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2009年07月18日

理想を失うとき始めて

青春時代の経験は貴重なもの

私にとって青春時代は遥か昔になってしまいました。

でも、私自身の精神構造の多分、半分以上は青春時代に培われたもののような気がします。

勉学、スポーツの思い出、
青春の多感な時期、
精神的な悩みや苦しみ、
身体的劣等の日々、
就職の思い出、
恋愛の思いでも、
結婚の思い出、
不得手な人との付き合いや軋轢、葛藤、
子どもたちの誕生や子育ての奮闘、
多難な船出の起業経験、
戸建自宅住宅の建築、
社会活動への参加、
ボランティア活動への参加、



多分、経験の完成度合いはまだですが、これから人生で培っていくであろう殆どが15,6歳から30歳頃までに経験をスタートしているようです。

人は経験によって強く逞しくなっていくもの。
どれだけ、真剣に、幅広く経験をするのか。

勉学だけではなく、スポーツも、
会社だけではなく社会とも、
家族だけではなく、多くの他人と、
妻だけではなく、他の家族とも、
自分の業種だけでなく異業種とも、



私の青春時代は、歪(いびつ)なものでした。
あるいは、殻に閉じこもった限られた空間の中でただ、悶えていただけのようにも思えます。

その分、今頃になって慌てだしているといっても過言ではないでしょう。
しかも人生の折り返しを過ぎた今になって。

時期を既に逸しているのですが。

仕方がありません。
「今が青春の真っ只中」との想いを抱きながら、遅ればせながら貴重な青春の再構築をしているといっても良いでしょう。

若い方々を横目に見ながら「青春は素晴らしい」「君たちが羨ましい」「今時の若者はなっとらん」等と呟く前に。

私の見方では今の若者のほうが思慮深くて、賢くて、行動的に見えます。


『青春は何もかも実験である。スティーヴンソン』


『青春とは心の若さである。信念と希望にあふれ、勇気にみちて、日に新たな活動を続けるかぎり、青春は永遠にその人のものである。京都真々庵 訓言』


『青春とは人生のある期間ではなく、心の持ち方を言う。年を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき始めて老いる。サムエルウルマン』
  


Posted by mister_kei0918 at 12:14Comments(0)

2009年07月17日

最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている

話しすぎは禁物?

今日は話しすぎてしまいました。

何事もそうですが、過ぎては評価も半減です。
「過ぎたるは及ばざるが如し」
「時は金なり」

子どものしつけも行き過ぎや叱りすぎ、しつこいのは却って過干渉や親のヒステリックな行動やあてつけに思えて、決して教育的ではありません。

逆に、余りにも構わなさすぎ、ほっぽり放しや無視は子どもにとっては存在そのものを拒否されているようでますます嫌なものです。

大事にしすぎるのも、嫌らしいものです。言わば過保護。
至れる尽くせりは、我侭な子どもにしてしまいますし人の為に尽くすことを学ばないものです。

結局は自分を大事にしてくれない人を相手にしない、自己保身、利己的な人間を作り上げてしまいます。

つまりは過保護にする親さえも、自分の為に有益でないとなると無視する傾向だって出てくるものです。

私も3人の子供の親でしたし、PTAの会長、青少年相談員、法務省の保護司、地域の子供達のお世話等も経験しましたので、大変に苦労をしたものです。


話はかなり飛んでしまいましたが、
今日は業界の若い方々へセミナーの講師の依頼がされていましたので、1時間のつもりで話してきました。

所が時間は気にしながら話をしていたつもりですが、結局20分ほどの超過になってしまいました。

申し訳なく思っています。
時間は守らないといけませんよね。

どんなに立派な話だとしても。
(私の話はとても立派とは言えませんが。)

時々はこんな機会があってもいいものです。
緊張感もありますし、まず自分の頭の中の整理にも役立ち、何よりも人の前で話す訳ですからいい加減、嘘八百は許されないものです。

当然、そのために調べ物をしたり、少しは研究をしたりするものです。
そういうことを思うと機会を与えてもらえることが第一、ありがたいことですよね。

次回は時間厳守、気をつけます。


『予期しない事実に当面した時、これを処理できる能力を「沈着」という。
「沈着」の度合いは、心が平静に戻るまでの時間によってはかる。
クラウゼヴィッツ』


『われわれは短い時間をもっているのではなく、
実はその多くを浪費しているのである。
人生は十分に長く、その全体が有効に費やされるならば、
最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている。セネカ』
  


Posted by mister_kei0918 at 08:40Comments(0)

