2009年03月21日

やはり差はある。標本木に準(なぞら)える

やはり差はある。標本木に準(なぞら)える

差がないと人は努力も創意や工夫もしないものです。
特に私のような、ずぼら者は。

中には、自分で目標を立て、自分を鼓舞しながら頑張る人もいます。

そうでなくても差は歴然と存在するものです。
人間としての権利や命の尊厳は、全ての人に平等に与えられねばいけませんし、主張する権利が存在することは誰もが認めるところです。

ところが日常的に生活を営んだり、仕事をする上での能力は確実に差があります。
その差が如実に生活の差に現れたり、脅かされてはいけません。

だから、社会には扶助の精神や共助、共同の心が存在するものです。
また、人は扶助されるだけではいけません。

自分が社会や周りに対して、何をどれだけお返しが出来るのか、扶助できるのかも真剣に考えねばいけません。

相互扶助の精神がないと、社会が成り立ちませんし、求める人で溢れかえるとんでもない社会になってしまいます。

今朝は去る13日に史上最早の開花宣言された福岡管区気象台のソメイヨシノの標本木を見てきました。
14日の早朝から3度目になります。

沢山の種類の標本木がありますがソメイヨシノは2本。
開花宣言された木はほぼ8割程度の花が咲いていますが、後の一本は40~50位の花しか咲いていません。

場所も日のあたりも栄養状態、年齢もほぼ同じでしょうがそれだけ差が存在します。
自然社会には全ての物に差が存在するんですね。

同じ種類、同じ環境、同じ世代であっても
元気な木、そうでない木。
低い木、高い木。
花を良くつける木、そうでない木。
早く朽ち果てる木、そうでない木。


個人差、個体差
ダ-ウィンの進化論
優性遺伝・・・・・考えさせられます。



Posted by mister_kei0918 at 08:52│Comments(0)
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