C3
http://yoka-yoka.jp
http://misterkei0918.yoka-yoka.jp
mister_kei0918
https://misterkei0918.yoka-yoka.jp
楽しく前向きに人生を楽しむ事をモットーとしてます。
できる事なら人や社会の役に立てるように、
しかも多くの方々のお知恵を頂きながら。
企業経営をしてますが社員や家族の幸せ、
お客様のご満足のために頑張ってます。
そんな思いのあれこれを綴ってます。
ja
Sun, 09 Aug 2009 12:10:55 +0900
Wed, 09 Apr 2008 09:49:00 +0900
http://blogs.law.harvard.edu/tech/rss
CLOG
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mister_kei0918
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鹿児島県奄美市の生まれ。
某コンピューターメーカーにてソフト開発・サポートに従事。
29歳で起業、今日に至る。福岡市中央区在住。
印刷会社のURL
http://www.n-global.co.jp
ソフト開発会社
http://www1.bbiq.jp/e-factory/
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人間として犯さざること
絶えず意識、検証し、変更、修正する
私どもはいつも勉学に励み、研究に邁進し、仕事に勤しみ、家事を含めて家の発展や豊かな社会の進展の為に時間を割き、労力を惜しまずにその力を注ぎ込んでいます。
それは全ての方々に課せられたものだという前に人間の自然な姿のように思えます。
でも、学んだこととは異なる、自分の思う方向とは大よそ違う方向、自分の理解を超えた方向で進展してしまいます。
家庭の父親、母親としてもそうですし、社会や企業をリードすることも常に周りを意識し、情報の収集に努め時には屈辱的な変更が伴っても修正したり、根底から考え直すことも必要な時代となりました。
私も3人の子供の父親ですが、父親とはもっと威厳があって、強力なリーダーシップが発揮できて・・・・・そんなイメージでした。
ところが現実には、自分の父親としての能力のなさや不甲斐無さ、不足の部分の多さ、またむしろ子供から教わることの多さや子供が与えてくれるものの巣晴らしや社会性・・・・・むしろ助けられる人生だったように思います。
ですから私が想像していた父親像はものの見事に根底から覆されてしまいました。
私どもの身の回りには、パラダイムシフトとか、ボーダレスとか、構造的な変化だとか、モラールハザードとか想像を絶する変化が起きています。
勉学でもそうですが、学校で教わったこと、研究したことがそのまま社会で通用するかの議論がありますが、基礎的学力は当然学んでくるのが学校ですが、実は社会に出ることで現実にはそぐわないことや異なったことが存在するものです。
就職したときに学んだことが修正通用しない程、激しい変化社会になってきました。
それに固辞することなく、常に勉学を重ね、人の言葉に耳を貸し、絶えず意識、検証し、変更、修正する態度が必要な気がします。
でも、人間として犯さざること、人の命や尊厳に関わること、そんなことに譲歩することはありませんよね。
経営でもそうです。
改めることに躊躇は禁物、勇気を持って自身をもって挑むことが大事なようです。
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Sun, 09 Aug 2009 12:10:55 +0900
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期の迫った断末魔ではないのですから
眉間に皺寄せて
馬齢を重ねると人は穏やかになるものと信じていましたが、最近の自分を見ているとどうも逆行しているように思えてなりません。
眉寿(びじゅ)といえば眉毛の長いこと、転じて長生きや長寿。
眉雪(美雪)は眉毛が白いこと、転じて老人。
眉月(びげつ)は三日月のこと。
眉目秀麗(びもくしゅうれい)、呼んで字のごとく目眉がすっきりしていて端麗なこと。
年を追う毎に、次第に多忙を極めるのはどうしたことでしょうか。
だんだんとお世話ごとのウエイトが高まってきたことと、
役職が想像以上に増えてきたこと、
どうも、焦るように勉強の機会を増やすようになってきたのが原因のようです。
以前はそんなに切迫感もなくて、眉間に皺を寄せることも少なかったような気がします。
期の迫った断末魔ではないのですから、そんなに焦らなくても良いようなものですが。
今までの不勉強や節制のなさが今頃になってこんな状況をもたらしているのかもしれません。
ここ数十年、走ることしか能がなかった訳ですから今になって「ゆっくり、落ち着いて」などといってもブレーキが利きませんし、却って加速をしているような気がします。
気力は充実してますが、いつか切れることがないといいのですが。
考えようによっては切れるときが潮時かも知れませんよね。
そのときが来ないと眉間の皺もなくなることはないのかも。
眉間の皺でも、表情や心理状態を表してなくて本来的に持っている人もいます。
特に男性には、勲章的な存在であったりもするものです。
女性にとっては嫌なものでしょう。
だから整形で皺取り等が持てはやされる時代です。
技術的に可能になったことも所以しょうが。
いずれにしても晩年は心安らかに、穏やかに落ち着いて過ごしたいものです。
多分、無理でしょうが。
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Fri, 07 Aug 2009 22:38:34 +0900
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目の輝きが違う
挑戦的な人はいつも生き生きしている