2009年07月16日

酷い時には39度を指しています

蝉の抜け殻にも似て

梅雨も明けないうちから猛暑の気配です。

入梅の頃は若しかすると、カラ梅雨の様相でしたが終盤になって北部九州は梅雨らしい日々も、見受けられました。

一転、数日前から30度を越す毎日です。
車についている外気温のメーターは酷い時には39度を指しています。

事務所、工場のエアコンもフル稼働。

今朝は、木陰の裾にポトンと落ちたであろう蝉の抜け殻発見。

夏の終わりの風景です。

何かしら、心淋しいような、裏悲しいような、そんな想いが交錯します。
何か、役目を終えて虚脱感に教われるような、安堵感に包まれるようなそんな気分でしょうか。

自分の人生を重ね合わしたりするのは私だけでしょうか。

現実にはそんな気分には浸っていることはできません。
緊張感を持って、溌溂と、キビキビとした行動が要求されます。

いわば、そんなのんびりとした風情などや侘びや寂の世界に止まっているわけにはいかないのです。

本当は自然の移ろいや息吹、感動に浸る余裕が欲しいところではありますが。

蝉の抜け殻に、人生やその生き方を重ね合わせる自分に幾らか安堵をしないでもありません。

お前にもまだ、そんな心のゆとりも残っていたのかと。
  


Posted by mister_kei0918 at 11:44Comments(0)

2009年07月14日

敵と戦う時間は短いものです・・・王貞治 元プロ野球選手・監督

時間は遣り過ごすものではなく上手に使うもの

時間は一日24時間、
一ヶ月30日として720時間、
一年365日として8、760時間、

一生80年として700,800時間、
100歳まで生きると876,000時間。

残された時間には大きな差はあるものの、一日に与えられた24時間。
使い方によって、或いは意識するかしないかによって大変な差になってしまいます。

13歳から60歳まで、つまり中学校へ入学したときから一般的な会社の定年(もうすぐ65歳になりますが)まで一日英単語を一つづつ覚えたとしたら、17,520単語を覚えてしまいます。

英単語は大よそ30,000単語といわれますから、半分の15,000単語が理解できていたら十分に会話は可能でしょう。文法は別ですが。

英語を十分に理解していない私が言うと切実感はありませんが。

時間をそのように考えると、同じように与えられているからこそ生かすか殺すか、上手に昇華するか、下手に消化知るか。

大変な違いになりそうです。

特に青春時代のように吸収力が強く、伸び盛りのときこそ大切なようです。

私のように頭が老化していると、覚えた片方では忘れていっていますから多感な若い頃こそ様々なことに挑戦的に取り組むことが大事です。


何方の言葉かは分かりませんが、

『「大切にすると集まってくる」という法則があります。
人を大切にすれば人が集まってきます。
物を大切にすれば物が集まってきますし、
時間を大切にすれば時間が集まってきます。

今、与えられているところを大切に生きることが実り豊かな人生の秘訣のようです。
まずは自分自身を大切にしましょう。あなたのまわりに幸せが集まってきます。』


『時間が多くのことを解決してくれる。
あなたの今日の悩みも解決してくれるに違いない。Dカーネギー』


『敵と戦う時間は短いものです。
自分との戦いこそが明暗を分けるのです。王貞治 元プロ野球選手・監督』  


Posted by mister_kei0918 at 15:10Comments(1)

2009年07月13日

無理なく無駄なくやれる人、やれない人

実はもっと大事な事があるのでは?

「世の中に無駄なものはない」とはよく言われます。

確かに自然界のことを想像すると、必要にして生まれてきたものが全てですから、無駄なものは存在しないのかもしれません。

固体としての人間もそうでしょう。

この世に望まれて存在しているのでしょうし、自然の摂理にのっとって出現してきたものと思っております。

勝手な想像ですが。

ですが、私ども人間の行動や心の働きには、どうも無くてもいいもの、不必要なものが多く存在しているような気がします。

同じ結果を得るのに、私のように回りくどい経過を辿る人、余り努力しているようには見えないけどしっかり結果に辿り着く人。

その人の持ち前の能力というか、スキルなんでしょうか。
無理なく無駄なくやれる人、やれない人。

取り越し苦労のようなものも存在しますし、しなくても良かった苦労なども確実に存在します。

最近、富に思うことがあります。
「本当はもっと大事なことがあるのではないか」

今、現実に眼前に控えていること、現実にやっていることが無駄には思えませんが、実は本来的にもっと私がすべきこと、課せられているものがあるような気がしてなりません。

言葉を変えれば、天命みたいなもの。
使命感を持って望める仕事など。

天命等というとおこがましい思いがしたり、天命を託されるほど能力のある人間かと訝しくなりますが、人は若しかするとそれぞれにふさわしい天命みたいなものがあるようにも思うのです。

それが為に、苦労したり哀しんだり、努力したりするように出来ているのではないでしょうか。

或いは、今私が一生懸命に頑張っていることが実は私に課せられた天命なのかも。
掲題で言う「実はもっと大事な事」なのかもしれませんね。
  


Posted by mister_kei0918 at 21:06Comments(0)

2009年07月13日

泥縄ではいけませんよね

案ずるより産むが易し

「難しい案件やすべきことを抱えていても実践してみると案外スムースにいくものだよ」というところでしょうか。

私の性格は、目前のすべきことを先送りにしていよいよぎりぎりにならないと行動を起こさないほうですから困ったものです。

かといってその間、何も考えていないかというとそうではなく、所謂、悶々としているんです。

それも自分ではちゃんとした理由付けがあるのです。
切羽詰った時まで、
できるだけ情報収集に努める、

常に念頭において置き、整理をする、
漏れや抜けが無いように、万全を期す、
時が来たら一挙に纏める、仕上げる・・・・・

ざっとこんな風に。

泥縄ではいけませんよね、「泥棒を捕まえてから縄をなう」。
それまで何もしないでおいて、慌ててことをなす、これではいけません。
却って困ったことになってしまいます。陸(ろく)な結果にはならないものです。

