2009年07月24日

どこかで破綻が来なければいいのですが

不自由になって分かること

自由な世の中になってしまいました。
自由の身になると喜びや幸せに満ち溢れているように夢物語として若い頃は感じていたものです。

自由の素晴らしさだけを語る事が先行して、その影に潜む闇を見ることはありませんでした。

また、「自由の裏には責任が伴う」ことは成人式のみならずいろんな機会で語られながらもお酒が飲める、タバコが吸える、選挙権、ひいては結婚・・・・・私が認識する範囲でもこの程度でした。

自由を謳歌するためにはそれ以上の不自由さが存在することに気づく日々です。

自由がはびこるあまり、かえって不自由さを助長している世の中になってきました。

手に入れた筈の自由は、それが為に生み出された数々の反動や荒んだ心や不心得な人間の存在で却って自由を失う事態になってきました。

最近の法改正を見ていると、ますますもって住みにくい制約の多い社会になりました。

社会が進む?ということはこんなことなんでしょうか。

どこかで破綻が来なければいいのですが。

文明が進むということは、逆に危険な状態を孕んでいると承知していたほうが良さそうです。

自由自由と叫んでいても、「過ぎたるは及ばざるが如し」、足もとを掬われたり、波乱への道を突き進む危険性があることをも。

自由であって知ることも多いものですが、不自由になって分かることも多いものです。

受刑者が刑務所に入ってみて、その不自由さを痛感し、自由の有難さを知るともいいますが、考えようによってはその自由さゆえに犯罪を犯し、そこにいるのでしょうけどね。

再犯の多さを見るときに、却って反省の度合いの浅さや社会復帰の難しさを考えてしまいます。

中には、その不自由さを求めてまた、犯罪を犯す人間もいるものです。

健康を失ったときもそうです。

自由闊達に振舞っていた自分がいざ健康を害して、不自由の中の置いてきぼりを経験したとき、健康の有難さ、それによってもたらされる自由の有難さを痛感するものです。

自由に勉学の出来る経験も有難いものです。
つい、そのように思ってしまうのですが、勉学が出来る環境にあるときにはしないものですね。

恋愛の自由、結婚の自由、信教の自由、教育の自由・・・・・
自由といいながら、「本当に自由なの」って思いたくもなります。

経済も自由経済といって、わが春を謳歌しているように見えますが実態はその犠牲に喘ぐ人や混迷を深める実態が眼前に現れています。

金融も自由にお金を操る錬金術のために、昨年からとんでもない結果になってしまいました。
どうも慌てふためきながらも踊らされているわが身を見るような気がします。

自由の尺度を図る方法があるとしたら、それ以上に混迷の深さの方が遥かに人身までも蝕んでしまうことから考えると恐ろしい事態を引き起こしています。

片方では自由と繁栄、経済的豊かさを享受しながら先行きの不透明さや困難と立ち向かい、一方では自由が欲しいといいながら、自由に食べ物さえ手に入らず飢餓に苦しむ人々がいる。



Posted by mister_kei0918 at 17:38│Comments(0)
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