです。
辛抱のときだからこそ、じっと耐えて待つのではなく勇猛果敢に色んなことへの挑戦や備えをすることが大事。

それと同じように大事なのが人との繋がりの大切さです。
どれだけの人脈を構築できるのか。

打算や利己的、我田引水的、袖の下的な人間関係はいずれ破綻をしてしまいます。

心の結びつきをこそ大事にする人間関係を作り上げることが今の時代を乗り切る大きな力と勇気を生み出す源になります。

危機はチャンス。  


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2009年06月14日

「釈迦の涅槃像」を眺めながら

阿蘇の10キロウォーキングに挑戦してきました。

いつもでしたら、早朝の6時頃から大濠公園のウォーキングをしている日曜日ですが、今朝は早くから阿蘇でもウォーキングへの挑戦です。

どうも主催者に聞くところによると、大型バス35台が阿蘇に集結しての行事のようです。
バス35台というと人数にして約1600人という事になります。

私と家内は福岡市中央区の天神から24番のバスに乗り込んで阿蘇の大観峰へ。
その近くから急な下り坂、アスファルトはされてますが一般の車が通らないところを見ると農道でしょうか。

時々、トラクターのような車やトラックが通り過ぎるくらい。
でも道幅は結構ありますから、普通の山道を下るよりかは遥かに楽です。

多分、阿蘇の大観峰から下の内牧までの急激な落差を普通の登山道のような形で下っていけば途中でギブアップしているかもしれません。

増してや、10キロなんてとても無理でしょう。

正面には阿蘇5岳が作り出す「釈迦の涅槃像」を眺めながら、また眼下にはカルデラの水鏡の如き田んぼを見下ろしながら。

歩き始めて、2時間くらいで麓へ辿り着き、後は平坦な道を内牧温泉街へと進みます。

途中、商店街や温泉街を立ち寄りながら最終的にバスに辿り着くまでの所要時間が4時間半。

想像するに町おこしの一環でもあったようです。
だって一度に1600人もの人が訪れるわけですから、町としても歓迎しない手は無いでしょう。

至る所のお店ではしっかり待ち構えてもいましたし、街中にこのウォークツアーの幟はあちこちに立っているし、バスが集合している場所ではテントが張られ、出店が出ていて、太鼓の演奏はされているし。

疲れはしましたが、天気にも恵まれ素晴らしい一日でした。
高速道路の渋滞にも合わず、予定通りの行程でした。

困ったのは、私どもの後ろの座席の年取った女性二人の止まらない会話に悩まされてしまいました。  


Posted by mister_kei0918 at 23:09Comments(0)

2009年06月14日

「リアクト型」と「プロアクト型」

中田宏横浜市長から教えていただきました

昨日の午後は横浜市の中田宏市長が福岡市へお出ででした。
友人の誘いで約2時間の講演会へ出席してきました。

積極的に市政運営に取り組まれる真摯な姿が印象的。
350万人の横浜市政から日本の政治を変えると言っておられます。

色んなユニークな積極的な政策を打ち出され、果敢に実践をされているようです。
それが、一つのモデルとなって全国へ波及していることも多いとの事でした。

中田市長は1964年生まれ。
44歳。

小学校時代は福岡市南区長住で過ごされたこともあるようです。
父親の始めての転勤が福岡だったようです。

色んなことを今日の講演で教えてていただきましたが、最も記憶に残った言葉が二つ。
一つは「善意の誤謬」

後一つは、リアクトとプロアクト。
今のように環境の変化の激しい時代はプロアクトタイプでないといけないとの話でした。
私はリアクトタイプ以下の最も悪いタイプでしょうか。

そこで調べてみました。
日刊建設工業新聞のコラム「回転窓」に先日載っていたものの転載です。

『人間には2通りのタイプがあるという。
「リアクト型」と「プロアクト型」。

むろん、どちらにも属さない人も大勢いる。

▼リアクト型人間とは、周囲の環境が変化するまで動かない人。
役所では、諸事情からどうしても新しいことをしなければならない状況に押し込まれるまでは動かない人。

▼プロアクト型人間はその逆。
自らが動くことによって自分の周囲の環境を変えてしまう人。

役所では、やる価値があると自分で判断すれば、外からの圧力があろうがあるまいが行動する人。

▼官僚の場合、リアクト型でいるのは簡単だ。
余程のことがない限り、現状を墨守していればよい。
「現状に問題はない」と説明する理由はいくらでも作れる・・・・・』


そうです、やら無い理由や出来ない理由はいくらでも作れるものです。
そういう意味では私はやらない理由見つけが素晴らしく上手です。

人生の差なんて、そんなところから生まれるのでしょうね。  


Posted by mister_kei0918 at 06:08Comments(0)

