2009年05月31日

気持ちに邪まなものが存在しているから

「物厚ければ、情薄し」?

昔からこんな事を聞かされました。

持たざる者の僻みの様の聞こえますし、真実のような気もします。

所謂、下心の表現方法として考えれば確かにその下心が大きいほど、物は大きいもの、より高価もの、よりインパクトの強いものへとなってしまいます。

でも、下心でなくても思いが強いか重ければ差し上げるものはより大きいもの、より高価なもの、より心の表現が相応しいものへとなってしまいます。

お金持ちで気持ちが伴えば、もっと大きいもの、目の飛び出るほど高価なもの、想像もつかない程の印象深いものになるのかもしれません。

日本の極めて著名な歌手の方が、病院へ入院されました。
担当の医師の方が頂いたものは高級時計、どうも?百万するのではないかと。

バブル全盛の頃、中洲に通うお客さんが行きつけのお店のホステスさんに何の見返りも求めずに立派なお店をプレゼントしたとか。

見返りの程は定かではありませんが。

結婚で言えば、結納金の大きさや持参金の多さ。
極めて象徴的なことかもしれません。

結納金や持参金が多いから幸せの度合いも大きいかといえば全くそんなことはありませんよね。

人はまた、貰うものによってその人の評価をしたり、思いの深さと勘違いもするものです。

ある病院では、全ての謝礼は絶対禁止と聞きます。
あったら、即刻首とのこと。

命の重さはお金でも物でも量れないという崇高な精神の表れです。

患者にとってはありがたいことですが、とわ言え、何かお礼、お返しをしたいという思いは日本人の基本的な精神の中の染まっているようにも思えます。

亡くなったときの戒名も金額によって、字画や文字数が違うとか。

墓地に行くとつい墓石に刻まれた戒名の長さでついその人の裕福さや地位を推し量ろうとする浅はかさが滲み出てしまいます。

世間的には物の行き交いは余り望ましい風習ではないという意見が多いようにも思いますが、私自身は素晴らしい風習だと思うのです。

差し上げるほうは、そんなに金額や大きさに拘らずに心を込めて差し上げれるようになるといいですね。

貰うほうは、惑わされないで、しかもあげる人の魂胆を詮索したり、思惑に差別することの無いようにあって欲しいものです。

昔、江戸時代かもしれませんが、こんなときには此れ位とか、暗黙の了解が存在したとも聞きます。

お金や物に左右されないで、純粋に人としての付き合いが出来ると嬉しいですね。

日本人は感謝の気持ちを物に託す文化がありますから、それはそれで素晴らしい風習だと思います。

運用するわれわれの気持ちに邪まなものが存在しているから良くないんですよね。



Posted by mister_kei0918 at 16:24│Comments(0)
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