挑戦的という言葉を使うと、人に挑発的な印象や、常に戦いを挑んでいるような感じに思えますが私が使う挑戦的という意味は相手が人ではなくて、物事や学問、自然。
人に挑戦的なのは私が一番嫌いなことのひとつです。
人に挑戦しなくても自分自身に挑戦すればいいのです。
自分の今をどのように変えていくのか、
自分の過去とどのように素晴らしい決別を見せるのか。
人は人との競争や葛藤の中で成長を極めるものですが、片や憎しみや恨み、辛みを残してしまうものです。
それを必要ないと否定するつもりは決してありませんが、それに固執はしたくないのです。
学業もスポーツもライバルがいればこそのこと。
お互いの切磋琢磨の中で、お互いが競い合い、お互いが大きく成長をするものです。
私の性格ではやはり他人との競争はついぞ嫌なものです。
最初から、負けることが分かっている勝負等挑んでも仕様がないと踏んでいるのです。
目の輝きが違います。
挑戦的に物事に対処する人は、憧れるものです。
尊敬に値するものです。
ましてや極めた人はある意味、後光がさすといっても過言ではないように思います。
それは経営でもいいと思うのです。
素晴らしい経営を日常的に心がけ、社員から慕われ、お客様から信じられ、同業者から頼られ、社会的評価の高い人は十分な尊敬に値するものです。
『問題解決より問題づくりの方がずっと大切だ。米思想家:ジョンデューイ』
『新しいことに挑戦することが、かえってリスクを少なくする場合も多い。』
『人間は運命に挑戦する。
一度はすべてを提供し、身を危険にさらさなければ、
代償として、大きな幸福と大きな自由は得られない。モンテルラン』
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Thu, 06 Aug 2009 22:49:19 +0900
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剣でなぐりつけるよりも
笑顔は人を幸せにする
笑顔が全てを解決するわけでもありませんし、人生そんなに生ぬるい甘いものでもありません。
笑顔は
笑顔は幸せをもたらすような気がする、
笑顔で欺く、
笑顔が人を惑わせる、
笑顔のつもりが侮辱と勘違いされる、
笑顔のつもりが笑顔になっていない、
笑顔で騙される、
笑顔に救われる、
笑顔で勇気付けられる、
笑顔は人を和ませる、
・
・
色んな効能や副作用を持つ笑顔ですが、一般的には笑顔は歓迎されるものですし、笑顔を忘れた顔には冷たさや怖ささえ感じてしまうものです。
問題解決の糸口や突破口としても十分な働きを見せてくれます。
笑顔を作るのにお金が掛かるわけでもなく、大変な労力を要するわけでもありません。
ただ、口の口角を上げて、目じりを下げて、頬を膨らませること位でしょう。
そう言えば口の口角を上げるということはいつまでも美貌を保つ方法でもあるようですし、表情の豊かさを維持する貴重なことのようです。
笑顔で人を幸せにするということは、廻り廻って結局は自分に幸せが訪れることですし一番の早道のようです。
「笑顔がいいね」
「いい笑顔をしているね」
「いつも笑顔が絶えないね」
「貴方の笑顔に会えるのが楽しみ」
などと言われると、もう最高ですね。
大部分の幸せは手中にしたようなものです。
あるいは素晴らしいチャンスが巡ってくる前触れかもしれませんね。
『笑顔を忘れぬ人は常に歓迎される。フランクリンベトガー』
『剣でなぐりつけるよりも、笑顔でおびやかすがよい。シェイクスピア』
『言葉を明るく、笑顔を明るく、態度を明るく、
そうすれば人脈が広がり、
いろんなことを教えてくれる人が君の前にあらわれるだろう。
山谷えり子(ジャーナリスト)』
『誰にでも与えるものはある。笑顔を与える、笑いを与える。
求める活動から与える活動へ転換をはかりたい。松下幸之助』
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Thu, 06 Aug 2009 08:10:15 +0900
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それを跳ね除けるのは、大変な努力や経験が必要
貧富の差が子供の学力の差、親の差が子供の差
正直なことで言えば、「そんなことは嘘」であって欲しいものです。
あるいはあってはならないことのように思えます。
私も貧乏で、満足な高等教育を受けていませんし、ましてや親も知的能力が高いわけでもなく(決して卑下するとか、侮蔑するとかそんなことは決してありませんし、人生にマイナスしたとか決して思っているわけではありません)、父親もいませんでしたので教育を受けるという観点のみで考えると恵まれた環境ではなかったと言えます。
最近、そのようなことを口にすることが比較的表面化してきたようにも思えますが如何でしょうか。
以前はそのようなことを口にするのはタブーにも近いことでしたので感じてはいても決して言葉にすることはありませんでした。
最近、文部科学省が学力試験を行った際に100校の父兄への聞き取り調査を並行して行ったようです。
親の収入が高いほど、子供の点数が高い、
絵本の読み聞かせや新聞のニュース等の話をする家庭に限って、子供の点数が高い。
表現が違っていたらごめんなさい。
自分の子供のころを振り返ってみたら、確実にそんなことが言えます。
中には「鳶が鷹を生んだ」とも取れる子供がいないではありませんし、貧しくとも社会的地位の高い人や立派な企業の経営者に上り詰めた人もいますので100%とは言えませんが。
「お医者さんの子供がお医者さんになる」などもその顕著な例ですし、枚挙に暇がありません。
教育の機会は均等に与えられるのが理想ですが、お金の力や親の知的レベルや熱意によって大きく差が出るのは悲しいかな現実です。
学力が全てではありませんから、それによって人生を判断すべきではありませんがさまざまな機会にぶつかる毎に学力のある無し、それによって培った持続力や洞察力、論理的な物事の判断や対処方法は人生を歩む上で物凄い原動力であることは否めないものです。
悔しいけど、「貧富の差が学力の差、親の差が子供の差」は確実に私の前にも立ちはだかったものです。