多分、中にはそんな方もおられると思います。
実は、先ほどの話ではありませんが、悶々としているんです。

本来は、事案が発生したときから具体的に始めていれば、気持ちも落ち着いて悶々等という状況は生まれないのでしょうが。

「案ずるより産むが易し」を言葉通りに解釈すればこうです。

「お産を控えた女性がお腹に抱えたお子さんを産むのに、様々な不安感や将来のこと、子育てなどについて色々悩み苦しむ様を言っていて、実は産んでみると思っていたよりも易いものだよ。」の意です。

が、本来はお産は大変なことですよね。

今でこそ、比較的楽にはなってきましたが、お産時の母子の死亡率も大変に高かったものです。
決して、楽なものではなかった筈です。

本題に戻りますが、

その人の物事への対処の仕方に違いですから、やりやすい方法で取り組めばいいんでしょよね。

その人にとって能率の上がる方法、或いは首尾よくできる方法、懸案事項が上手に完遂できる方法であれば。

できれば、ストレスの貯まらないようにできれば最高かもしれませんね。

物事でも「急いては事を仕損じる」ということもありますが、
期日のあるものは別として揉め事などはできるだけ早めに解決をつけたほうが相手への心証も良く、今後の展開が旨くいくケースが多いようです。所謂「雨降って地固まる」って事でしょう。

臨機応変、物事によって対処もあり方をあけてみる。

そんなことを言っている私自身が結構、悩むことなんです。  


Posted by mister_kei0918 at 09:46Comments(0)

2009年07月13日

棚から牡丹餅が落ちてくる

楼閣は空中に建てるもの?

こんな言葉を見つけました。


『自分の心に描く夢の実現に向かって努力する時、
普段なら思いもよらぬ、成功が得られる。

空中に楼閣を建てても無駄骨には終わらない。
楼閣は空中に建てるものだ。
さあ、その下に土台を建てよう。ソロー思想家』


基礎のしっかりしていないことや土台がなく危険なこと、
根拠の無いことなどを称して「砂上の楼閣」等といいます。

私の感覚で言えば、余り好きなことではありません。
でも、ソローは上記のように言っています。
「空中に楼閣を建てても無駄骨には終わらない」と。

努力している途中で思いもよらず得られる思いがけない成功のことを称してそのように言っているようです。

ある意味、そうですよね。

努力の途中に思いもよらぬ成功が得られた訳ですから、まだすべきことが残っている状態。

つまり土台がまだ出来上がっていない、
基礎部分がまだ十分に完成していないうちに成功という夢が叶ったわけですから所謂砂上の楼閣ができてしまったということです。

人生そういうこともままあるものです。
思いがけず幸運にめぐり合うこと、

棚から牡丹餅が落ちてくる、
他人から突然に与えられること・・・・・

そんな時、気をつけないといけないのは
自分の努力すべきことが残っていること、
自分の力ではなかったこと、

感謝を忘れないこと、
楼閣は崩れ去る危険性を常に孕んでいる事。

いずれにしても成功したからといって油断はできません。
努力の結果がそうであって、それを怠ったら破滅が待ち受けているようです。
  


Posted by mister_kei0918 at 00:19Comments(0)

2009年07月11日

晴れた日は晴れを愛し

東京へ行く前日は必ず雨が降る?

不思議なものです。

東京へ出掛ける前日には、最近必ず雨になっています。

今朝もこれから東京へ出掛けます。
今月3回予定されている内の2度目の上京。

今日の午後はビッグサイトで行われている展示会を幾つか見て回り、
明日は静岡県沼津市のある大手企業の工場見学、

横浜へ戻って「横浜開港150周年イベント」を見学、
羽田へ舞い戻って最終便で福岡へ。

東京へ出掛ける前日に福岡で雨が降っているということは、天気の動きからして今日は東京で雨が降るという図式になります。

かといって、傘持参で行くことは殆どありません。
東京は地下鉄が発達していますので、殆ど雨に打たれることが無いから。

いずれにしてもどうしてこうなるのか。
理由は簡単、今が梅雨時期だから。

つまり雨が降って当たり前。
降らないほうが不思議ということでしょうか。

諦めの心境です。



『人生の暴風雨を恐れたりしていたら、安らぎなんて見つけられません。
エリザベスキューブラーロス』


『濡れているものは雨を恐れない。ロシアの諺』


『晴れた日は晴れを愛し、雨の日は雨を愛す。
楽しみあるところに楽しみ、楽しみなきところに楽しむ。吉川英治』
  


Posted by mister_kei0918 at 14:42Comments(0)

2009年07月11日

結婚が現実味を帯びてくると

本当にお前で良かったのか?

いじけている訳でもありませんし、自信喪失しているわけでもありませんが、皆さんはそんな時はありませんか。

例えば、
今の妻に本当にふさわしい自分であるのか、
子どもたちの父親として自分でよかったのか、

あるいは、
この企業の経営者としてふさわしい社長なのか、
社員の幸せの為に本当にふさわしい社長なのか、

又は、
顧客にとって、付き合うにふさわしい会社なのか、
社会にとって有用な企業なのか・・・・・


逆に言い換えると、
妻にはもっとふさわしかった人がいたのではないか、
子どもたちの為に十分な働きのできる父親は他にいたのでは?