2009年06月13日

私がブログを休みなく書き続けるのは

何も語れない

そんな興奮ですかね。
生まれたときからの全盲でこんなこともあるんですね。

五体満足の私どもにしたら恥ずかしいやら、何を語っても叶わない、空々しいって感じです。

ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで日本人ピアニストとして初めて優勝した辻井伸行のことです。

1988年生まれ、20歳。
1995年7歳で全日本盲学生音楽コンクール器楽部門ピアノの部で第1位受賞。

幼い頃から、その才能は周りを驚かせていたようです。
ピアノの調教師の方が音に反応する彼の能力に驚いた話も聞いたことがあります。

1998年10歳の時には三枝成彰スペシャルコンサートで大阪センチュリー交響楽団と共演し鮮烈なデビューを飾り、

1999年11歳で全国PTNAピアノコンペティションD級で金賞を受賞。

2000年12歳で、第1回ソロ・リサイタルをサントリーホール小ホールで行い、翌年第2回のソロ・リサイタルを開催。この他に神戸音楽祭に出演するなど日本各地でコンサート活動を行う。

「題名の無い音楽会」の指揮者の佐渡裕さんとも数々の競演をされていますし、その活動はアメリカのカーネギーホール、モスクワ、チェコ、台湾・・・・・

2005年10月には、ワルシャワで行われた第15回ショパン国際ピアノコンクールにて 「批評家賞」を受賞されています。

そして、この度のヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールでの優勝です。

彼の鍵盤を叩く姿を見て感銘を受けない人はいないのではないでしょうか。

私のような常人が常々多くを語ろうとも足元にも及ばないような気がいたします。
毎日、ブログを書く手が止まりそうにもなってしまいます。

そうでした。

私がブログを休みなく書き続けるのは、
自分への戒めや反省、
明日への勇気付けや励ましだったことを。  


Posted by mister_kei0918 at 17:27Comments(0)

2009年06月12日

「美しさは厳しさの中から」

「劔岳 点の記」試写会を観てきました

昨夜は6月20日から公開される「劔岳 点の記」の試写会が全国に先駆けて行われましたのでを観てきました。

テレビなどでも宣伝されている精でしょうか、多くの方々が鑑賞に訪れていました。

上映に先駆けて木村大作監督、主演の浅野忠信さん、蟹江一平さんのご挨拶やそれぞれの体験談、思い入れなどが紹介されました。

新田次郎原作「剣岳 点の記」が映画化。
明治時代に日本地図で空白となっていた富山県の剣岳(2999メートル)の測量に挑んだ男たちを描く映画。

「日本で最も危険な山」の一つに数えられ、聖地あるいは死の山と恐れられている「劔岳」の頂上の地図を作成するための観測点を設置する陸軍省の面々の奮闘を描いたもの。

私も数年前に黒部立山アルペンルートを観光で訪れたことがありますが、美しさもさることながら切り立った劔岳の凄さは圧巻です。

黒部ダムから立山方面への道のりや
室堂から富山方面に下りる両側15メートルにも及ぶ雪の道を降りる感動も凄いものがあります。

山登りを極めたいとする人にとっては大変に魅力的な山かもしれませんね。

また、NHK大河ドラマの篤姫に主演し高視聴率をあげた宮崎あおいさんも出演されており、久々にお会いしたという感じでした。

何方の言葉か忘れてしまいましたが映画の中で語られた「美しさは厳しさの中から」という言葉が印象的でした。

立ちはだかる、如何ともし難い自然の過酷さと猛威の中で大変な撮影だったようですが、意図するところは十分に汲み取れましたし、多分、日本映画史に記録される素晴らしいでした。

また、福岡にとって有難いのは全国に先駆けての試写会であったのと同時に、全国で福岡県だけの取り組みということで「福岡県水源の森基金」に前売り券の売り上げの一部を寄付するとの事でもあります。

過酷な自然の中で大変なご苦労をされながらの撮影だったことを感じると共に、ヘリコプターやCGに頼らない撮影に拘ったことにも感銘を受けました。

皆さんも是非是非ご鑑賞されませんか。

6月7日は測量の日。
「測量の日」に功労者として、監督の木村大作氏に国土地理院から感謝状が贈呈されたようです。  


Posted by mister_kei0918 at 08:11Comments(0)