それを跳ね除けるのは、大変な努力や経験が必要だったと言わざるを得ません。
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Wed, 05 Aug 2009 23:01:44 +0900
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未練がましくストーカーなどして
泣き言を言わない
憎まれ口、悔やみごとや愚痴、苦言は出来れば口にはしたくないものです。
ですがつい、口をついて出てしまいます。
出来れば建設的な意見や思いに集中できればいいのですが、世の中はどうも思い悩むことが渦巻いているようです。
あまり弱音や泣き言は言わないほうが賢いようです。
弱音を吐いていると、ついついそこに引きずられてしまいますし、
泣き言を言ってばかりの自分は、いつの間にか泣き言を言わなければならない環境にいよいよ染まってしまうようです。
人の精にばかりするのも、どうもそのようです。
自分は正しく、悪い方向へ導くのは全て他人と思っていると、つい驕りだって出てきますし、人の人間性や尊厳までも損なってしまうものです。
出来れば、自分の精にするくらいの度胸が座っていたほうが却って信頼関係を構築できたり、信頼関係が培われたりするもの。
昔は良く繁く泣き言を言うことを「女々しい」とか言われたものですが、むしろ女々しいのは私ども男の方がそのようです。
未練がましくストーカーなどして、
失恋しても吹っ切れなくて、引きずって、
あの芸能界の男ではありませんが離縁しても、再び復縁を迫ったり、
昔の成功体験にいつまでも執着して、
決断が鈍くて、いつまでも結論が出なくて、
・
・
余り泣き言を言わない日々であり、そして男でありたいものです。
『自分で泣き言を言って絶望しているのは、成功を妨げ、そのうえ、心の平安を乱すばかりだ。野口英世』
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Mon, 03 Aug 2009 22:08:50 +0900
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この酷さは子供にも見せたほうがいい
騒乱のあと?期待は見事に打ち破られる
実は「つわもの(兵)どもが夢の跡」としたかったのですが、
実はつわものとは兵隊の意味ですから、国、人民の命、財産を守るという極めて崇高な精神や目的を持つ人々のこと。
ですから、ただ花火を見に行った人の例えにするには大変に失礼と思いましたので「騒乱のあと」と変更しました。
ただ自己都合で、しかも個人的な興味本位で花火を見に行ったのですから只の烏合の衆といっても良いかもしれませんね。
見物に行くときには善意の人々の集まりだったのでしょうが、その結果がもたらす公園の惨状は酷いものです。
つわものにしようとしましたのでついでに意味を調べてみました。
『・・・「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」
松尾芭蕉が門下の河合曽良を共に旅した奥の細道の終点(一応平泉とされる)で 詠んだ句・・・というよりは つぶやいたとされてる言葉。
三代の栄華を誇った藤原が蝦夷の攻撃を受け、「優れた忠義な家来たちが高館にこもり功名を競ったが、それも一時の夢と消え、今では草が生い茂るばかりだ。」・・・』
つわものという言葉をはじめて知ったのがこの句でした。
昨夜は福岡市中央区の大濠公園で毎年恒例の花火大会が開催されました。
数年前に現地で見たことがありましたが、命の危険を感じることがありましたので行かないことにしました。
普段は梅雨が明けた後に開催されるのですが、今年は8月になったというのにまだ明けていません。
見物人が48万人。
周辺は夜遅くまで大変な交通状態。
今朝は6時前からいつものように大濠公園でウォーキングです。
物凄いゴミの散らかり様。
池にはビニール袋が浮いているし、ビールやジュースの缶、弁当の食べ残し・・・・・わざと散らかしたといっても良いくらいです。
あるいはそれ以上です。
お酒の匂いも漂っています。
「ガムテープ、ペグ、釘は使用しないこと」の掲示板の前や至る所にガムテープが張られています。
専門のゴミ回収業者を始め、タイルに張られたガムテープを道具を使ってはがしている人。
多分ボランティアだろうと思われる集団の方々がビニール袋を抱えて回収に一生懸命です。
毎年繰り返される光景ですのでいつかは改善されるかと期待してますが、ますます悪化する方向のようです。
出来ればこの光景は子供に見せたくないと思いましたが、これは子供に見せるべきですね。
「あなた達のお父さんやお母さん、お兄さん、お姉さん、友達たちがやったことだよ」と。
新聞やテレビ等のマスコミも、表面的な花火の美しさや華やかさだけを報じるのではなく、その陰でこんなみっともない恥ずかしい様子や、それの処置の為に無駄な経費を使い、善意の人々の労力を当てにし、環境を汚すこのような行動があることを知らしめ、戒めるべきでしょう。
大濠公園はいつも朝早くから観光客が見物に来るところです。
多分、この汚い公園の姿を見た方も多いことでしょう。
悲しいことです。
大人もモラルなど、ないも同然です。
https://misterkei0918.yoka-yoka.jp/e282163.html
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Sun, 02 Aug 2009 22:48:50 +0900
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恋愛や結婚もそうです
過去の成功体験、亡霊に執着する
人は誰でもそうですが、どうしても過去の経緯や経験に頼ってみたり、引きずられたりします。
特に成功体験にはどうしても執着しがちです。
恋愛でもそうですよね。
成就した恋愛体験は、自分の中でも語り草になっていますし、苦い失敗体験は出来れば振り返りたくないものです。
でも、実は