この企業の社長はお前でなければもっと素晴らしい会社になっていたのでは、
お前が社長でなければ社員はもっと幸せだったのではないのか、

顧客にとって当社が相手でなければもっと役に立っていたのでは、
社会にとってもっと有用な、企業でなければ・・・・・

自虐的な感じがしないでもありませんが、私だけでしょうか。

昔、若い頃多分私と似たような経験があるはずです。

恋愛時代を思い出してみてください。
「彼女には自分以上の幸せにできる、ふさわしい相手がいるのではないか」

「恋は盲目」とは言いますが、
結婚間じかになって浮かれてもおれない時期になると盲目だけではいけません。

結婚が現実味を帯びてくると、「本当にお前で良かったのか」等と自問を繰り返したものです。

謂わば、現実逃避的な感じもしないではありませんが、少し弱気になるというのか、一歩引いてみたいというのか、何かしら自分を無力化することで逆に安堵を求めたりしているのかもしれません。

そんな時、気を取り直すというか、今再び自分に気力充電する何物かが必要なんでしょうね。

自信回復というか、復権というか。

でも人はそんな一進一退を繰り返しながら、自信を取り戻したり優位性を確認したり、有為性を再認識しながら成長していくのかも知れませんね。

むしろ健全なあり方かも。

余りにも過剰な自信のみなぎりやそんな反省を経験しないほうが却って恐ろしいことかも。


『自信とは、自分の能力や技量で物事が達成できるかどうかの見通しのことです。
そして、見通しを立てるのは想像力です。
自信のない人に共通しているのは想像力に乏しいことです。Jマーフィー』


『自信を持ちすぎると、危険を招く。フランス、コルネイユ』
  


Posted by mister_kei0918 at 14:34Comments(0)

2009年07月08日

この私が、今頃後悔してもどうにもなりませんが

若さは大切に

若いから無茶ができる、
若いから無理が利く
若気の至り・・・・・など。

でも、若さを無駄使いしてはいけません。

無理や無茶が後ほどに、有用に働くこともありますがどう見ても将来にわたって役に立つような行動でもないことに時々ぶつかります。

関係も無い社会や個人に理由も無く、暴力を振るったり、迷惑を掛けたり、損失を与えたり。
人の感情を逆なでするような行動をしたり。

自然や構造物に、我侭な行為をしたり・・・・・

若いときには無駄に見えても大いに回り道も必要ですし、その行為が大人から見たら無茶であったり、到底無理なことであったり、若気の至りであってもいいものです。

一部の心無い若者の為に、大勢の若者がそのことによって動きを制約されたり、窮屈な社会制度で縛られたりもするものです。

若い時代は二度とは来ません、当たり前のことですが「後悔するのはいつも過ぎ去った後」です。

多くの若者を見ていると、やはり若いときにそれなりの努力や頑張りを見せてくれていた人は、社会に出てからもしっかり自分の立場を確立したり、それなりの処遇や地位を得ているような気がします。

自分の今の行動が先々、どのように跳ね返ってくるかは大よそ想像の及ぶところではありませんが、社会規範や常識、人の痛みくらいは分かるものです。

早くから、親や兄弟、先生を含め周辺から教わっていくことも大切ですよね。

自分の体や心を大切にすることと同じくらいに人や社会を大切に思う心を早くから備えた人が社会でも勝者になっていくものです。

特別な例が無いではありませんが。

二度と戻り来ない青春時代をどのような態度で過ごすのか?

そのことの大切さを誰よりも早く知っていることが、人生を寄り楽しく、より豊かにする早道のような気がします。

この私が、今頃後悔してもどうにもなりませんが。  


Posted by mister_kei0918 at 19:15Comments(0)

2009年07月08日

様々な社会活動に勇気を奮って参加してみる

あなたの自慢は何ですか

私にそのように問われたら、どのように答えましょうかね。
つい考えてしまいます。

自慢というと、
人より秀でているところ、
絶対的な自信に裏づけされていること、
十分な実績のあること、
他人が間違いなく納得してくれること、


その人の性格にも寄りますから全ての人が私と同じように判断するとは限りませんがほとんどの人がそのように考えるのではないでしょうか。

私には、
我慢強い、
協調性はそこそこある、
お世話が好きで上手?


