2008年01月21日

行き過ぎた愛がもたらす結果は

「感謝修心と適愛 如何」

去る1月11日に頂いたお題に対する私なりのご返答です。

『素晴らしい御題を頂いて有難う御座います。
先日のブログやSNSに「感謝って何なの?」を書いたところでした。

私の勝手な解釈なのですが

『感謝とはお蔭様を感じ、それに答えようとする姿勢』と綴りました。

感謝を表す言葉が「有難う」であったり「すみません」であったり。
行動としては軽い会釈もそうでしょうし、目の動きでも表せるものです。

物やお金、労力、或いは時間で償う事も出来るかもしれませんが、やはり響くのは「感謝の念」に適うものはないように思われます。

純粋で、下心でない感謝の思いを真の自分の心のあり方として我が心の中に造っていく事、修めていくことやその努力が感謝修心ということになるのでしょうか。

自分の心のあり方に、精進を重ねても重ねても様々な迷いや欲や憶測が付きまとっております。

人間、死ぬまでこんな状態で全うするのかとも思いますが、迷いや欲の中からこそ真実や本来の心のあり方を模索するような気も致します。

人の愛し方も様々夫々ですが、
自分の思いだけで相手を支配できるものでもありませんし、逆に相手の思いだけで支配されてもいけないでしょう。

余りにも愛情が深すぎた為に人間関係を崩してみたり、とんでもない方向に進んだりもするものです。

象徴的なものが「溺愛」でしょう。

世の中の悲惨な事件やトラブルが溺愛によって引き起こされたものが少なくありません。

行き過ぎた愛がもたらす結果は余りいいものではないでしょう。

逆は「放任や無関心」でしょうか。

これでは人間関係の構築は順調には行きませんし、変な不信感や猜疑心が充満してしまいます。

言われるように人間として適度な距離、適度な深さを持った愛情こそ必要なものかもしれませんね。

感謝に包まれた心とそれに裏づけされた愛情こそ、幸せの女神の前髪を掴む道具かもしれません。』



Posted by mister_kei0918 at 16:34│Comments(0)
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