『経験が役に立たないのは、特に恋愛の場合にはなはだしい。レオトー』
という言葉があるくらいに経験は役に立たないものです。
でも頼ってしまいます。
結婚でも、
『あらゆる人智の中で結婚に関する知識が一番遅れている。バルザック』
幾ら結婚の知識が豊富でも、結婚の経験が数多くあってもそれは役に立たないといっても過言ではないでしょう。
経験談としては豊富なものでしょうけど。
それは経営でも同じです。
むしろ、過去の成功体験を持っているが為に前に進めない、決断が鈍る、間違った判断をしてしまう。
こんなことは多いものです。
特に時代が大きく様変わりし、変化をし、変革を求められる時代、
構造的、グローバル、ボーダレスに大きく変動する時代はむしろ過去の亡霊に取り付かれていては、企業の存続さえも危うくなってしまいます。
捨て去るくらいの気概があって丁度いい位かも知れません。
私等はどちらかというと保守的、保全的な考えの人間ですからどうしても過去に拘ってしまいます。
私の場合は、人の話を出来るだけ多く聞く機会を増やすようにしています。
自分では分かっているつもりでもどうしても過去の成功体験に取りつかれる自分を変えることは不可能なようです。
繰り返し、繰り返し人から教えていただいたり情報を貰うことによって次第に変わっていく自分が実感できるような気がします。
つまり自助努力にも限界があり、人の力を拝借するほうが近道のようです。
『自分では前を見ているつもりで、実際はバックミラーを見ている。マクルーハン』
https://misterkei0918.yoka-yoka.jp/e281636.html
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Sat, 01 Aug 2009 18:12:00 +0900
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一気呵成に畳み込める
大事なことは後回しにする癖
多くの人はそうでもないと思いますが、心当たりの方はいませんか。
実は私がそうです。
本当に後回しにしているわけではないのですが。
例えば、重大な会議が数日後にあるとします。
私が講演や発表をしたり、あるいは司会をしたり、取り仕切る会とします。
本来なら数日前から資料集めや情報の収集、整理をしなければいけないところですが、腰を上げ始めるのが前日だったり、酷い時は当日の早朝だったり、開会の数時間前だったり。
その間は、全く関係のない事に時間を使っているのです。
早くから準備をしておけば、気持ちも楽になるのでしょうがそれを敢えてしないのです。
ほったらかしにしているわけでも、気にしていないわけでもないのに手をつけないのです。
回りからも言われます。
「早く準備しておけば、気も楽になって落ち着けるのに」
でも大いに気にはしているのです。
理由はこんなことです。
こんなことにも理由を見つけようとする性分がいけないのかもしれませんね。
気持ちの高ぶり、高揚するのをを待っている、
頭の中で少しづつ少しづつ整理をつけている、
間近になって、集中的に纏める、
高ぶった気持ちをそのまま会議や講演に持ち込める、
心は焦っている、頭は集中しているので纏めが早く、漏れがない、
一気呵成に畳み込める、
・
・
そんな勝手な理由を作り出しています。
その間の本人は結構、苦しかったりするのですが。
癖みたいなもの、あるいは本来の持ち合わせた性格かもしれません。
普段の経営でもそんなところが見受けられます。
実行し始めたら早い、躊躇しません。
その分、用意周到ですから、案外漏れがなくて。
決断するまでは結構時間を掛けたり、検討したりするのですが、結論を出したら振り向かない性格でしょうか。
https://misterkei0918.yoka-yoka.jp/e281433.html
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Sat, 01 Aug 2009 08:23:04 +0900
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「私の年齢は幾つくらいに見えます?」
人を見たら年寄りと思え
何か失礼なことを言っているような気がしないでもありません。
2030年?には100歳以上が100万人を超えると言われます。つまり100人に一人の100歳以上の人がいることになります。
人溜まりがあるとそこには数名の100歳以上の方がいるということ。
約20年後の事。
昨日は東京銀座で会議があり、その参加者の方々と丸の内に移動し会食となりました。
今までも数度に亘って会議をしていた仲間です。
私より年配と思っていたら、実は年下だった方がおられました。
年齢は、体つきだけではなく語り草や知識の度合い、立場、経験・・・・・等で判断しますからなかなか旨く当たらないものです。
年配と思っていたから良かったですよね。
あわや年下などと思って、失礼な言葉使い等をしていたら大変なことです。
若い方でもまだ30代だと思っていたら、実が40後半だったり。
逆に40代だと思っていたら、びっくり20代後半だったりもします。
私が自分の年齢を認識していなかったり、まだまだ若いつもりでいたり、身の程知らずですと当然あたらないものです。
わざと外す事もないではありませんが。
社会の人口構成は少子化、高齢化、人口減少によって大きく変化してきましたし、食生活の変化やファッション、ものの考え方によって年齢の大幅な若返りもあります。
人の年齢を当てるのが本当に難しくなりました。
男性に若いというと嫌がられたり、
年寄りに見ると「いやいやまだ若いんですよ」等と言葉を返されたり
女性に若いというと皮肉に取られたり
年相応以上に言うと憮然とされたり。
でも、これからは大よそ周囲に年寄りが氾濫状態になることだけは間違いがなさそうです。
「私の年齢は幾つくらいに見えます?」と尋ねられることも多いものです。
普段から、年齢不詳の方には言葉使いは尊敬の念を持って、丁寧に、年齢は5~6歳くらい若めに言ってあげた方が間違いがなさそうです。
