歳の精なのか、ついに自然に溶け込む術を覚えたか
歳の精なのか、ついに自然に溶け込む術を覚えたか
最近、季節の変動に敏感になってきた自分を感じます。
どうも、年齢の精なのかと思ったりもします。
今日は大宰府へ出かけました。
国立九州博物館と太宰府天満宮。
目的は梅の花、というより梅の香りを求めてというのが正直なところ。
国立九州博物館の後方の駐車場の入り口のある梅園と、
太宰府天満宮本殿後方の梅林、久しぶりに最も奥にあるお石茶屋や遂道まで見てきました。
風下に立った時のかすかな梅の香りは何とも言えません。
「もう春はそこですよ」と囁いてくれているようです。
一昨日には春一番も吹いたし、黄砂は飛び交うし。
何度となく、梅の観賞には出かけてますが最近は鑑賞だけでは飽き足らなくなってきたようです。
歳の精もありますが、多分精神的な落ち着きや少しばかりのゆとりがそうさせているのでしょうか。
人はこんなことを重ねながら、ついには自然の中に戻っていくのかと思いを先に馳せたりもしているものです。
悲しくのあり、楽しくもあり、少しの期待もあり。
『一所懸命に働いているものには、決して歳をとるということはない。
私は、自分の葬式の日をもって、人生からの引退の日とする。エジソン』
『歳月は、元来、長久なものであるが、気ぜわしい者が、自らせきたてて短くする。
天地は、元来、広大なものであるが、心根の卑しい者が、自ら狭くする。
四季は、元来、のどかなものであるが、あくせくする者が、自ら煩わしいものとしている。菜根譚』