特筆すべきものは何一つ存在しませんね。
むしろ自慢できないところやいけないところ、改善しないといけない事を聞かれると山のように出てくるのですが。

でも、人は一つでも秀でたところがあると、それだけでも十分に自信を持って生きてゆけます。

また、秀でた一つが他のそうでないところを隠してしまう効果をもたらしたり、逆にその部分まで自慢できるところまで引き揚げてくれたりもするものです。

或いは、秀でた自慢できるものが無くても幾つかのそこそこのものがあると、相乗的にその人のあり方や立場を変えてくれたりもします。

決して、秀でた自慢できるものが無くても良い様にも思えるのです。

自慢というと、自己顕示的に思えないでもありませんが言葉を変えて言えば、自分に自信をもたらしてくれるものと解釈してもいいと思います。

世の中で華やかに、もてはやされて生きる必要は全く思いませんが、折角生きるなら一つでも小さくても自分の旗印くらいは立てたいと思うのは私一人ではないでしょう。

それが、できれば社会や地域の為になれば尚更のことです。

それには埋もれていてはいけませんよね。
いろんな方にお会いする、様々な社会活動に勇気を奮って参加してみる。

そのことが自分の再発見や自慢の創造につながり、小さな自信の確立が可能にもなるものです。


『最大の名誉は決して倒れないことではない。
倒れるたびに起き上がることである。孔子』  


Posted by mister_kei0918 at 12:46Comments(0)

2009年07月06日

それこそ、徒労というものです

努力は報われて欲しい!!

世の中には、幾ら頑張っても頑張り甲斐が無いとか、無駄な努力とか、報われない努力とかあるものです。
何のためにここまで頑張ったのかとか悔やまれるときが多いものです。

でも、世の中無駄な努力というのは無い様に思うのです。
そりゃ、何も考えずにしかも何か得ようとする思いが無い努力ではいけませんよね。

それこそ、徒労というものです。

いくら努力してもそれは無駄な働きになってしまいます。
却って努力しなかったほうが利口だといわれても仕方が無いかも知れません。

別に打算的な意味ではなくて、折角なら何か得ようとする能動的な態度や行動であって欲しいものです。

世の中の大よそ成功者といわれる人々は、多かれ少なかれ、そんな人々が多いように思われます。

言葉や文字の本来の意味は別として、私どもが努力という言葉に対して抱くイメージや響きは、ただ労力を使う、汗水垂らす、時間を遣り過ごすということではありませんよね。

しかも他人を搾取したり、抜け駆けをしたり、他人の努力を無駄にしたり、横槍を入れたり、陥れたりすることでもないと思うのです。

折角なら、努力は報われて欲しいものです。

勉学に勤しめばそれなりに成績が向上し、
スポーツに頑張れば、体力が向上し、精神力が培われ、順位も自然と上がり、
営業に精を出せば、それなりに業績が上がる、


そうあって欲しいものです。

でも、世の中には成就しないこと、報われないことは多いものです。
そんなときでも、自分の努力は確かに足跡を残したり、将来の為の布石の一つになっていることを信じていたいものです。


『自発的な努力によらなければ、
善良にも偉大にも幸福にもなることはできない。ウィリアムロバートソン』


『才能は長い努力の賜物である。フローベール』


『順調な進歩は、しっかりした基礎によってのみ保証され、
豊かな実りは、着実な努力の積み重ねによってのみ約束される。中原道喜』
  


Posted by mister_kei0918 at 22:28Comments(0)

2009年07月05日

私もあと一踏ん張りして

何処にメタボリックシンドロームの人が?

今朝も福岡市中央区の大濠公園でのウォーキングへ行ってきました。
時間は6時頃というのに大勢の人々です。

ここ数日間、雨が多かったことで満を持して皆さんがお出でになったということでしょうか。
それと今朝の気候が、爽やかで体を動かしたいのでしょうね。

私は一時、メタボ状態に近づいたことがあります。
顔は丸くなっているし、お腹は突き出てきたし、体は重いし。

若い頃は50から重くても60キロ以下だったわけですし、メタボに近づいたら当然重くなっているはずです。

私も実はそのような経緯からウォーキングを始めました。
体重は、多分8キロくらいは落ちていると信じています。

歩いている皆さんも私と同じようにメタボ解消のために頑張っているのかと思いきや、皆さんスリムでむしろメタボどころか、健康体そのもの。

明らかにメタボ状態の方をわずか数名は見かけます。
普段、街を歩いていると本当にメタボのおじさん達が歩いてますよね。

ということは、本来のメタボの方々がウォーキングをして今の状態になったのか、或いは最初から健康体の方々が維持の為や増進の為にしているのか。

どうも後者のような気がします。

きつい言い方をすれば、メタボの人はこのように運動などしない、朝早くからきつい思いなどしないのかもしれませんね。

内臓脂肪型肥満によって、さまざまな病気が引き起こされやすくなった状態を『メタボリックシンドローム』といいますが、今では治療の対象として考えられるようになってきました。

目安は大人の男性は胴回りが85センチ、女性が90センチ。
最近は子どものメタボが問題になっていますが、中学生が85センチ。小学生が75センチ。

特に今の季節は、汗びっしょりになりますので気分も爽快に成りますし、どうも肌もしっとり艶々になるような気がします。

周りを見渡す限り、本来のメタボの方々は多分、お家でゆっくり、ぐっすりなのでしょうね。
私もあと一踏ん張りして、完全にメタボとお別れしスリムなおじさんになってみたいものです。
  


Posted by mister_kei0918 at 13:02Comments(0)