想像を超えた少子化、高齢化、人口減少は、医療や福祉、年金問題の解決まで複雑化し、日本はその解決の実験場にさえなってきました。
https://misterkei0918.yoka-yoka.jp/e280721.html
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Thu, 30 Jul 2009 18:35:18 +0900
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幸福がどこか遠いところにあると思いこんでいる
自分の愚かさを知る
「自分の愚かさを知る」というと、逆に己の優位性や堅実さを誇示しているような錯覚に陥ることがあります。
自分の愚かさを公言しながら、人によっては「本当に自分を愚かだとは思っていないのでは?」と疑ってみたくなったり、そのことが逆に立場を引き上げるのを手伝ったりもします。
やはりその人の言動が一致しないと言う事なんでしょうね。
でも、自分の不足を部分を知ることは大切なことです。
自分の優れたところや秀でたところははっきり認識しやすいですし、周りも誉めたたえてくれますから自然と理解するもの。
ところが短所や不足の部分、本当はもう少し努力をすれば長所にもなる部分はなかなか分かりませんし、逆に認めたくないところもあるものです。
逆手にとって、短所を克服したり、長所に出来る人はむしろ沢山の長所を持っている人よりもは大いに尊敬に値するものです。
そんな人は努力の大切さを学びますし、根気良く、ひたむきに耐えることを知っています。
考えますと短所や愚かさ、不足部分を自ら認識し、好転させる努力を重ねた人こそ、社会的にも貴重で大事にすべき人かも知れません。
従って、愚かさなど恐れることなし。
却って、自分に与えられた愚かさほどビッグチャンスを貰った位に考えてみては如何でしょうか。
「愚鈍ぐどん」とか「魯鈍ろどん」、昔良く聞いた言葉です。
それでも良いですよね、可能性を大いに秘めているのですから。
私も自分の知識の浅さにはいつも情けなくなりますが、勉強の機会だけは多分多いと自負しています。
学んでも学んでも少しも賢くはなりませんが、そのお陰で人脈の多さは人後に落ちません。
やはり、自分が愚か者だと認識し、それを跳ね返す努力が加わるととんでもないことになるような気がします。
愚かさに関わる言葉を拾ってみました。
『愚者は己を賢いと思うが、賢者は己が愚かなことを知っている。シェークスピア』
『賢者は自分自身に、愚か者は他人に問いかける。中国のことわざ』
『子供に愚かだと信じさせると、一層愚かな行いをする。ジョンホルト』
『愚か者は、幸福がどこか遠いところにあると思いこんでいる。
利口者は幸福を足元で育てている。ジェームズオッペンハイム』
『愚か者が先延ばしにすることを賢者はただちに取りかかる。「賢者の教え」(経済界)』
https://misterkei0918.yoka-yoka.jp/e279830.html
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Tue, 28 Jul 2009 19:25:11 +0900
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曲がり角に来たときに何かしら示唆になるようなもの
貴方が屍(しかばね)になった後
そんな事を意識する年頃にもなってきました。
人生80年といいます、まだ時間はありますが。
ご先祖様にお会いできる日、お盆も近づいてきました。
私の隣で今日の新聞を見ている家内がいます。
「○○さん夫婦が踏切事故を起こして、奥様が亡くなっている」と声のトーンまで上げています。
確かに。
このご夫婦は私どもの若い頃、起業仕立ての頃に隣に住んでおられたご夫婦です。
今は私共もそのご夫婦も引っ越しましたので離れてはしまいましたが、同じ市内ではあります。
一年に1~2度は必ずお見えになるのです。
決まって選挙の折。
△△さんに是非一票を、◎◎党に投票をとお見えになるご夫婦でした。
この度の事故で奥様がお亡くなりになり、ご主人は怪我をなされたようです。
ご冥福をお祈りしなくては。
果たして、私は屍になったとき、何が残せるのでしょうか。
人の思い出なんて、いつしか忘れ去られてしまいます。
寂しい想いも、時が経てば薄らいでもきますし、安らいでもくるものです。
あるいは自分がその時の事や以後のことを考えることがどんな意味があるのかなと思ったりもしないではありません。
でも、何かしら生きた証くらいは欲しいものです。
決して永劫ではなくても。
少なくとも10年くらいは。
語り草でもいいですよね。
「こんな主人だった」
「こんな父だったね」
「こんなおじいちゃんだった」
「こんな□□さんだったね」
・
・
出来れば、悪い印象や語り草にはなって欲しくないものです。
私が残したいもの。
何か心に訴えるもの、
人生設計上で役にたてるもの、
曲がり角に来たときに何かしら示唆になるようなもの、
それと少しの財産
・
・
『人が死んだあとに残るものは、集めたものではなく、
与えたものである。ジェラール・シャンデリ』
https://misterkei0918.yoka-yoka.jp/e279582.html
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Tue, 28 Jul 2009 08:12:30 +0900
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動物や自然のあり方に適っている・・・
結婚してもしなくても後悔の日々?
キルケゴールのこんな言葉が目に付きました。
『結婚したまえ、君は後悔するだろう。
結婚しないでいたまえ、君は後悔するだろう。キルケゴール』
デンマークの哲学者、宗教家として著名なキルケゴール。
その生い立ちや父親の教育にもよるのでしょうが、際立った性格の様で、ある意味社会にはあまり好意を持って受け入れられていなかったのではないでしょうか。
むしろ異端児扱い?
