2008年05月26日

「貯徳旦那と天命」どう思う?

「貯徳旦那と天命や 如何」・・・・・2回目のその9

ある著名な先生から頂いたお題に対する私の思いです。2回目の参加です。
私の個人的な思いですので夫々の方で違って当たり前。皆さんもご自分に問うてみては如何でしょうか。

貯徳旦那、
福岡・博多では、男が「旦那衆」と呼ばれ、女性が「ごりょんさん」と呼ばれるには地域や社会でそれなりに努力を重ね、知名度や品性や人間性がある程度、認知をされた人であることが条件です。

多くの人々に揉まれ、社会的な貢献度も高く、人間的に尊敬され、何事にもリーダー的であることが望まれます。

それは長い時間と、衆目の一致するところでないと「旦那衆」、「ごりょんさん」にはなりえないものです。

幾ら自分で徳を貯めても自己満足でもいけませんし、自画自賛でもいけません。

蓄えた徳はやはり人々や社会の為に役に立って始めて徳といえるのではないでしょうか。
それと徳は短期間の精進でも身につくものでもないように思われます。

長い時間とそれなりの葛藤や苦悶が伴い、血と成り肉となって体の一部となっていることが大事なように思います。

それがそれとなく滲み出るような人間になれればあり難いものです。

貯徳問答講の様にこれでもかこれでもかと、繰り返し自分に問いかけることが必要に思います。

天命、
どうも、天命というと生まれてきたときから私自身に課せられた役目、役割かと認識をしておりましたが、貯徳を重ねるうちに自分自身の考えが動いてきたような気がします。

天命は生まれ育ちの中で、私自身が会得したもの、体得したもの、例えば知識や経験の中から社会的に有用なもの、或いは人間が歩む上での重要なものが天命ではないのかと思うようになってきました。

ですから、天命を授かるにはそれなりの努力や体験、精進が必要ではないのでしょうか。
そのことが実は私なりの天命を作っていくということに繋がっているように思われます。

出来れば、
時間をかけて、努力をして、苦しんで作り上げる私の貯徳がそのうち天命ともなって家族や社員、地域へ還元が出来れば素晴らしい人生になりそうです。

一長一短には徳も中々蓄えることも出来ませんが、地道な努力は全てがそうであるように私自身にも変化が出てくることを期待したいものです。

一つの雨粒が長い時間をかければ石にも穴を開けるように、私の心に風通しのいい無垢な心が育って欲しいものです。



Posted by mister_kei0918 at 07:32│Comments(0)
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