2009年07月04日

格差や幸不幸、悲喜こもごも、艱難辛苦

不幸に生まれた子は幸せになる権利がある

幸福なのか、不幸なのかを判断する基準など有りはしません。

物が豊富にあれば、幸福に感じる人もいるでしょうし、
お金が沢山あっても不安な日々を送っている人も多いものです。

物質的には恵まれてはいなくても、十分に幸せだと感じている人もいます。

幸不幸は、主観的なものですから傍目から幸せそうだとか、苦労が多そうだとか、様々な憶測、詮索はしますが実のところはなかなかわからないものです。

いつもにこやかでさわやかに見えていたのに実は大変な苦労を背負っていたとか、私の知人はそんな素振りは微塵もなかったのですが自殺をしてしまいました。

当然、びっくり仰天です。

逆も多いものです。

幸不幸の度合いや深さも色々。
同じ程度の幸せでも、その人によって感じ方も違いますし表現の仕方も全く違うものです。

小さなことでも幸福感を体いっぱいに漲らせる人がいるかと思えば、羨むほどに恵まれていてもちっとも幸せそうではない人。

良く、人間には一生を通じてみると平等に幸不幸は訪れるものと聞きます。
本当はそうではないですよね。

如何ともし難いこの世の幸不幸の差の存在を却って否定するが如き言葉です。

不幸に生まれた子は幸せになる権利があるものです。
その言葉が本当だとしたら「不幸に生まれた子は幸せになる権利がある」と叫びたいのです。

人は廻り来る幸せが真実だとしたら、この世を誠実に、篤実に生きることを全ての人々が選択するのではないでしょうか。

言い方を変えれば、格差や幸不幸、悲喜こもごも、艱難辛苦・・・掴みどころの無い正体不明な人生だからこそ、

また、何処に幸不幸が転がっているかさえわからないからこそ生きようとするんだという見方も真実かもしれませんね。


『自発的な努力によらなければ、
善良にも偉大にも幸福にもなることはできない。ウィリアムロバートソン』

『自分自身を幸福だと思わない人は、決して幸福になれない。
サイラス(アケメネス朝ペルシャの王)』


『人生は学校である。
そこでは幸福より不幸の方が良い教師である。フリーチェ』
  


Posted by mister_kei0918 at 12:33Comments(0)

2009年07月03日

自分の能力の是非はさておいて

高邁な夢に振り回されるな

夢は実現させてこその夢であって、実現不可能な、到達不可能なことは夢ではなく戯言(ざれごと)だったり、ほら吹きの類(たぐい)、虚言でしかないように思います。

そのように言うと、それでも良いんだとか、だからこそ夢なんだと言われそうです。

余りにも高邁な夢に振り回されて、足元がしっかりしない、浮き足立ったような状況でいたのでは目前の実現可能なことでさえも見失ってしまうからです。

折角、夢を描くなら実現可能な程度が良さそうに思うのです。
私どもが寝床の中で見る本物の夢も実は現実の生活のただの延長線上のことに過ぎません。

物事の実現は小さいことの積み重ねや地道な努力の結果です。

絵に描いた夢は、実現しても砂上の楼閣のごとく長持ちはしませんし、いつ崩れ去るとも知れません。

身近な夢を一つづつ、一つづつ、辛抱を重ねながら実現した夢は現実のものとして大きな感動を伴いますし、持続性があって、それがまた次の一段上の夢の実現の為の原動力となってくれるものです。

余りにも夢のような結婚を期待する恋愛は、いずれ破綻の道を歩むのは良くあることです。

恋愛といえども、浮き足立たず、心を落ち着かせて、当面の倹しくても新しい家庭のスタートに大きな期待を掛けるほうが、素晴らしい夢を現実化させ、素晴らしい家庭を作る早道でしょう。

就職でもそうです。

自分の能力の是非はさておいて、高邁な夢ばかりを追い求めるが為に貴重な就職の機会を逸し、本来なら素晴らしい機会を得るはずであったのにいつの間にか年齢を重ねる結果になってしまった例を嫌というほど見てきました。

それが為に人生の設計までも描けなくなった人もいるものです。

手の届くところに幸せは待っています。

夢の実現は自分の力で作り上げていくもの。
実現に向かって集中的に、継続的に、果敢に、挑戦的に挑むことが大切なようです。

夢を掴んだであろう多くの人々に接することがあります。
その方々は小さな努力を厭うことなく、人の縁の下の力持ちであることを実践した人々でした。


『トップになるには何が必要か。
集中力、鍛錬、そしてひとつの夢。フローレンスグリフィスジョイナー』


『人間にとって成功とはいったい何だろう。
結局のところ、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、
努力したかどうか、ではないだろうか。岡本太郎』  


Posted by mister_kei0918 at 23:01Comments(0)

2009年07月02日

カラスの歩き方をご覧になったことがありますか

「雀百まで踊り忘れず」

昔、年寄りたちが「三つ子の魂百まで」とか、「雀百まで踊り忘れず」とか良く言っていたのを思い出します。

「幼い時に教えてもらったことや経験したことは百才までも覚えているもんだよ」の喩えです。

雀は百歳までも飛び跳ねる癖が抜けないことを人に置き換えたのでしょう。
雀は幾つ位まで生きるかは分かりませんが百歳ということはないのでしょうけど。

最近わかったことですが、雀の歩き方をつぶさにご覧になったことがありますか?
人間は歩く時に左、右、左、右と両足を交互に出して歩きますが雀は違うんです。

2本の足を一緒に揃えてピョン、ピョンと飛び跳ねて歩いているんです。
カラスの歩き方をご覧になったことがありますか。
人間と同じなんです。

雀はそれだけエネルギーを消耗する度合いが大きいと思うのです。
人間が両足を揃えて、ピョンピョンと歩くことを想像してみてください。

多分、人間が今のように百歳など生きることは不可能でしょう。
そんなことから想像すると雀は短命に思えます。

昔、中国の毛沢東が雀を農作を食い荒らす外敵と証し、雀を木や屋根や地面に止まらせないようにするために鐘や太鼓を叩かせて、殆どの雀を死なせてしまった歴史があるようです。