名前がデンマークの言葉で「教会の庭」とか「墓場」とのこと。
また彼は「デンマークの牧師の敵」とも呼ばれていたとか。
そんな人ですから、上記のような言葉になったのかもしれませんね。
「同じ後悔するなら止めておくか」となりそうですが、人間はそうは出来ていないのですね。
しないほうより、する方を人間はより多く選択をするように出来ています。
結婚するという選択をすることによって、得るものが多いから。
しない選択をするとそれ限りのことで終わってしまいます。
結婚という選択をすることによって
愛する人と添い遂げることの素晴らしさを具現化できる、
本能が満たせる、
子孫繁栄の道に繋がる、
多くの人との新たな接点が生まれる、
子供との関わり、
より社会性が培われる、
人生を一人で生きるより、二人・三人の方が意義深く楽しい、
動物や自然のあり方に適っている・・・・・
などなど。
勝手な私の判断ですが、大よそ皆さんもそのように思われるのではないでしょうか。
何でもそうですが、しないよりはする選択を。
経験は尊いものです。
計り知れない知識知恵は、結局は多くを経験することによって獲得できるものです。
例え失敗しても、得るものは確実にありますしそれは生きてくるものです。
何もしないで後悔するより、経験したり実践したりの後悔のほうがより人間的で、素晴らしいプレゼントをもたらしてくれるものです。
https://misterkei0918.yoka-yoka.jp/e279342.html
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Mon, 27 Jul 2009 17:45:47 +0900
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人生の扉を切り開くのは自分
時の巡り会わせの明暗
幼い頃は親がいないこと、貧しいとか、体のことがどうとか、つまりハンディとかコンプレックスを際立って感じたことはなかったように思います。
親がいなかったことは、私の頭に残っていないだけであるいは寂しい表情だとか、体で表現したりしぐさはあったのかもしれませんね。
万事に頓着のない私ですから、記憶力もありませんしすぐ忘れるのが常です。
小学校に入学すると母親に巡り合いましたので母親のことでどうということはありませんでしたが、父親不在については色んな感情や出来事がありました。
周りの子供たちが持っていても私だけにはないものや欲しいものが手に入らず悲しい想いは幾度となく経験したものです。
あるとき、自転車が欲しいのですが当然買えるわけがありません。
お金持ちで建設会社のぼっちゃんの友人がいましたので、彼の自転車を借りることにしたのですが結局は乗りつぶしてしまった記憶があります。
彼は私に一度なりとも返してくれと言うことはありませんでした。
多分、ご両親も良く知っている間でしたので不憫に思われて、暗黙で上げるくらいの気持ちだったのかもしれません。
勝手な思い込みですが。
人は自分で好んで選んだわけではありませんが、其の時の巡り会わせで人生が好転したり、暗転したりするものです。
時代の流れに翻弄される事態もそうです。
就職氷河期などもそうです。
丁度、就職時にそんな時期に遭遇すると人生設計が狂ってしまいます。
起業をしたのに途端に不景気の波に飲み込まれるなども良くあることです。
自分の精でもないのに。
逆に好景気の時期、引く手あまたの求人で能力以上の企業に就職できたり、高給を手にしたりするものです。
ベビーブームの時に生まれたが為に、生涯、競争に晒される人もいるものです。
戦争だってそうです、その時期に青年期を迎えたが為に命までも落とす結果を招きます。
先ほどの私ではありませんが、親子の問題でもそうですし、障害を背負うこともそうです。
自分で好んで選んだわけでもありませんのに。
でも、その人の一生はどのように生まれようとも命を全うするその日まで、前に進むことを忘れることなく、恥じることなく、正しく、懸命に生きることで道は開けるものです。
また、そのように生きることで報われることは多いものです。
世の中、栄枯盛衰。
恵まれた環境の中にいる人だけが人生を楽しく幸せに全うできるものではなく、むしろ努力をした人にこそその機会は多く訪れるものです。
与えられたものは明暗、悲喜こもごもですが、人生の扉を切り開くのは自分。
そしてどんなに与えられたものが素晴らしいと見えても、それは傍目(はため)のこと。
本当に幸せを謳歌しているかどうかは、その人しか分からないもの。
表目(おもてめ)は良くても苦しんでいる人、貧しそうに見えてもこの世の春を謳歌している人だってたくさんいるものです。
今日も頑張る、頑張る!!
https://misterkei0918.yoka-yoka.jp/e278381.html
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Sat, 25 Jul 2009 10:26:22 +0900
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無理をするな、素直であれ
もっと素直であれば良かったのに
自分の過去を振り返ると、懺悔の塊だったり、後悔の日々です。
「もっとこうすれば良かったのに」、
「他のやり方があったのでは?」
一番悔やまれるのは、素直でなかったことでしょうか。
人は生まれいずるまでの時間は、人は誰でも母親の胎内で等しく育ち生まれてくるような気がします。
お腹にいるまでは多分同じ環境でしょう。
あるいはそれでも違いがあるという方もおられるかもしれませんね。
言われてみると、
いつも夫婦喧嘩が絶えなくて、その騒々しい音や騒動の仲で育つ赤ちゃん、
いつもお酒の匂いに悩まされるお腹、
工場の中でしょうか、いつも金属音や物がぶつかる音の充満する環境、
やさしい音楽に包まれて育つ赤ちゃん、
心優しい会話に包まれる、
粗雑で突き刺すような会話に耳を塞ぎたくなる、
子供たちの賑やかな叫び声に眠れない、落ち着かない環境、
どんぶらどんぶら揺れ動く羊水、良く車に乗る母親でしょうか、
へその緒を伝ってくるニコチン、
感情の激しいお母さんの息遣いや鼓動、
偏食の激しいお母さんのバランスの悪い栄養分、
・
・
そう考えてみると育つにも一様ではなさそうです。
私の素直でない性格も、どの時点で育まれたものなんでしょうか。
もう少し素直であれば、さまざまな場面で素晴らしい成果が残せたのではないかと思ったり、反省したり。
もう今更、直す術はありませんし、手遅れ。
『もし自分が間違っていたと素直に認める勇気があるなら、
災いを転じて福となすことができる。Dカーネギー』
『無理をするな、素直であれ。すべてがこの語句に尽きる、
この心構えさえ失わなければ、人は人として十分に生きてゆける。種田山頭火』
https://misterkei0918.yoka-yoka.jp/e278113.html
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Fri, 24 Jul 2009 18:09:16 +0900
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諦めることの大切さ
諦めることの大切さ
「諦めが悪いね」
物事に執着しすぎるとか、しつこいとか、潔しとしないとか余りいいこととしては使われない「諦め」。
諦めが良すぎるのも困ったものですが、むしろ諦めが悪いほうが弊害は多そうです。
最近しきりに問題になるストーカーだってそうです。
好意をいつまでも捨てきれないで、むしろエスカレートして極端な場合は殺意や誘拐などの凶暴な好意にまで及んでしまいます。
最近もありましたね。
交際を断られている彼女の親を殺して、連れ去った事件。
子育てでもそうでしょう。
過保護や過干渉が子供をどれだけ駄目にしているか。
諦めというか、子供の自主性を尊重し、自立を促し、出過ぎた干渉をしないことのように思います。
本来なら、まっすぐに育つはずの子供が歪(いびつ)な性格に育てられ可哀想な境遇になってしまうこと。
自分の立ち位置を見定める。
すべてが自分の自由になるわけでもありません。
思いの様に事が運ぶわけでもありません。
相手を思いやり、尊厳を可能な限り大切にしながらの適度な距離が大切なようです。
食事をするにも「腹八分」といいます。
満腹に食べたい欲望をほんの少し抑えるだけで、健康を保つことが出来るようにこれ以上食べてはいけないという自制心、諦めの境地が必要なんですね。
子供は自分の物ではないという諦め。
親にとっての子供は自分のものではないとの諦めの境地にはなかなかなれないものですが、預かりもの、授かりものと思えば余計に大切さを認識してしまいますし、肩の力を抜いて教育が出来そうです。
会社は社員やお客様、株主のものであって、社長個人のものでないという諦めの境地。
そのことがむしろ柔軟な発想や思い切った経営が出来そうです。
我が物と思えばつい自分の足元にのみ集中し、高邁な経営理念や未来展望を忘れそうです。
『個人は何ものかに達するためには、
自己を諦めなければならないということを、だれも理解しない。ゲーテ』
https://misterkei0918.yoka-yoka.jp/e278091.html
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Fri, 24 Jul 2009 17:40:12 +0900
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どこかで破綻が来なければいいのですが
不自由になって分かること
自由な世の中になってしまいました。
自由の身になると喜びや幸せに満ち溢れているように夢物語として若い頃は感じていたものです。
自由の素晴らしさだけを語る事が先行して、その影に潜む闇を見ることはありませんでした。
また、「自由の裏には責任が伴う」ことは成人式のみならずいろんな機会で語られながらもお酒が飲める、タバコが吸える、選挙権、ひいては結婚・・・・・私が認識する範囲でもこの程度でした。
自由を謳歌するためにはそれ以上の不自由さが存在することに気づく日々です。
自由がはびこるあまり、かえって不自由さを助長している世の中になってきました。
手に入れた筈の自由は、それが為に生み出された数々の反動や荒んだ心や不心得な人間の存在で却って自由を失う事態になってきました。
最近の法改正を見ていると、ますますもって住みにくい制約の多い社会になりました。
社会が進む?ということはこんなことなんでしょうか。
どこかで破綻が来なければいいのですが。
文明が進むということは、逆に危険な状態を孕んでいると承知していたほうが良さそうです。
自由自由と叫んでいても、「過ぎたるは及ばざるが如し」、足もとを掬われたり、波乱への道を突き進む危険性があることをも。
自由であって知ることも多いものですが、不自由になって分かることも多いものです。
受刑者が刑務所に入ってみて、その不自由さを痛感し、自由の有難さを知るともいいますが、考えようによってはその自由さゆえに犯罪を犯し、そこにいるのでしょうけどね。
再犯の多さを見るときに、却って反省の度合いの浅さや社会復帰の難しさを考えてしまいます。
中には、その不自由さを求めてまた、犯罪を犯す人間もいるものです。
健康を失ったときもそうです。
自由闊達に振舞っていた自分がいざ健康を害して、不自由の中の置いてきぼりを経験したとき、健康の有難さ、それによってもたらされる自由の有難さを痛感するものです。
自由に勉学の出来る経験も有難いものです。
つい、そのように思ってしまうのですが、勉学が出来る環境にあるときにはしないものですね。
恋愛の自由、結婚の自由、信教の自由、教育の自由・・・・・
自由といいながら、「本当に自由なの」って思いたくもなります。
経済も自由経済といって、わが春を謳歌しているように見えますが実態はその犠牲に喘ぐ人や混迷を深める実態が眼前に現れています。
金融も自由にお金を操る錬金術のために、昨年からとんでもない結果になってしまいました。
どうも慌てふためきながらも踊らされているわが身を見るような気がします。
自由の尺度を図る方法があるとしたら、それ以上に混迷の深さの方が遥かに人身までも蝕んでしまうことから考えると恐ろしい事態を引き起こしています。
片方では自由と繁栄、経済的豊かさを享受しながら先行きの不透明さや困難と立ち向かい、一方では自由が欲しいといいながら、自由に食べ物さえ手に入らず飢餓に苦しむ人々がいる。
https://misterkei0918.yoka-yoka.jp/e278090.html
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Fri, 24 Jul 2009 17:38:06 +0900
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感激いっぱいのいのちを生きたい
感動や想いに持続力が加わると現実化する
明日は皆既日食。
46年振りといいます。私の小さい頃に経験したような気がします。
記憶力のない私のことですからいい加減です。
ノートに挟む下敷きをかざして観たのを覚えています。
今調べましたら、1958年(昭和33年)に金環日食があったようです。
そのときは皆既日食ではなかったようですから、太陽の環が出来たことになります。
私の生まれ故郷である奄美大島地方がもっとも素晴らしい観測ができるということで大変な賑わいを見せているようです。