結局はそのお陰で害虫を食べてくれていた筈の雀がいなくなった事で農作物が大不況になったということでした。

話しが飛んでしまいました。
小さい頃から色んな事を教えたり、経験させることの大切さを教える言葉です。

それが経済的理由や親の不理解のために出来たはずの教育や多くの経験が出来なかったり、おろそかになることは悲しいことです。

出来ればせめて子どもにだけは公平に平等、均等にそんな機会が与えられるとうれしいものです。

最初から、機会が均等でないのは折角の素晴らしい能力を埋もらす事にもなりますし、社会にとってももったいないことです。

また、人の在り方や大切さを幼い頃から教えることの大切さを思うとき、様々な理由でその機会を与えられないことは社会の損失でもあるような気がします。

「雀百まで踊り忘れず」を今一度、思い起こしてみたいものです。  


Posted by mister_kei0918 at 20:21Comments(0)

2009年06月30日

見事に喜びに変えてしまいます

久しぶりの涙笑い

涙が出るほど可笑しくてたまらないことを「涙笑い」といいます。
若い頃にはそんな頃もあったような気がします。

さぞかし、若い女の子なら「箸が転げても可笑しい」という表現をしますがそれの極め付けでしょうか。
笑いすぎて、顔の表情はくしゃくしゃ、涙でぐしょぐしょです。

笑うことは心身の健康に素晴らしい効能があるようですから、日常的に笑っていたいものですが、そういうわけにもいきません。

でも、そういう中でも私自身は友人や先輩たちから「いつも笑っているね、素晴らしいね」とは良く言われます。
内心穏やかでないことも結構多いのですが。

笑いの考察を拾ってきました。

笑顔の表現・・・笑顔、爆笑、大爆笑、苦笑、失笑、冷笑、照れ笑い、微笑、愛想笑い、空笑、嘲笑、憫笑、哄笑、・・・・・

笑顔の種類・・・含み笑い 薄ら笑い せせら笑い 作り笑い 苦笑い 思い出し笑い 独り笑い 高笑い 馬鹿笑い 追従笑い 貰い笑い 誘い笑い

昨日は久しぶりに涙笑いを経験しました。
家内と創業時の話をしていたのです。

私自身はあるコンピューターメーカーからの起業でしたので今の仕事の経験は全くありませんでした。

仕事の中身も良くは知りませんでしたし、
技術的なことも全く無知、
営業もどうして良いのか分かりません、

顧客もありません、
仕入れを何処からしたらいいのかさえ知りません、
当然、経営など全く経験なし、

銀行との付き合い全くなし、
当然、業界の人も全く知りません、
人を使うなど、したこともありませんし、

増してや労務管理など、



「そんなことでよくも商売が出来たね」、
「あんなことがあった、こんなこともあったね・・・・・」

二人で思い起こしながら、涙笑いになってしまいました。
創業時 過酷な経験、想像を絶する経験をしたのですが、時はそれを見事に喜びに変えてしまいますし、涙を流して笑うほどに滑稽化してしまいます。

「終わり良ければ全て良し」ではありませんが、言わば今日のこの結果を招くために過去の全ては存在していたような気がしないでもありません。

涙は全てを洗い流してくれる作用と良き思い出として倍加する作用を併せ持っているものです。


『気持ちが萎え、ときには涙することもあった。
だが、涙を恥じることはない。
この涙は、苦しむ勇気をもっていることの証だからだ。フランクル』  


Posted by mister_kei0918 at 17:05Comments(0)

2009年06月29日

今は自殺者が3万人を越える

最後は運を天に任せる想い

何処まで努力すれば、明るい兆しは見えるのか。
いつまで頭を悩ませば運は開けるのか。

どれにも分かりませんし、結果として運が開けるのか、好転するのかさえ想像できません。

中には過去の経験値に当てはめて、
大よそ、想定の範囲内に収まり方向性がつかめるものもありますが。

苦しんだり、悩んだりいよいよの所まで努力を重ねるのは大事なことですし、それを避けては物事の好転もありませんし、開けるはずの運さえも取り逃がしたりも致します。

私自身が究極のところまで追い込まれたことがありませんので、想像で語るのですが人は極限になると生とか命とか、或いは家族とか財産とか、しがらみとか・・・・・

そういう俗的なものから遊離?するのではないでしょうか。

そこまで至る前に人は「運を天に任せる想い」が働かないといけないと思うのです。
今は自殺者が3万人を越える状況になっております。

私も友人の数名を自殺で失いました。
至って悲しいことです。

様々な形があるでしょうから私ごときが憶測をすべきことではありませんが、失った友人たちの最後の姿からはそんなことを思い起こします。

人は悩むことから逃避してしまうと、結局は悩みの中に埋没をしてしまいますし、結局は如何ほどの解決にもなっていないことに気づくものです。

いよいよ人間として弱い方向へ弱い方向へ引きずられてしまいます。

人の心はそれぞれに耐えられる悩みの強弱はあるものですが、「最後は運を天に任せる想い」に至ることが大切なようです。

他人の悩みを見ていて「まだ頑張れる、まだ頑張れる」と他人は思いがちですが、その判断はあくまでも個人のものでしょうし、燃え尽きる前に天に任せる位の器量が大切なようです。