テレビだったと思いますが宇宙飛行士で著名な毛利さんがこの度の皆既日食の番組で語っておられました。
高校時代の部活「科学クラブ」に所属していて、学校を休んでまでオホーツクで観測した其の当時の日食が自分を宇宙飛行士の夢の実現に向かう一歩だったと言われます。
人は人生で、特に若い頃でも幾度となく感動的な場面に出くわすものです。
中でも自分が夢、目標、目的とする事柄の感動的な場面に遭遇したときにその感動をどこまで引きずって、持続的に行動を起こすのかにかかっているように思います。
感動しても只の感動でいいもの、一過性であっていいものと
ぜひ実現したいと思うこと、そのようにありたいと願うことの感動があるものです。
毛利さんも是非、科学の道に歩みたいと思う一存を具現化するための持続的な努力を重ねられた事が宇宙飛行士という普段の人には実現できないことの具現化に成功された一因のようです。
プロのスポーツ選手などもそうですよね。
意外と私どもの近くにもそんな方がおられるものです。
そんなに大それた成功でなくてもいいと思うのです。
自分が将来このようにありたいと願うことが叶うことは素晴らしいものです。
中には法外な、あるいは不埒な、大よそ誰が考えても実現不可能な夢や目標を掲げたりする人もいますが、妙な「夢物語」になっては困りものです。
人知れず、地道に、正しく、迷惑を掛けず、持続的に・・・・・
それと人を大切にすることでしょうかね。
人は一生懸命な人には何処からかしら、手を差し伸べてあげたり、応援をしてあげたり、力を分けて差し上げたりしたくなるものです。
これが持続力にまた拍車を掛けることにもなってしまいます。
『感動いっぱい、感激いっぱいのいのちを生きたい。相田みつを』
『他人を感動させようとするなら、まず自分が感動せねばならない。ミレー(フランスの画家)』
https://misterkei0918.yoka-yoka.jp/e276553.html
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Tue, 21 Jul 2009 16:21:22 +0900
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右手でテーブルに手を着いて辛うじて体を支えています
夢か現実か幻か
夢はほとんど見ることはありません。
ですが、研究では人は誰でも夢を見ているといいます。
それが顕在化する人と私のように見ていないという人といるのでしょうね。
脳の構造なのか。
私の場合はぐっすり寝るほうだからではないでしょうか。
心配事が無いわけではありませんよ。
多分、人一倍悩みの多い方なんです。
人の悩みの度合いが分からないくせに勝手に判断してます。
私のように滅多に夢を見ない人間が見たと意識する夢は正夢に近いとも言うものです。
そんな人に顕在化するということは、余程の事ということなんでしょうね。
今日は午後、テレビを見ていたのですがいつの間にか寝入ってしまいました。
滅多に昼寝などしないのですが。
夢で目が覚めたのです。
何が会議をしているようです。
会議の最後にみんなで起立をしましたので多分、宴会でしょうか。
立ち上がったのですが、どうもふらついています。
右手でテーブルに手を着いて辛うじて体を支えています。
目の前、周囲は見えません、何か丸い明かりみたいなものだけがかすかに霞んで見えます。
気分が悪いわけではありませんが、どうも足元が落ち着かないのです。
倒れそうになるのを必死に堪えています。
折角の集まりなのに会場に迷惑を掛けてはいけないとか、参加者に余計な心配をかけては申し訳ないとか、特にこの会を主催している方に会を台無しにするようなことをしては大変なことになるという思いだけが頭の中で駆け巡っています。
「しっかりしないといけない、しっかりしないといけない」と思っているうちに目が覚めました。
なんという夢だったのでしょうか。
滅多に見ない夢は正夢に近いとは昔から言いますが、果たしてどうなのでしょうか。
最近、左目のことが気になっていますのでこんな夢になったのでしょうかね。
『ひとりで見る夢は夢でしかない。
しかし誰かと見る夢は現実だ。オノヨーコ』
『夢見る力のない者は、生きる力もない。トラー』
『心のなかに夢をしまっておく場所をあけておけ。MLキング』
https://misterkei0918.yoka-yoka.jp/e276173.html
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Mon, 20 Jul 2009 18:38:47 +0900
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葛藤や摩擦を避ける意味でも
想いは百通り
今の政権与党の混乱振り、大よそ次から次へと問題が吹き出てくる或いは思想信条の相容れない纏まりのない烏合の野党を見ていると、余計にこんな想いが過ぎります。
本来、政治は国民の思いやそうでないといけない方向を指し示したり、命や財産を守ることに終始しなくてはいけないはずにも関わらず、自らの意見集約もできず、足の引っ張り合いや責任のなすりあいの様相です。
所謂、そこに権力闘争が重なっているから手に負えません。
どうでも良いから、今一度政治の原点に立ち戻り、誰の為の世紀かなのか、誰から選ばれたのかに想いを新たにして欲しいものです。
政治家でなくても、私どもの日常でも「思いは百通り」。
自分と意見が合わない、気が合わないと毛嫌いしていては結局は自分自身の了見を狭くし、人間関係を狭め、相手からも敬遠されることになってしまうものです。
最初から、人は違うもの、想いは百通りと納得しておけば自ずと自身の度合いを大きくするもののようです。
人は胸襟を開き、人を広く受け入れる度量を持ち合わせている人ほど、世の中では大事にされているようにも思えます。
昔から日本には「長いものには巻かれろ」ということばがあります。
これは強いもには従順であれとか、意見をしてはいけないとか、尻尾を振って就いていくということではなく、年長者や経験者にはそれなりに貴重なものを持っているから旨く利用しなさいとか、経験談を参考にしなさいということとして私は解釈しております。
100%納得できるものはありませんよね。
友人たちと話していても時にそんなことがありますから、ましてや比較的近くない人であれば尚更です。
葛藤や摩擦を避ける意味でも、或いは自分自身の人生の間口を広く保つ意味でもそれぞれに「想いは百通り」と思っていると良さそうです。
https://misterkei0918.yoka-yoka.jp/e275784.html
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Sun, 19 Jul 2009 17:53:31 +0900