それは諦めてしまう、匙を投げることとは大よそ異なることです。


『どんな困難な状況にあっても、解決策は必ずある。
救いのない運命というものはない。
災難に合わせて、どこか一方の扉を開けて、救いの道を残している。
セルバンテス』


『すべての不運や、つまらぬ物事に対して、上機嫌にふるまうことである。
上機嫌の波はあなたの周囲にひろがり、あらゆる物事を、あなた自身をも、軽やかにするだろう。
アラン「幸福論」』


『強い人間は自分の運命を嘆かない。ショーペンハウエル』  


Posted by mister_kei0918 at 18:19Comments(0)

2009年06月28日

他の視線など邪魔なだけ

世界一愛されているという実感

つい先日、3人目の孫が生まれました。

嬉しいですね。有り難いですね。
命の続きを感じます。

彼らがすくすく育ってくれるのでれば、私に出来ることはして上げたい気分です。
祖父祖母の気持ちってそんなものかもしれません。

両親は大変ですよね。

私も妻と二人で(というか子育てのほとんどは彼女がしたのですが)していた子育て時代はそれはそれは必死でした。

丁度、子育てとともに事業に取り組みましたので当時は夜も昼もない時期が平行して続いたものです。

妻にも申し訳なかったし、子どもたちに対しても十分な愛情を注ぐことも出来ず申し訳なかったと大いに反省しております。

有り難いものです。

そういう中でも子どもたちはすくすくと健康に育ってくれました。
彼らは私に取っては人生の同伴者と思うほど素晴らしく育ってくれました。

自分の事を振り返ってみると、それはそれで素晴らしい人生なんです。
いろんなことはありましたよ。
人の経験しないことや、人生を捨てたくなったことも。

それは一般の人々がそうであるように
両親に恵まれて、
経済的にも中くらいで、
独りでも兄弟がいて
体も健康で、


であればあと少しは増しな人生だったとは思います。

今と違った人間に出来上がっていたでしょうし、あと少しはまっすぐな心持ちだったかもしれません。

孫たちには是非是非そうあって欲しいものです。
「“誰かに世界一愛されている”という実感」の中ですくすくと育つ環境であってほしいものです。


恋人たちの様子でもそうですよね。

お互いに世界一愛し合っている二人の眼差しは他の視線など邪魔なだけで、幸福の絶頂に浸りきっているものです。

長いこと連れ添った老夫婦の姿にも時々そんな姿を見受けることがあります。

こんな言葉を拾ってきました。(本人に失礼かな)


『子供たちがのびやかにすくすく育つために必要なのは、
理路整然としたルールや整備された環境ではなく、
実は“誰かに世界一愛されている”という実感なのではなかろうか。』  


Posted by mister_kei0918 at 16:04Comments(0)

2009年06月27日

「口ほどにもない奴」

身の程、身の丈をわきまえる

自分の身の程や身の丈を常に見極めようとしたり、意識をして行動する人は案外、
心の動揺が少なく、
自身の葛藤の度合いも弱く、
他人との諍いも少ないように思えます。

自身の現実の姿を過大評価しすぎたり、或いは卑下にも近いほど過小評価をする人、或いはしがちな人といったほうが良いでしょう。

中には自身を見極める力や能力のない人もいるのかもしれません。

いずれにしても自分自身を正しく評価できないが為に、自身が苦しんでみたり、自分で墓穴を掘ったり、他人との関係がうまく調和できなかったりするものです。

私はどちらかといえば、自分を極めて低く評価してしまうタイプ。
オーバーな言い方をすれば卑下、卑屈。

実は本来の思いは逆で人に正しく大きく評価して欲しい要求は強いものがあるものです。

が日常の態度としては、
出来るだけ人前には出ない、
先頭に立とうとしない、
議論も控えめ、
すぐ譲ってしまう、


消極的な人の鏡、悪い意味での鏡みたいなものですね。

余り、表に出たがる人も困り物ですが。
「口ほどにもない奴」などがそうでしょうか。

それも自分の身の程や身の丈を知って対処するならいいのですが、困るのは自分の能力を知らずして人の上に立ったり、仕事を引き受けられると困ったことになるものです。

余分なことをし過ぎるが為に関係をこじらせたり、逆に期待ほどの結果が出せずにトラブルの原因になったりして。

出来れば自分の身の程、身の丈をそこそこわきまえていて、控えめであるくらいが丁度良いかもしれませんね。  


Posted by mister_kei0918 at 18:20Comments(0)